最高の作戦と最高の行動が重要

2025年02月05日 12時45分14秒 | その気になる言葉

▼生涯、学び続けることだ。

成長し続けることだ。

その人が、人生の勝利者として光っていくことができる。

▼キューバの英雄ホセ・マルティの精神こそ、新しい人類社会の前進にあたって、人々の心を潤す文化と英知の源となる。

ホセ・フリアン・マルティ・ペレス(José Julián Martí Pérez, 1853年1月28日 - 1895年5月19日)は、キューバの著作家、革命家。19世紀後半のキューバ独立革命に参加し、キューバ史における英雄としてだけでなく、ラテンアメリカにおけるモデルニスモの先駆者としても名高い。

ホセ・マルティは活発な独立思想家であり、その思想は多く彼の文学作品に反映されている。

彼はその思想のために各地を転転とする生活を余儀なくされたが、妻のカルメンはこれに耐え切れず、マルティが米国に移住する前に二人の子供を連れ彼の下を去っている。

この事はマルティを精神的に傷付けたが、その逆境を乗り越え自分の息子に捧げた名作「イスマエリーヨ」を完成させた。

また、放浪の生活にあってもその創作意欲は衰える事無く、多くの作品を残している。

▼歴史を通覧せよ―文豪ユゴー

歴史は、時の権力者の意向など、一部の主張をもとに編まれることが少なくない。

だからこそ、一時的な評価を<事実>とするのではなく、歴史を通覧し<真実>を見抜く大切さをユゴーは指摘した。

▼歴史を歪める悪と戦わなければ、真実の歴史は歪められてしまう。

▼誰一人として使命のない人はいない。

▼恩を知る以上に高貴なものはない―哲学者セネカ

ルキウス・アンナエウス・セネ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年4月)は、ユリウス=クラウディウス朝時代のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。

父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。

▼わが人生を輝かせるゆく源泉は、報恩感謝の一念にこそある。

▼心次第で、環境は変えていける。

▼いつまでも過去のことを言っていることはいけない。

<これから>が青年である。

▼かつて明治維新があった。

しかし、それは真の革命とは言い難い。

これからは、民衆による革命である。

だから庶民が大事だ。

地方が大事なのだ。

第一に団結、第二に団結、第三に団結。

▼不可能を可能にするには、最高の作戦と最高の行動が重要である。

 


米メタ ファクトチェック廃止へ

2025年02月05日 12時36分20秒 | 社会・文化・政治・経済
米メタは7日、運営するフェイスブックとインスタグラムで、投稿内容の正確性を調べる独立したファクトチェッカーの使用を廃止すると発表した。 今後は、米ソーシャルメディアのXで用いられているような、正確性に関するコメントをユーザーに委ねる「コミュニティノート」という仕組みに置き換える。

フェイスブックとインスタグラムのファクトチェック廃止 ...

米メタ 第三者ファクトチェック廃止 トランプ氏就任踏まえたか

アメリカのIT大手メタは、SNSのフェイスブックやインスタグラムなどで行ってきた第三者による投稿内容の事実確認、ファクトチェックを廃止すると発表しました。
アメリカのメディアは、トランプ氏が1月20日に大統領に就任することを踏まえた動きだと伝えています。

メタのザッカーバーグCEOは公式サイトに動画を掲載し、メタが運営するSNSのフェイスブックやインスタグラムなどで実施している、民間の非営利組織など第三者による投稿内容の事実確認、ファクトチェックを廃止すると発表しました。

ザッカーバーグ氏は不適切な投稿への対策が複雑化し、検閲が行き過ぎたと説明したうえで「表現の自由を回復することに集中する」と述べました。

かわりにイーロン・マスク氏が所有するXが導入した「コミュニティーノート」と呼ばれる、利用者どうしで指摘するしくみを採用するとしていて、まずはアメリカでこうした措置を実施するということです。

メタは2016年から偽情報への対策としてファクトチェックの取り組みを始め、2021年の連邦議会への乱入事件を受けてトランプ氏のアカウントの停止に踏み切るなどトランプ氏との関係が一時、悪化しました。

しかし、大統領選挙後には、トランプ氏の大統領の就任式関連の基金に100万ドル、日本円にしておよそ1億6000万円を寄付するなど関係改善を進めていて、アメリカのメディアは今回の措置はトランプ氏が今月20日に大統領に就任することを踏まえた動きだと伝えています。

ファクトチェック団体などから批判相次ぐ

メタが第三者による投稿内容の事実確認、ファクトチェックを廃止すると発表したことを受け、国際的なファクトチェック団体などは批判する声明を相次いで出しました。

このうち、世界各地にあるファクトチェック団体などが加盟する「国際ファクトチェックネットワーク」のディレクター、アンジー・ドロブニック氏は、みずからのXで「日常の生活や友人や家族とのやりとりで物事を決める際に、正確で信頼できる情報を探すSNS利用者にとって打撃となる。ファクトチェックのジャーナリズムでは検閲したことはないし、投稿を削除したこともない。政治的な党派とは関係なく、透明性を重視する行動規範に従ってきた」とするコメントを出しました。

また「欧州ファクトチェック基準ネットワーク」も「ファクトチェックを検閲と結び付けるCEOの発言を強く非難する」としたうえで「今回の決定はトランプ政権が始まる中での政治的な動機に基づいた動きとみられる」としています。

そして、ファクトチェックは根拠に基づいて効果的に行われてきたとして、メタが導入するとした「コミュニティノート」は誤った情報の対策には不十分だと指摘しました。

アメリカのジャーナリズムの研究機関「ポインター研究所」によりますと、メタは119の国と地域のファクトチェック団体などと連携してきたということで、今回の決定によってアメリカ国内では10の団体やメディアが影響を受けるとしています。


クルド人とは

2025年02月05日 12時28分26秒 | その気になる言葉
クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東北部に位置する山岳地帯クルディスタンに住むイラン系民族。同じイラン系民族だがイラン・イスラム共和国の主要民族たるペルシア人とは区別される。
 
概要
 
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出典検索?: "クルド人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2020年4月)
 
 
ユダヤ系クルド人の女性。1910年代
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する。人口は3,500万~4,800万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派(トルコのクルド人のあいだではスンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yârsân とも)なども存在し、他にも少数だがキリスト教(en:Kurdish Christians)、ユダヤ教(en:History of the Jews in Kurdistan)、ゾロアスター教に属しているクルド人もいる。クルド人のキリスト教徒の起源は元々アルメニア人かアッシリア人だとされており、クルド人の大半は中世にイスラム教を採用したが、イスラム教が広まった後も、クルド人の中にはキリスト教に改宗し、キリスト教に改宗したクルド人の多くは東方教会に属したとされている。近年でも一部のイスラム教徒のクルド人がキリスト教に改宗した者もいる。ゾロアスター教は2016年にゾロアスター教公式の火の寺院がイラク北部のクルド人自治地域のスレイマニヤに建てられ、多くのクルド人がゾロアスター教に戻ってきた。クルド人のユダヤ教徒の大半がイスラエルに住んでいるが、イラク北部のクルド人自治地域にも400から730のクルド人ユダヤ教徒の家族がいるとされている。クルド人は異なる宗教と信条を支持しており、伝統的にクルド人は世俗主義で慣行に自由を持っているとされている。言語的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。アイユーブ朝の始祖サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
 
クルド人女性(en:Kurdish women)は、20世紀と21世紀にクルド人社会で進歩的な重要な役割を果たし、女性の自由や解放、権利と平等に力を入れ改善を勝ち取った。また北部及び東部シリア自治行政区(ロジャヴァ)のクルド人民防衛隊には女性の防衛部隊があり、ISILとの戦いで戦果を挙げている。
 
歴史
 
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出典検索?: "クルド人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2020年4月)
→「クルディスタン § 歴史」を参照
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
 
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、本来ならば旧オスマン領にクルド自治区がセーヴル条約に基づき建設される予定であったが、これを認めないアンカラ政府が成立。連合国は新たにローザンヌ条約の締結を求められクルド自治区構想は取り消された。その後サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
 
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
 
1946年、現在のイラン北西部に、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって一時的に樹立された。
 
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
 
各国での居住状況
トルコ
→詳細は「北クルディスタン」および「トルコのクルド人(英語版)」を参照
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千~1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kürtleri、クルド語: Kurdên Anatoliya Navîn)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]。
 
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
 
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている[要出典]。
 
2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
 
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20~30議席前後を獲得した。
 
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]。
 
2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった[6][7]。一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した[8]。
 
2015年12月から2016年2月にかけて、トルコ南東部のクルド人が多く居住する地域ジズレには厳しい外出禁止令が発令され、トルコ政府が同都市内での軍事作戦を展開した[9][10]。ジズレでは、住民が生活物資や医療へのアクセスを制限される中、トルコ軍による大規模な掃討作戦が実施された。人権団体による報告では、民間人を含む数百人が死亡したとされる一方、トルコ政府はこれらの作戦をテロリストの掃討と位置づけている[9][10]。
 
2023年、トルコ人権財団(TİHV)は、クルド人が受ける拷問被害の割合は全国平均の約2.6倍に上ることを明らかにした[11]。また、Human Rights Watchは2023年4月の選挙前に数十人のクルド人ジャーナリスト、政党関係者が逮捕されたことを公表している[12]。
 
2024年3月にトルコのクルド人地域を現地調査した元国連難民高等弁務官事務所財務局長でUNHCR駐日代表、東洋英和女学院大学の滝澤三郎名誉教授は「トルコ国内でクルド人に対する政策的な差別は全くない」とし、「条約難民の定義である『迫害を受ける恐れ』があるとまでは言えない」と述べている[13]が、MIDDLE EAST EYEの2024年11月の報告では親クルド派の市長3人が解任されたことが報じられている[14]。
 
イラク
 
イラク、ザーホーのクルド人。1910年代
→詳細は「クルディスタン地域」、「イラクのクルド人(英語版)」、「第一次クルド・イラク戦争(英語版)」、および「第二次クルド・イラク戦争(英語版)」を参照
イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。クルド文化を否定するためクルド人は外部からの移住者と教育、クルドの遺跡発掘、調査を禁じた。
 
特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、イラクは国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。一方で、クルド独立闘争を行っていたムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が属するバルザーニ部族と対立していたベルゼンジ部族などの部族はイラク政権に協力した[15]。
 
2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。その後、更なる独立権限を持ったクルド人自治政府の設立を占領当局に呼びかけたが、占領当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮し、実現には至らなかった。
 
2005年、イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニが大統領に選出され、副大統領をシーア派などから選出したことで、政権の民族バランスが図られた。しかしクルド人は政権内で少数派であることには変わらなかった。
 
2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。
 
イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった(名誉の殺人#批判を参照)。
 
シリア
 
2019年10月時点での国内相関図
→詳細は「ロジャヴァ」および「シリアのクルド人(英語版)」を参照
北部地域に少数のクルド人が在住している。
 
2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化した。2013年からロジャヴァは事実上のクルド人独立地域となっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与しない中立的立場維持の戦略を採ったこともあり、アルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先するシリア政府からは事実上黙認されている状態となった。
 
2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニ(アイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーやハサカなどではシリア軍(アサド政権)と、クルド人勢力の共闘が見られた[16]。
 
2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加した。しかし、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていた。
 
2017年後半から2018年前半にかけ、イスラム国の崩壊や、アサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域はイドリブを中心としたシリア北部に移った。このことはクルド人を巡る状況にも大きな変化を生じさせた。
 
クルド人勢力の影響力拡大を嫌ったトルコは、シリアに対して本格的な越境攻撃を繰り返した。一方、それまでクルド人の後ろ盾となっていた欧米は、それらトルコのシリア北部への攻撃を黙認した。そして2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請することとなった。南西部で反体制派の制圧を成功させたことで戦力に余力が出来ていたアサド政権はYPGの要請に応えて援軍派遣を決定した。このことでクルド人勢力とアサド政権が急速に接近した。またそれに伴いってロシアを仲介として、YPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲と、その見返りとして、PYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が行われた。
 
2019年8月にはアメリカとトルコは、シリア北部に安全地帯を設けることを目指すことを合意した。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦については関与しないと声明を出し、YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した[17]。10月9日、トルコ軍は国境を超えシリアに侵攻し、クルド人に対する軍事攻撃を開始した[18]。
 
クルド民主統一党 (Partiya Yekitiya Demokrat、PYD)
クルド人民防衛隊 (Yekineyen Parastina Gel、YPG)
クルド人民防衛隊(Women's Protection Units)YPJ)
シリア民主軍 (Syrian Democratic Forces、SDF)
イラン
→詳細は「東クルディスタン」および「イランのクルド人(英語版)」を参照
ジョージア
→詳細は「ジョージアのクルド人(英語版)」を参照
レバノン
→詳細は「レバノンのクルド人(英語版)」を参照
アルメニア
→詳細は「アルメニアのクルド人(英語版)」を参照
アゼルバイジャン
→詳細は「アゼルバイジャンのクルド人」を参照
ロシア
→詳細は「ロシアのクルド人」を参照
スウェーデン
難民として多くのクルド人を受け入れた。知識人層が多かったためスウェーデン社会への順応力が高かった。約10万人おり人口の1%ほど。クルド語の教育も受けられクルド系の議員も生まれている。アンデション政権発足の際にはイラン出身のクルド系で元ゲリラのアミネ・カカバベがキャスティングボートを担った[19]。
 

クルド人とは

2025年02月05日 12時28分26秒 | その気になる言葉
クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東北部に位置する山岳地帯クルディスタンに住むイラン系民族。同じイラン系民族だがイラン・イスラム共和国の主要民族たるペルシア人とは区別される。
 
概要
 
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ユダヤ系クルド人の女性。1910年代
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する。人口は3,500万~4,800万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派(トルコのクルド人のあいだではスンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yârsân とも)なども存在し、他にも少数だがキリスト教(en:Kurdish Christians)、ユダヤ教(en:History of the Jews in Kurdistan)、ゾロアスター教に属しているクルド人もいる。クルド人のキリスト教徒の起源は元々アルメニア人かアッシリア人だとされており、クルド人の大半は中世にイスラム教を採用したが、イスラム教が広まった後も、クルド人の中にはキリスト教に改宗し、キリスト教に改宗したクルド人の多くは東方教会に属したとされている。近年でも一部のイスラム教徒のクルド人がキリスト教に改宗した者もいる。ゾロアスター教は2016年にゾロアスター教公式の火の寺院がイラク北部のクルド人自治地域のスレイマニヤに建てられ、多くのクルド人がゾロアスター教に戻ってきた。クルド人のユダヤ教徒の大半がイスラエルに住んでいるが、イラク北部のクルド人自治地域にも400から730のクルド人ユダヤ教徒の家族がいるとされている。クルド人は異なる宗教と信条を支持しており、伝統的にクルド人は世俗主義で慣行に自由を持っているとされている。言語的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。アイユーブ朝の始祖サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
 
クルド人女性(en:Kurdish women)は、20世紀と21世紀にクルド人社会で進歩的な重要な役割を果たし、女性の自由や解放、権利と平等に力を入れ改善を勝ち取った。また北部及び東部シリア自治行政区(ロジャヴァ)のクルド人民防衛隊には女性の防衛部隊があり、ISILとの戦いで戦果を挙げている。
 
歴史
 
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→「クルディスタン § 歴史」を参照
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
 
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、本来ならば旧オスマン領にクルド自治区がセーヴル条約に基づき建設される予定であったが、これを認めないアンカラ政府が成立。連合国は新たにローザンヌ条約の締結を求められクルド自治区構想は取り消された。その後サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
 
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
 
1946年、現在のイラン北西部に、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって一時的に樹立された。
 
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
 
各国での居住状況
トルコ
→詳細は「北クルディスタン」および「トルコのクルド人(英語版)」を参照
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千~1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kürtleri、クルド語: Kurdên Anatoliya Navîn)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]。
 
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
 
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている[要出典]。
 
2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
 
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20~30議席前後を獲得した。
 
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]。
 
2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった[6][7]。一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した[8]。
 
2015年12月から2016年2月にかけて、トルコ南東部のクルド人が多く居住する地域ジズレには厳しい外出禁止令が発令され、トルコ政府が同都市内での軍事作戦を展開した[9][10]。ジズレでは、住民が生活物資や医療へのアクセスを制限される中、トルコ軍による大規模な掃討作戦が実施された。人権団体による報告では、民間人を含む数百人が死亡したとされる一方、トルコ政府はこれらの作戦をテロリストの掃討と位置づけている[9][10]。
 
2023年、トルコ人権財団(TİHV)は、クルド人が受ける拷問被害の割合は全国平均の約2.6倍に上ることを明らかにした[11]。また、Human Rights Watchは2023年4月の選挙前に数十人のクルド人ジャーナリスト、政党関係者が逮捕されたことを公表している[12]。
 
2024年3月にトルコのクルド人地域を現地調査した元国連難民高等弁務官事務所財務局長でUNHCR駐日代表、東洋英和女学院大学の滝澤三郎名誉教授は「トルコ国内でクルド人に対する政策的な差別は全くない」とし、「条約難民の定義である『迫害を受ける恐れ』があるとまでは言えない」と述べている[13]が、MIDDLE EAST EYEの2024年11月の報告では親クルド派の市長3人が解任されたことが報じられている[14]。
 
イラク
 
イラク、ザーホーのクルド人。1910年代
→詳細は「クルディスタン地域」、「イラクのクルド人(英語版)」、「第一次クルド・イラク戦争(英語版)」、および「第二次クルド・イラク戦争(英語版)」を参照
イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。クルド文化を否定するためクルド人は外部からの移住者と教育、クルドの遺跡発掘、調査を禁じた。
 
特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、イラクは国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。一方で、クルド独立闘争を行っていたムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が属するバルザーニ部族と対立していたベルゼンジ部族などの部族はイラク政権に協力した[15]。
 
2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。その後、更なる独立権限を持ったクルド人自治政府の設立を占領当局に呼びかけたが、占領当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮し、実現には至らなかった。
 
2005年、イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニが大統領に選出され、副大統領をシーア派などから選出したことで、政権の民族バランスが図られた。しかしクルド人は政権内で少数派であることには変わらなかった。
 
2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。
 
イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった(名誉の殺人#批判を参照)。
 
シリア
 
2019年10月時点での国内相関図
→詳細は「ロジャヴァ」および「シリアのクルド人(英語版)」を参照
北部地域に少数のクルド人が在住している。
 
2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化した。2013年からロジャヴァは事実上のクルド人独立地域となっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与しない中立的立場維持の戦略を採ったこともあり、アルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先するシリア政府からは事実上黙認されている状態となった。
 
2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニ(アイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーやハサカなどではシリア軍(アサド政権)と、クルド人勢力の共闘が見られた[16]。
 
2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加した。しかし、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていた。
 
2017年後半から2018年前半にかけ、イスラム国の崩壊や、アサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域はイドリブを中心としたシリア北部に移った。このことはクルド人を巡る状況にも大きな変化を生じさせた。
 
クルド人勢力の影響力拡大を嫌ったトルコは、シリアに対して本格的な越境攻撃を繰り返した。一方、それまでクルド人の後ろ盾となっていた欧米は、それらトルコのシリア北部への攻撃を黙認した。そして2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請することとなった。南西部で反体制派の制圧を成功させたことで戦力に余力が出来ていたアサド政権はYPGの要請に応えて援軍派遣を決定した。このことでクルド人勢力とアサド政権が急速に接近した。またそれに伴いってロシアを仲介として、YPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲と、その見返りとして、PYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が行われた。
 
2019年8月にはアメリカとトルコは、シリア北部に安全地帯を設けることを目指すことを合意した。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦については関与しないと声明を出し、YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した[17]。10月9日、トルコ軍は国境を超えシリアに侵攻し、クルド人に対する軍事攻撃を開始した[18]。
 
クルド民主統一党 (Partiya Yekitiya Demokrat、PYD)
クルド人民防衛隊 (Yekineyen Parastina Gel、YPG)
クルド人民防衛隊(Women's Protection Units)YPJ)
シリア民主軍 (Syrian Democratic Forces、SDF)
イラン
→詳細は「東クルディスタン」および「イランのクルド人(英語版)」を参照
ジョージア
→詳細は「ジョージアのクルド人(英語版)」を参照
レバノン
→詳細は「レバノンのクルド人(英語版)」を参照
アルメニア
→詳細は「アルメニアのクルド人(英語版)」を参照
アゼルバイジャン
→詳細は「アゼルバイジャンのクルド人」を参照
ロシア
→詳細は「ロシアのクルド人」を参照
スウェーデン
難民として多くのクルド人を受け入れた。知識人層が多かったためスウェーデン社会への順応力が高かった。約10万人おり人口の1%ほど。クルド語の教育も受けられクルド系の議員も生まれている。アンデション政権発足の際にはイラン出身のクルド系で元ゲリラのアミネ・カカバベがキャスティングボートを担った[19]。
 

埼玉クルド人問題 

2025年02月05日 12時23分25秒 | 社会・文化・政治・経済

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ひきこもり「自律」目指し支援

2025年02月05日 12時16分09秒 | 社会・文化・政治・経済

ひきこもり支援センター

## 1. ひきこもりとは何か

ひきこもりは、社会的な活動を避け、自宅に長期間こもる状態を指します。日本では、特に若年層や中高年層に多く見られ、社会問題として深刻に受け止められています。ひきこもりの原因は多岐にわたり、精神的な問題や家庭環境、社会的なプレッシャーなどが影響しています。このような状態が続くことで、本人だけでなく、その家族や社会全体に大きな影響を及ぼすことがあります。

ひきこもりの人々は、外部との接触を避けるため、孤独感やストレスを抱えることが多いです。そのため、自己肯定感が低下し、さらなるひきこもりを招く悪循環に陥ることもあります。支援が必要な人々に対して、適切なアプローチを行うことが求められています。

このような状況を改善するために、ひきこもり支援センターが設立されました。これらのセンターは、専門的な知識を持ったスタッフが常駐し、個別のニーズに応じた支援を行っています。支援センターの存在は、ひきこもり問題を解決するための重要なステップとなっています。

## 2. ひきこもり支援センターの機能

ひきこもり支援センターは、主に相談支援、居場所の提供、社会復帰の支援、家族へのサポートを行っています。最初のステップとして、相談支援があり、ひきこもりの本人やその家族が抱える悩みや不安を聞き取り、個別のニーズに応じた対策を立てます。

居場所の提供は、ひきこもりの人々が安心して過ごせる空間を提供することです。この居場所では、他の利用者との交流や、様々な活動が行われるため、徐々に社会との接点を持つことができます。これにより、孤独感の軽減や自己肯定感の向上が期待されます。

社会復帰の支援は、具体的な就労支援や職業訓練を通じて行われます。スタッフが個別に支援し、必要なスキルを身につける手助けをします。これにより、ひきこもりの人々が自立し、社会に戻るための一歩を踏み出すことができます。

最後に、家族へのサポートも重要な機能です。ひきこもりの問題は、本人だけでなく家族にも影響を及ぼします。家族の理解と協力が必要不可欠であり、センターでは家族向けの講座や相談窓口も設けています。

## 3. ひきこもり支援センターの取り組み

ひきこもり支援センターでは、様々な取り組みが行われています。まず、定期的に開催されるワークショップやセミナーがあり、心理的なサポートやスキル向上を目指すプログラムが用意されています。これに参加することで、利用者は新しい知識を得たり、他の人と交流する機会を持つことができます。

また、地域との連携も重要な取り組みの一つです。地域の企業や団体と協力し、就労の機会を提供することで、ひきこもりの人々が社会に復帰しやすい環境を整えています。これにより、地域全体で問題解決に取り組む姿勢が強化されます。

さらに、支援センターでは、ひきこもりに関する啓発活動も行っています。一般の人々に対して、ひきこもりの理解を深めるためのイベントを開催し、偏見をなくす努力をしています。これにより、社会全体がひきこもり問題に対して関心を持ち、支援の輪が広がることが期待されています。

最後に、利用者の声を反映したサービス改善にも力を入れています。定期的なアンケートやフィードバックを通じて、利用者のニーズを把握し、より良い支援を提供するために努力しています。

## 4. ひきこもり支援センターの課題

ひきこもり支援センターは多くの成果を上げていますが、いくつかの課題も存在します。まず、利用者の数が増加しているため、スタッフの人手不足が問題となっています。専門的な知識を持つスタッフを確保することが難しく、質の高い支援を提供するためにはさらなる人材育成が求められています。

また、利用者の多様性も課題です。ひきこもりの状況や背景は人それぞれ異なるため、一律の支援では効果が薄い場合があります。個別対応を強化するためには、より柔軟な支援プログラムの開発が必要です。

さらに、地域による支援センターの充実度に差があることも問題です。都市部では比較的多くの支援センターが存在しますが、地方では限られたサービスしか受けられない場合もあります。これにより、地域格差が生じ、支援を必要とする人々が適切なサポートを受けられないことがあります。

最後に、社会全体の意識改革も必要です。ひきこもりに対する偏見や誤解が依然として存在し、支援を受けることに対する抵抗感がある人も多いです。社会全体で理解を深める努力が求められています。

## 5. 未来に向けた展望

ひきこもり支援センターの今後の展望として、まずは支援体制の強化が挙げられます。スタッフの増員や専門的な研修を行うことで、より質の高い支援を提供できるようにすることが重要です。また、オンラインでの相談や支援サービスの充実も、これからの時代には欠かせない要素です。

次に、地域との連携をさらに深めていくことが求められます。地域の企業や団体とのコラボレーションを強化し、就労の機会を増やすことで、ひきこもりの人々が社会復帰しやすい環境を整えることが必要です。また、地域コミュニティの力を活用することで、支援の輪を広げていくことが期待されます。

さらに、ひきこもり問題に対する啓発活動を推進し、社会全体の理解を深めることも重要です。教育機関やメディアとの連携を図り、ひきこもりに関する正しい情報を広めることで、偏見をなくしていく努力が求められます。

最後に、利用者の声を反映したサービスの改善を続けることで、より多様なニーズに応えられる支援センターを目指すことが必要です。ひきこもりの人々が自立し、社会で活躍できる未来を実現するために、全力で取り組んでいくことが求められています。

*本記事は編集者の個人的調査、分析、感想に基づいて作成しております。記事内容は既成の事実と異なるケースがありますので、あくまでも読物の1つとして参考程度にお楽しみくださいますようお願い致します。


法の支配の重要性

2025年02月05日 12時03分56秒 | 社会・文化・政治・経済
法の支配」とは、一般に、全ての権力に対する法の優越を認める考え方であり、国内において公正で公平な社会に不可欠な基礎であると同時に、国際社会の平和と安定に資するものであり、友好的で平等な国家間関係から成る国際秩序の基盤となっている。

外交青書 2024 | 6 国際社会における法の支配 | 外務省

トランプ大統領の関税問題

トランプ大統領が関税を第1次政権時から大幅に引き上げ、輸入総額の3%から10%にまで引き上げると推測していた。

一時的に発動は延期されたものの、カナダとメキシコに対する25%の関税、そして中国に対して10%の関税を課すなど、すでに筆者の予想を上回る措置を講じており、まだ終わる気配はない。

中国が報復措置を講じ始めたように、誰かが報復すればさらに踏み込んだ措置を取るとトランプ氏は表明している。

そして、欧州など他の地域が次だと発言している。

法の支配(ほうのしはい、英語rule of law)は、専断的な国家権力の支配を排し、権力で拘束するという英米法系の基本的原理である。法治主義とは異なる概念である。

「法の支配」とは、統治される物だけでなく統治する側もまた、より高次の法によって拘束されなければならないという考え方である[1]大陸法的な法治主義とは異なり、法の支配では法律をもってしても犯しえない権利があり、これを自然法憲法などが規定していると考える[1]

  • 法の支配における「法」[注釈 1] とは、全法秩序のうち、「根本法」と「基本法」のことを指す[2]
  • 法の支配は、歴史的には、中世イギリスの「法の優位」の思想から生まれた英米法系の基本原理である[3]
  • 法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配(議会の多数派を含む)を排し、全ての統治権力を(折々の権力者、あるいは議会の多数派の主張する法ではなく、理性により整理され、圧倒的大多数の諸国民により信任されるであろう)「法」で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義民主主義とも密接に結びついている[3]
  • 法の支配は、極めて歴史的な概念で、時代や国、論者により異なる様相を呈する多義的な概念である点に留意が必要である[3]

挑戦し続ける勇気だ

2025年02月05日 11時44分36秒 | その気になる言葉

▼青年は夢が大きすぎるくらいがいい。

▼自信なんて、一朝一夕につくものではない。

最初は自信がなくていい。

大切なのは、挑戦していく心だ。

挑戦し続ける勇気だ。

何があっても、くじけず、あきらめず、投げ出さずに進んでいこうとする持続力だ。

▼不安は、恥じるべき感情ではない。

不安だから、努力できる。

不安という感情と<良い友だち>になればいいんだ。

▼友の心に希望の灯を。

▼あくまでも、人と人とのつながりを求めるのである。


映画 若き仕立て屋の恋

2025年02月05日 10時35分04秒 | 社会・文化・政治・経済
2月4日0.45分からCSテレビのザ・シネマで観たが、20代のころに、恋多き女を恋したを苦く想起されるドラマだった。
 
相手が娼婦であることが、悲恋である。
 
劇場公開日:2023年4月14日

解説

香港の名匠ウォン・カーウァイが、2001年製作のオムニバス映画「愛の神、エロス」の一編として発表した短編「若き仕立屋の恋」のロングバージョン。

2004年のベネチア国際映画祭で非公開のプレミア作品として上映されたほか、2018年北京映画祭で上映された。

日本では2023年4月に劇場初公開。

1960年代の香港。仕立て屋見習いの青年チャンは、美しい高級娼婦のホアと出会い、魅了される。

それ以来、ホアが他の男のために着飾る服を、愛情を込めて仕立て続けるチャン。

やがて時は移ろい、ホアはかつての精彩を欠いていき、すべてを失っていくのだが……。

 
若き仕立屋の恋 Long version
原題:THE HAND/愛神 手 57分  

【監督】ウォン・カーウァイ
【出演】コン・リー、チャン・チェンほか

◇ウォン・カーウァイ監督がオムニバス映画『愛の神、エロス』の一編として発表した短編に、未公開映像を12分加えたロングバージョン。
高級娼婦に扮するコン・リーの色香をカーウァイが官能的な映像で引き立てる。

制作国:香港 2004年

 

映画 僕を育ててクレタデンバー・バー

2025年02月05日 07時44分25秒 | その気になる言葉

僕を育ててくれたテンダー・バー

2月4日午前2時からCSテレビのザ・シネマで観た。

 
僕を育ててくれたテンダー・バー
 

僕を育ててくれたテンダー・バー』(原題:The Tender Bar)は2021年に公開されたアメリカ合衆国青春映画である。監督はジョージ・クルーニー、主演はベン・アフレックが務めた。本作はJ・R・モーリンガー2005年に発表した自伝『The Tender Bar』を原作としている。

なお、本作はソンドラ・ジェームズの遺作でもある[1]

概略

[編集]

J・R・モーリンガーの父親は彼が生まれた直後に突如失踪した。青年になったモーリンガーは父親代わりになってくれる存在を求め、叔父(チャーリー)が経営するバーに足繁く通っていた。

本作はモーリンガーがチャーリーやその店の常連客との交流を通して、自己を確立していく姿を描き出す。

キャスト

製作

2013年8月6日、ソニー・ピクチャーズチャーニン・エンターテインメントが『The Tender Bar』の映画化を企画しており、セオドア・メルフィに監督と脚色を任せる意向であると報じられたが、結局、企画は頓挫してしまった[2]

2020年12月9日、Amazonスタジオがソニーから映画化権を買い取り、ジョージ・クルーニーを監督に起用したとの報道があった[3]。2021年2月、ベン・アフレック、タイ・シェリダン、リリー・レーブの出演が決まった[4][5]。3月、本作の残りの主要キャストが発表された[6]

撮影・音楽

本作の主要撮影は2021年2月22日にマサチューセッツ州ボストンで始まり、同年4月に終了した[7]。10月4日、ダラ・テイラーが本作で使用される楽曲を手掛けるとの報道があった[8]

公開・マーケティング

解説

監督として「ミッドナイト・スカイ」「グッドナイト&グッドラック」などを手がけてきたジョージ・クルーニーが、ピュリッツァー賞受賞ジャーナリストで作家のJ・R・モーリンガーが2005年に発表した同名自叙伝を映画化。

米ニューヨーク州ロングアイランドを舞台に、家庭を顧みない父と別れた母に連れられ、祖父母や伯父のチャーリーが暮らす母の実家にやってきた少年JRが、チャーリーや彼の経営するバーの常連客との交流を通して成長していく日々を描く。

父親不在のJRに、男としての生き方やさまざまなことを教える伯父チャーリーをベン・アフレック、「レディ・プレイヤー1」のタイ・シェリダンが大学生になったJRを演じる。

ほか、JRの母親役にテレビシリーズ「アメリカン・ホラー・ストーリー」や映画「マイ・ビューティフル・デイズ」で知られるリリー・レーブ、祖父役に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のクリストファー・ロイド。

脚本は「ディパーテッド」のウィリアム・モナハン。Amazon Prime Videoで2022年1月7日から配信。

2021年製作/106分/アメリカ
原題または英題:The Tender Bar
配信:Amazon Prime Video
配信開始日:2022年1月7日

 


映画 歌うつむぎがおりました

2025年02月05日 07時31分44秒 | その気になる言葉

2月5日午前6時からCSテレビのザ・シネマで観た。

歌うつぐみがおりました【デジタル・リマスター版】

1時間21分
 
原題:IKO SHASHVI MGALOBELI 82分
 
歌うつぐみがおりました
 
ジョージアの首都トビリシを舞台に、自己中心的でお調子者だがどこか憎めない青年のせわしない日常を描く
 
オーケストラの演奏の最中すら、用事のために抜け出して、やっとのことでクライマックスの最後の一打に間に合う始末。
そんな忙しい一日が明けた次の日の朝、街角で知り合いの女性を見かけたギヤは、車が行き交う路上に飛び出す……。
落葉」に続くイオセリアーニの長編第二作。
時間が足りずいつもあくせく何事かやらずにはおれない現代人の姿を、それを極端に戯画化した主人公を通じて諷刺している。
 
ティンパニー奏者の青年ギアは、時間にルーズなら女にもルーズなダメ男。
暇さえあればナンパを繰り返すお調子者だが、周囲の人はなぜか彼を憎めない。
だが、そんなギアに思わぬ運命が待ち受ける。

【監督】オタール・イオセリアーニ
【出演】ゲラ・カンデラキ、ジャンスグ・カヒーゼ、マリーナ・カルツィヴァーゼほか

◇まさにジョージア版ヌーヴェルヴァーグ!
生き急ぐ男の日常を綴ったオタール・イオセリアーニ監督初期の傑作

◇オタール・イオセリアーニ監督のキャリア初期を代表する長編第2作。
秒刻みのせわしない生活を送るお調子者の主人公は、『勝手にしやがれ』のように刹那的に生き急ぐヌーヴェルヴァーグの登場人物を彷彿とさせる。

制作国:ジョージア 1970年