瑠璃光寺本殿への参拝を終え、そのまま史跡:萩藩主毛利家墓所へ向かいます。
「「香山墓地」は萩藩主(毛利本家)の墓所で、13代毛利敬親が居城を萩から山口に移して、以降の墓地として使用するために造成されたものです。明治4年(1871)に敬親公が山口で亡くなってこの地に葬られ、14代毛利元徳夫妻、15代元昭夫妻等、七基の墓があります。」
「大江朝臣敬親卿御墓」長州藩13代藩主毛利敬親の墓
一応、七基の画像はあるのですが、13代藩主の墓と「毛利本家歴代諸霊之墓」以外は確信がなく、紹介は二基のみ💦
「勅撰銅碑(山口市指定有形文化財)」、明治天皇が毛利敬親の偉業を伝える為に明治29年に建立。篆額:『彰仁親王』。書:『野村素介』。
「瑠璃光寺:香山公園のサルスベリ」。案内には「このサルスベリの木をご覧ください。途中から松が生育しています。サルスベリの木は滑りますが、松の木が生えた事で滑らない・・」という事で各種メディアにも取り上げられ、受験生に人気のパワースポットとして一躍有名になりました。
萩藩主:毛利敬親が藩庁を萩から山口に移した際、政事堂の近く一露山の麓に建てた茶室。一露山の一の字を省いて「露山堂」と名付けられました。
「敬親は、茶の湯を楽しむふりをして身分に関係なく家来らをこの一室に集め、実際は幕府に対する謀り事の議論を重ねていました。露山堂は、廃藩の後は他の場所に移築され、持ち主も数人かわり、使用されることもなく崩れ落ちていきました。これを知った、敬親の側近を長く務めた品川弥二郎は、その由緒ある建物が朽ち果てるのを惜しんで志を同じくする人と相談し、資金を集めてその建物を買収。明治24年(1891)4月、現在の場所に移しました。」現地案内より
着物の袖に形が似ていることから名がついた「誰が袖の手水鉢」
移築の際に造られた庭園
【 露山堂の ふかきひさしの 羽も秋 】
旧安部家の離れ「枕流亭(ちんりゅうてい)」。もと一の坂川河畔にあったのが由来で、内部の見学も可能😊
この建物の階上において薩長連合が密議をかさね、連合討幕軍の結成を誓いあった・・・まさしく明治維新の曙をつくった記念すべき建物として「明治維新史跡」に指定されています。
「紙本栄一先生之像:「居合道範士」「剣道範士」として全日本剣道連盟居合の制定に尽力した人物。」とのこと。
香山公園内には沢山の碑が建立されています。まずは(長州はいい塔を持っている)で始まる、「司馬遼太郎「街道をゆく(一)」長州路より
「若山牧水歌碑(二十一歳の時、五重塔を見て詠んだ歌)」
【はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 古塔のもとに 立てる旅人】
『友廣保一』歌碑【在り慣れて 散歩のところ池の辺に 五重塔に心はよりて】
「正月の ゆきのしろいろ 瑠璃光寺」「田を植ゑて ほたるをまつや 水の上」・・と読んだのですが
瑠璃光寺を読んだ句が登場したところで、明日は「国宝:瑠璃光寺五重塔」の紹介です。
参拝日:2013年4月17日&2015年11月11日
有難いことに御亭主殿が
しっかり目を光らせてくれるので
(一応)おとなしくしております
と言いつつ、パソコン開いて徘徊しております。💦
体調を崩されたと聞いて、心配になってコメント欄にお邪魔してしまいました。
大変な中、私のほうのブログにコメントをくださり、ありがとうございました。
どうぞ無理なさらず、ゆっくりお休みになって、また楽しいコメント、お待ちしていますよ!
しっかり養生なさって、元気になってくださいね。