人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

人生の終わりの「1曲」~亀山郁夫氏のエッセーから

2011年07月18日 07時17分06秒 | 日記
18日(月・海の日).昨日の日経朝刊文化欄にロシア文学者で東京外国語大学学長の亀山郁夫さんが「人生終わりの”1曲”」というタイトルのエッセーを書いています.

「”離れ小島に1冊だけ本を持っていくことができるとしたら,どんな本を選ぶか”と聞かれれば,ドストエフスキー最晩年の小説「未成年」と答える.それでは”人生の終わりに聴きたい1曲は”と聞かれたら・・・ここで名を明かすことはしない.20世紀ロシアの作曲家が書いた映画音楽,とだけ記しておこう」

20世紀ロシアの作曲家で映画音楽も書いた人といえば,ショスタコービッチしか思い浮かびません フェルゼンシュタインのあの有名な映画「戦艦ポチョムキン」に付けた彼の音楽でしょうか.答えは亀山さんにしかわかりません.

「最近CDを整理し,時代順に聴くことにした.パーセル,バッハ,ベートーベンと時代を下ってきたが,感興らしきものが少しも起こらない.例の「1曲」の順となり聴いてみたが,胸に迫るものがまったくない ケニアで事業を展開する大学の先輩に悩みを打ち明けると”思い切ってレゲエとかヒップホップとか聴いたらどうですか”と言われた.ここ数年,大学と家との往復を繰り返している中で,何か大切なものを見失っていたのだろうか.その間も,小さな”奇跡”を求め,オーディオ装置の前に空しく立ち続ける日々が続いていた」

「先輩は言う”ぼくはね,象がのし歩く草原を眺めながら,グスタフ・マーラーの音楽を聴くんですよ”.自分になにが欠落していたのか思い当たった.そうだ,もう何年も,私は象を見失っている.人間が何かに感動するには,何よりも,満たされていないという心の状態が不可欠なのだ.音楽を,最高のドラマとして経験するには,純粋な音の響き以外に何かを聴き取る飢えた心が必要なのだ.その先輩は私に”あなたは幸せすぎるのですよ,でも,その幸せの感覚こそは,確実に老いを加速させる心の錆なのです”と言おうとしていたのかもしれない

アフリカのケニアで仕事をしていて,時にマーラーの音楽に耳を傾ける.現地の音楽事情はどんなものか,音楽を聴く望ましい環境があるとは思われません.しかし,音楽に飢えていれば,どんな環境にいても聴こうとするでしょう.ラジオだろうが,安価なCDプレーヤーだろうが,聴きたいものは聴くでしょう

「結局のところ,私は,毎晩,書斎に閉じこもるうちに,現実との接点を見失っていたのだろう.音楽が仮にどれほど高貴な美しさを保証してくれるにしても,魂を揺り動かすほどの感動にそれを変えていくには,それこそ何かしら恐ろしく人間くさいものを受け止めようとする持続的な心構えが必要らしい

視点がちょっとずれるかも知れませんが,私もかつてはCDを買い集めていた時期がありました.コンサートに行けば1回当たり6~7千円はかかるし,1回限りで消えてしまう.CDだったら3~4枚は買えるし,手元に残る そんな考えで,平均すると1日1枚の割合で買いまくっていた時期がありました.それが積もり積もって4,000枚のコレクションになったのですが・・・しかし,一度に何枚もまとめて買うために,それをゆっくり聴いている暇がないのです こうなると,”音楽を聴いて感動する”世界からは最も遠いところにいってしまいます

いつの日か”このままではいけない”という自覚が芽生えました.10枚のCDを買うよりも1回のコンサートを聴きに行こう,と 生のコンサートはやり直しが効きません.まさに真剣勝負の世界です.ひとりひとり生活基盤や考え方が違う人々がそのコンサートを聴くために集まってくるのです そして演奏者と聴衆は音楽を通して時間と空間を共有するのです.演奏が素晴らしければ,そこに同席した聴衆は同じように”魂を揺り動かされる”のです

さて,現時点で”終わりの1曲は?”と問われたら,モーツアルトの「ピアノ協奏曲第23番K488」を挙げます.演奏はマウリツィオ・ポリーニのピアノ,カール・ベーム指揮ウイーン・フィルによる1976年の演奏です

  

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