車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

矢彦(やひこ)神社 in 長野県辰野町小野

2022年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町小野に鎮座される信濃国二の宮「矢彦神社」。上伊那郡五十四か村の総鎮守で、御祭神は正殿に『大己貴命・事代主命』。副殿に『健御名方命・八坂刀賣命』。南殿に『天香語山命(あまのかごやまのみこと) ・熟穗屋姫命(うましほやひめのみこと)』北殿に『神倭磐余彦命(かみやまといはあれびこのみこと)・誉田別命』。明治宮に『明治天皇』を祀ります。

由緒「神代の昔、『大己貴命』国造りの神業にいそしまれました所、御子神事代主命・建御名方命をしたがえて、この地にお立ち寄りになったと伝えられ、暫くの御在所を、彌比古澤の須賀の地に定めました。その後、欽明天皇の御代(539~571)に正殿・副殿を整え須賀の宮と称し、越後一宮:彌彦神社の御祭神を南殿に奉斎し矢彦神社の姿が整いました。白鳳二年(674)天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造営し、正遷宮祭と御柱祭とが七年毎の式年祭と定められました。安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曾山林より伐り出し社殿を造営し、以後約七百年にわたって宮材を木曾山林から出材されることになりました。」

正面軒唐破風の拝殿・左右回廊は天明2年(1782)、諏訪立川流の棟梁『立川和四郎富棟』による造営。切妻・銅板葺・平入・白木造で、いずれも長野県宝の指定。これほどの社殿なのに、秋の日暮れは急ぎ足過ぎて画像が今一つ鮮明ではありません。

諏訪立川流の棟梁『立川和四郎富棟』は、「諏訪神社下社・秋宮神楽殿」を手掛けた人物。諏訪の地ではかなりの頻度で彼の残した寺社彫刻を目にします。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、天保13年(1842)建立の狛犬さん一対。瞼の上に深く影を作る前額、鼻下と顎に蓄えた髭もきちんと整えられており、いかにも紳士的風貌。

鮮明な画像を残せない事は時間的なものとその時は諦め、巡って来た二度目の参拝でリベンジを予定。それなのに「拝殿を直しています」の立て札・・😭  もちろん狛犬さんにも会えませんでした。

天保13年(1842)造営の「勅使殿」。切妻・銅板葺・白木造の四脚門で間口1間。同じく長野県宝の指定。

同じく天保13年(1842)造営の「神楽殿」。切妻・銅板葺・妻入・桁行4間、梁間3間で、彫刻は拝殿と同じく『立川和四郎富昌』作。長野県宝の指定。

神楽殿の左右に樅の巨木で作られた「弥彦神社:一の御柱と二の御柱」、裏手には 三・四の御柱があるのですが・・・😓

「宮内庁御寄附神社紀念標」「忠魂碑」

矢彦神社の池畔に芭蕉:句碑【古池や  蛙飛こむ  水のをと 】

「社地境界標・・・かって、小野・弥彦の両社は古くは1つの神社を成していたといわれるが、小野盆地において飯田城主:毛利秀頼と松本城主:石川数正の領地争いがあり、天正19年(1591)に豊臣秀吉の裁定によって盆地が北小野・南小野に分けられたことに伴い、神社境内も分割された。北小野・南小野の境界線は当社南方の小川であるため、両社の境内は北小野の地籍であったが、社叢南半分の矢彦神社が南小野の氏神となり、矢彦神社境内は南小野の飛地という扱いとなり、この状態が現在に至るまで続いている。」

「阿)お侍さんのやる事はよ~~わからんが、まぁ自分の領土を護れん御領主さまには誰もついて来んけに、そういう事もしかたないかもしれんなぁ」「吽)ほやのぉ。神さんのござらっしゃる土地を半分に分けるやなんて、秀吉はんもけったいな事を考えはったもんやのぉ~」・・・・なんてね😅

という事で、明日は小野・弥彦両神社の例祭を紹介します。

参拝日:2010年10月3日&2016年4月26日


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