今朝、新聞を見ていたら「バウムクーヘン」というコラムがあってこんなことが書いてあった。
「・・・実のところ、ドイツでバウムクーヘンはそれほどメジャーなお菓子ではなく、若者の中にはバウムクーヘン自体を知らない人もいるらしい。
ベルリンにも、バウムクーヘンを売るお店は何軒かあるものの、正直言って、味は日本のバウムクーヘンの方が格段に美味しいのである。・・・」
僕はバウムクーヘンいうたら日本の大福餅のようなもの、誰でも知っとるんやと思うとったけど、そうでもないらしい。
でもまあ、最近日本でも大福を知らない若い人もいるかもしれないが。
下は広島市のホームページ。
多くの若者が中国などへ送られ、たくさんの負傷兵が帰って来た似島・・・
日本で初めてバウムクーヘンが作られたのは似島やと書いてある。
このブログにも何度か書いたけど、古い広島の手話では似島を「ドイツ」と表す。
初めて手話を教えてもらった時、「安芸の小富士から来た富士山の形や」と教えてもろうたんやけど、その後年配の人の話の中からドイツやとわかった次第。
ドイツ兵の収容所があったからなあ。
日本でバウムクーヘンを普及させたカール・ユーハイムは、今から90年以上前、ドイツの租借地であった中国のチンタオ(青島)で、ドイツ人相手にケーキを焼いていました。第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本が、チンタオを陥落させたのが大正3年(1914年)11月でした。彼は結婚したばかりでしたが、多くの捕虜と一緒に日本へ連行され、大正6年2月には大阪の収容所から似島に移されたのです。
開設当時の似島の捕虜収容所の収容人数は、540名あまり、場所は、現在の似島臨海少年自然の家あたりで、建物・畑・テニスコート・サッカー場を含めた1万6000平方メートルほどでした。捕虜となった人々は色々な作業についており、印刷所では新聞も発行されていました。
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似島臨海少年自然の家で行われた「キッズ平和スクール」で子ども達が焼いたバウムクーヘン(写真)
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大正7年11月ドイツの降伏により、捕虜達にはより一層の自由が与えられることになりました。翌年には、捕虜チームと広島高等師範の学生とのサッカーの試合が行われています。
そんな中、ユーハイムは捕虜収容所でバウムクーヘンを焼いていましたが、彼が最も活躍したのが大正8年3月4日から始まった広島県物産陳列館(その後、広島県産業奨励館に改称。現在の原爆ドーム)での捕虜製作品展覧会でした。初日の入場者は7,400人を数え、その後も押すな押すなの大盛況が続いたといいます。当時の書物によると、工芸品、絵画、サンドウィッチやコーヒーなどという、当時としては、まだまだ珍しいものが並び、多くの市民をヨーロッパに行った気分にさせたとあります。
中でも菓子は、教師の初任給が20円だった当時、初日だけで150円を売り上げ、一番の人気商品でした。当日の様子を中国新聞が紹介しており、これが日本人とバウムクーヘンが最初に出会った出来事とされています。
大正9年に捕虜生活から開放されたユーハイムですが、そのまま日本に残り、横浜に自分の菓子店を開店しました。ドイツ、中国、日本と波乱万丈の人生を過ごしたユーハイムが、似島の地に残したバウムクーヘンは今や全国に広がっています。
暮らしの中から作られて来た手話表現を大事にしたいなあ、とは思うが 言葉やから当然時代とともに変わっていくんやろう。
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