旧出石郡但東町(たんとうちょう)は兵庫県の北東部、但馬地域に位置した町です。町の西が出石町、和田山町に、東・南・北で峠を挟んで京都府福知山市、京丹後市、夜久野町、加悦町、野田川町と隣接。町域に占める山林・原野の割合は総面積の87.6%で、典型的な山間農業地域となっています。京都府に突出しているという地理的条件から京都文化の影響が非常に強く、特に特産である絹織物は京都西陣と深い関係があり、古くから地場産業として発展してきました。そこで織られた「但馬ちりめん」を京都へ搬出した事から、 街道は人・経済・文化の交流する「絹の道」となりました。「町の木:ケヤキ」「町の花:三つ葉つつじ」を制定。登尾トンネルの壁画は、但東町中山地区にある「日本・モンゴル民族博物館」。
明治22年(1889)、町村制の施行により、出石郡合橋村・資母(しも)村・高橋村が発足。
1956年、出石郡合橋村・資母村・高橋村が合併、出石郡但東町が発足。
2005年、豊岡市・出石郡出石町・城崎郡城崎町・竹野町・日高町と合併し豊岡市但東町となりました。
マンホールには、日本列島と但東町の経度・緯度、「町の花:ミツバツツジ」が描かれています。
但東町栗尾にある子午線通過の標識、動物と標語は、その年毎の干支に変えられているそうです。
昭和35年9月30日制定の町章は「但東町の平仮名の頭文字「た」を図案化したものです。」
卵かけご飯専門店「但熊(たんくま)」。知る人ぞ知る「とっても美味な卵かけご飯」が食べられるお店なんだそうです。御亭主殿、かなり心動かされたようですが、生卵が苦手な私が一緒なので諦めたんだと・・何度も愚痴られました(笑)
撮影日:2011年3月31日&2014年11月14日
https://blog.goo.ne.jp/match1128/e/bec6c80f99198081b7f09c2de5c6f355
生活貯水池ダムと呼ばれる地域密着型の小ぶりなダムで、マニア的には今一つ面白みのないダムですので、どうしても記憶は希薄になってしまいます。
もともと祖父のフィールドワークについて回り、奥崖など大峯奥駈道など登山も経験していましたが、この本を読んだことで登ることを目的として山に入るようになりました。
第一志望の某国立大に落ちた際、進学先に選んだのも植村さんの母校でもある明大。
当時はバブル最高点で東京は浮かれ気分で充満していましたが、ちょっと男臭くてイモ臭い当時の明治の校風は私によく合っていました。
群れることを良しとせず、常にソロで動いた彼の生き方は、大勢に合わせるのがうっとうしい私にとっては理想形です。
どんな感じなんでしょう?
いわゆるバンカラ風みたいな?
学生時代のまっちさんって
まっちさんが自認されるように、
群れるを良しとせず
我が道を行くタイプだったのでしょうね
山を愛し、山に登る事を愛し
一人を楽しみ、一人でいる事を楽しむ
まさしく青春を謳歌されたんですね
珍しいマンホールを見せて頂きました。日本列島の図柄・・
お国自慢、郷土自慢が普通なのに、但東町の人たちは日本国そのものを自慢しているのでしょうか。面白いですね。
しかも「日本・モンゴル民族博物館」、但東町にはどんな歴史が眠っているのでしょうね。そう思ってみますと、「馬の標識」の馬も、足の短いモンゴル馬に見えてきます。
巷で流行る「多文化共生」の先輩みたいな町ですね。「今頃そんなことを言っているのか ?」と、街の人は軽薄な風潮を笑っているのかも知れません。
訪ねてみたくなりますが、免許返上しましたので、杖をついての旅ではと、私も諦めました。
兵庫県では「西脇市」「明石市」。
どちらも、子午線が通る街がコンセプトです。
旧但東町はマンホールだけの為に通過した自治体なので
申し訳ないくらい紹介出来るものが有りません。m(_ _"m)