3日目は朝から雨模様、原爆資料館に着く頃には本降りでした。
資料館の本館は耐震工事で休館中でした。東館だけが開館していました。
東館前の郵便ポストです。
「郵便は世界を結ぶ」と刻印されていました。確かにそうです。しかし、私は「郵便は世界の平和を結ぶ」として欲しかったです。郵便局は現役時代の私の職場でした。戦争中、郵便局は「軍事郵便」を運び、その軍事郵便は軍隊の検閲を受けていました。そんな時代が再び来ないよう「郵便は世界の平和を結ぶ」として欲しかったです。
資料館東館に入ると入り口にこんな時計がありました。
入館したのは8時55分でした。その下の数字は広島に原爆が落とされた後の日数だそうです。26615日。72年余が経ったことを示しています。
その下の数字は、世界のどこかで核実験が行われた後の日数です。北朝鮮が世界の世論に反して核実験を強行しています。その北朝鮮の核実験から289日しか経っていません。この核実験が行われない日数をドンドン増やし、未来永劫増え続けてゆくことを祈りたいと思いました。
展示は多岐にわたり見ごたえのあるものでした。
原爆が落とされた瞬間を動画で示していました。
最初の展示室です。左上の物体が原爆です。穏やかな朝を迎えた広島が、この原爆がさく裂した瞬間に死の街に変わりました。
直後の市内の様子です。
原爆直下はすべて破壊されましたのでこれは少し離れた場所の様子です。
救援を求める市民ですが、救援のすべさえありませんでした。
原爆投下目標に広島が選ばれるまでの経過、原爆開発競争の歴史、アメリカのビキニ水爆実験の島民の被害などなど展示されていました。
これらの展示を平和学習の子どもたちが熱心に見入っていました。
これは原爆で亡くなった幼児の乗っていた3輪車です。
70年も経て、核兵器廃絶に少しでも役立つのであれば・・と最近遺族が寄贈したものです。そんな新たな遺品も展示されていました。学生服、着ていた上着、文具や日用品などです。
もっとも衝撃を受けたのがこの写真です。
折り鶴の子のモデルとなった佐々木貞子さんの亡くなった時の写真でした。
佐々木禎子ちゃんは、広島に原爆が投下された日、放射能を帯びた"黒い雨"に打たれ被ばくしました。10年後の1955年に白血病が発病し、わずか12年でその生涯を閉じた少女です。
禎子ちゃんが「折り鶴」に込めた思いとは?
禎子(さだこ)さんが生きた4675日
佐々木禎子(ささきさだこ)さんは1943(昭和18)年に生まれ、2歳(さい)の時に被爆(ひばく)しました。
運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆(ひばく)から10年後に突然(とつぜん)
白血病であると診断(しんだん)され入院しました。
千羽鶴(せんばづる)がお見舞(みま)いに贈(おく)られたことをきっかけに、
「生きたい」という願いを込(こ)めて折り鶴(づる)を折り始めます。
8カ月の入院生活の末、家族が見守る中亡(な)くなりました。
その貞子さんをモチーフの原爆の子のもモニュメントが作られ平和公園の中心に置かれています。昨日も一昨日もここを訪れました。
そんな折り鶴に触発されてか、アメリカのオバマ大統領も現役大統領として初めて広島を訪れ、次の言葉を添えて、折り鶴を捧げました。
「私たちは戦争の苦しみを経験しました 平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」
私は世界のすべての国の元首が広島を訪れて欲しいと思います。核兵器保有国も核兵器を持たない国の元首も広島・長崎の資料館を見れば、「核兵器のない世界をめざす勇気」を持つようになると思うからです。世界で唯一の被爆国の日本の為政者にも本当に「核兵器のない世界を追求する勇気を」もって欲しいと思いました。
東館だけの展示ですが、3時間余をかけて見てもとても見学しきれませんでした。
東館を出るときも本降りの雨でした。原爆で犠牲になられた方々の涙雨のような気さえしました。最後に「国立原爆死没者追悼祈念館」に参拝して帰路につきました。
雨の中、広電に乗って広島駅に行きました。
昨日は運休した新幹線でしたが、幸いにも、この日は定刻通りの運航でした。その新幹線の中でトラブルが起きました。
熱海近くまで来た時、連れ合いの命綱の液体酸素がなくなってしまったのです。
急遽、車内で予備として持ち歩いていた酸素ボンベと取り替えました。この取り換え作業が慣れていないため、モタモタしました。新幹線の車中で酸素による事故でも起こしたら大問題です。ヒヤヒヤしながらも無事切り替えをすることができました。
帰宅のラッシュ時間の山手線、西武線を乗り継ぎ午後8時所沢に帰着しました。
広島・東京が4時間、東京・所沢が2時間以上と私たちにとっては長旅でした。でも、それ以上のことを学ぶことのできた広島への旅でした。
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