所沢・平和のための戦争展実行委員会の主催で、1970年に公開された映画「沖縄」の上映会が開かれました。
会場は、所沢地区労会館でコロナ渦で席を空けて座り、限定20人の上映会でした。
今、沖縄は県議会議員選挙の真っただ中です。5月15日には本土復帰48年目を迎えましたが、現在の沖縄は辺野古への米軍基地の強行など、復帰前の沖縄と本質的には変わっていない状況が続いています。
そんな沖縄との連帯を兼ねた上映会でした。
映画を見て改めて、沖縄の厳しい現状がどのようでもたらされたのかを知ることが出来ました。機会がありましたら、ぜひ、この映画を見ることをお勧めします。
劇中の「沖縄を返せ」の歌を掲載します。併せて、映画の解説を転載しますので、歌を聞きながらお読みください。
映画製作から50年、今こそ語り伝えたい沖縄の真実!
忍従と悲しみの日々は終わった
民族の魂を
海鳴りにも似た
烈しさでゆさぶり
ぶっつける一大ロマン
今から50年前、返還直前の沖縄でロケを敢行し製作された『沖縄』は、劇映画でありながら、当時の人々の暮らしや街の風景、基地のB52などがそのまま映り込んでいる貴重な記録映画でもある。
公開当時は劇場上映ではなく、ホール上映を中心に上映運動が展開され、全国津々浦々を巡回上映していく中で、国内での沖縄復帰運動を大きく高揚させる役割を果たしたと言われている。
映画製作から半世紀経った今でも、沖縄は同じ問題で闘っている。この根深い問題の根源は一体何なのか。ぜひ眼を見開いて本作をご覧いただき、沖縄について考えるきっかけにしていただければ幸いです。
この作品は本土復帰前の1969年に製作上映された作品です。1968年11月沖縄初の主席選挙で民主統一候補の屋良苗氏が当選しました。それは戦後沖縄の歴史を変える素晴らしい出来事でした。沖縄県民の本土復帰の願いがここに結実したわけです。それから1年、沖縄の日本復帰は大きな高まりを示しました。
しかし、アメリカの核戦略基地としての日本復帰であるとすれば、それは平和を守る人々の願いを歪め、同時に歴史の歪曲も意味します。ここに沖縄無条件全面復帰運動の意義がありました。
第一部では土地を奪われた農民たちの怒りと闘いを描いています。第二部では教育労働者、基地労働者たちの共通した”民族の自覚に燃えた怒り”を主題に、全編を通じ沖縄の即時無条件全面返還の闘いを描いています。
第一部 一坪たりともわたすまい
アメリカに土地を奪われた島袋三郎は、基地周辺の米軍物資を物色していた。
「ウチナーンチュ(沖縄人)のものを盗めば泥棒だが、アメリカーナのものを盗むのは戦果だ」。これが三郎の生活哲学であった。
アメリカの基地拡張は急ピッチに進んでいった。平川の強制接収は威嚇射撃で始まった。平川土地を守る会の古堅秀定は、米軍将校に銃をつきつけられ、契約書にサインを強要されたが、きっぱりと拒否した。
演習が始まった。玉那覇朋子の祖母カマドは、戦闘機の機関銃で胸を打ち抜かれて死んだ。しかし、あたかも軍用地で死んだかのように見せかけられ、何の補償もない。
カマドの埋葬は、軍用地の中にある祖父の墓に向かって白旗ののぼりを立てながら進んでいった。それは抗議の列でもあった。
第二部 怒りの島
十年後、ベトナム戦争でアメリカはあえいでいた。基地は拡大され、沖縄を基地にB52を出撃させていた。戦争が激化する中、基地労働者の労働条件は厳しさを増していった。働く者の権利を守り、ベトナム人民支援の闘いに、組合はストライキを準備していた。
三郎は、米軍にスト破りのスパイを強要されるが、一蹴した。朋子の弟の亘は、米軍のトラックに跳ねられ即死した。亘の教師は軍事法廷で、「アメリ力民主主義のウソ」を糾弾したが、陪審員たちは犯人の無罪を決めた。ストライキ体制はこうした緊迫の中で着々と固められていった。
翌朝、全基地がシーンと静まりかえっていた。ストライキが決行されたのだ。
会場は、所沢地区労会館でコロナ渦で席を空けて座り、限定20人の上映会でした。
今、沖縄は県議会議員選挙の真っただ中です。5月15日には本土復帰48年目を迎えましたが、現在の沖縄は辺野古への米軍基地の強行など、復帰前の沖縄と本質的には変わっていない状況が続いています。
そんな沖縄との連帯を兼ねた上映会でした。
映画を見て改めて、沖縄の厳しい現状がどのようでもたらされたのかを知ることが出来ました。機会がありましたら、ぜひ、この映画を見ることをお勧めします。
劇中の「沖縄を返せ」の歌を掲載します。併せて、映画の解説を転載しますので、歌を聞きながらお読みください。
映画製作から50年、今こそ語り伝えたい沖縄の真実!
忍従と悲しみの日々は終わった
民族の魂を
海鳴りにも似た
烈しさでゆさぶり
ぶっつける一大ロマン
今から50年前、返還直前の沖縄でロケを敢行し製作された『沖縄』は、劇映画でありながら、当時の人々の暮らしや街の風景、基地のB52などがそのまま映り込んでいる貴重な記録映画でもある。
公開当時は劇場上映ではなく、ホール上映を中心に上映運動が展開され、全国津々浦々を巡回上映していく中で、国内での沖縄復帰運動を大きく高揚させる役割を果たしたと言われている。
映画製作から半世紀経った今でも、沖縄は同じ問題で闘っている。この根深い問題の根源は一体何なのか。ぜひ眼を見開いて本作をご覧いただき、沖縄について考えるきっかけにしていただければ幸いです。
この作品は本土復帰前の1969年に製作上映された作品です。1968年11月沖縄初の主席選挙で民主統一候補の屋良苗氏が当選しました。それは戦後沖縄の歴史を変える素晴らしい出来事でした。沖縄県民の本土復帰の願いがここに結実したわけです。それから1年、沖縄の日本復帰は大きな高まりを示しました。
しかし、アメリカの核戦略基地としての日本復帰であるとすれば、それは平和を守る人々の願いを歪め、同時に歴史の歪曲も意味します。ここに沖縄無条件全面復帰運動の意義がありました。
第一部では土地を奪われた農民たちの怒りと闘いを描いています。第二部では教育労働者、基地労働者たちの共通した”民族の自覚に燃えた怒り”を主題に、全編を通じ沖縄の即時無条件全面返還の闘いを描いています。
第一部 一坪たりともわたすまい
アメリカに土地を奪われた島袋三郎は、基地周辺の米軍物資を物色していた。
「ウチナーンチュ(沖縄人)のものを盗めば泥棒だが、アメリカーナのものを盗むのは戦果だ」。これが三郎の生活哲学であった。
アメリカの基地拡張は急ピッチに進んでいった。平川の強制接収は威嚇射撃で始まった。平川土地を守る会の古堅秀定は、米軍将校に銃をつきつけられ、契約書にサインを強要されたが、きっぱりと拒否した。
演習が始まった。玉那覇朋子の祖母カマドは、戦闘機の機関銃で胸を打ち抜かれて死んだ。しかし、あたかも軍用地で死んだかのように見せかけられ、何の補償もない。
カマドの埋葬は、軍用地の中にある祖父の墓に向かって白旗ののぼりを立てながら進んでいった。それは抗議の列でもあった。
第二部 怒りの島
十年後、ベトナム戦争でアメリカはあえいでいた。基地は拡大され、沖縄を基地にB52を出撃させていた。戦争が激化する中、基地労働者の労働条件は厳しさを増していった。働く者の権利を守り、ベトナム人民支援の闘いに、組合はストライキを準備していた。
三郎は、米軍にスト破りのスパイを強要されるが、一蹴した。朋子の弟の亘は、米軍のトラックに跳ねられ即死した。亘の教師は軍事法廷で、「アメリ力民主主義のウソ」を糾弾したが、陪審員たちは犯人の無罪を決めた。ストライキ体制はこうした緊迫の中で着々と固められていった。
翌朝、全基地がシーンと静まりかえっていた。ストライキが決行されたのだ。