工藤 公康 (著)
昭和から令和、野球はどこまで進化したのか?
「優勝請負人」工藤公康が、データと最新理論にとらわれた野球界を斬(き)る!
さらに自身の経験をもとに、いつまでも色あせない"野球の魅力"も紹介。
新参からマニアまで、ファン必読の野球観戦バイブル。
出版社より
”優勝請負人”は、昨今の「データ重視」の現代野球をどう考えているのか?
これまでの「常識」をくつがえす ”工藤野球”の エッセンスが凝縮!
第1章 野球は進化しているか?
第2章 NPBはMLBを超えられる!
第3章 古くて新しい「配球」の基本
第4章 今、求められている監督・コーチ像とは?
第5章 培われた「プロ」としての野球観
工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県名古屋市昭和区(現在の天白区)[注 1]出身[1](同県豊明市出身とする文献もある。後述)の元プロ野球選手(投手、左投左打)[2]、野球解説者・野球評論家・監督。
概要
投手としてNPB(西武ライオンズ、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツ)では14度のリーグ優勝、11度の日本シリーズに貢献[3]。個人ではNPBで合計18個のタイトル(10個)[注 2]・主要表彰(8個)[注 3]を獲得している[4]。
西武・ダイエー・巨人の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた[3][5]。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する[6]。また、最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。
現役引退後は、2012年 - 2014年の3年間にわたり野球解説者・野球評論家として活動し、2015年から2021年まではダイエーの後身であるソフトバンクの監督(第21代)として指揮を執っていた[7][8]。監督としては2020年までにソフトバンクを3度のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝[9]、5度の日本一(日本シリーズ優勝)に導いている[10]。監督退任後は再び野球解説者・野球評論家として活動している。
愛称は「カリメロ」[11]。
2男3女の父[12]で、長男は俳優の工藤阿須加[13]、長女はプロゴルファーの工藤遥加[14]。
経歴
プロ入り前
出生
1963年5月5日、愛知県名古屋市南区で生まれた[注 4][15]。出生当時は3人兄弟の三男で[16]、「公康」の名は父親から「公(ひろ)く庶民的であってほしい」との願いを込められて名付けられた[15]。父親[注 5]は公康が生まれた当時、故郷の九州から名古屋に出てきたばかりで、名古屋市交通局のバス運転手として働いていたが[15]、2歳の時に妻(公康の実母)と離婚[16]。そして公康が6歳のころに後妻(公康の継母)と再婚し、妻の連れ子と、結婚後に2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で暮らしていた[注 6][16]。
名古屋電気高校時代
久方中学校を1978年度(1979年3月)に卒業[41]。工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかった[注 12]ため、父は工藤に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった工藤は地元・名古屋市の野球部名門校である名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校〈愛工大名電〉)や享栄高校などからスカウトされた[注 13][42]。社会人野球まで経験した中学校の用務員が人脈を生かして複数の高校でテスト受験の機会を作ってくれたという[43]。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、工藤は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった[44]。名古屋電気は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた[45]。工藤は高校入学後、実家を出て寮生活を送るようになり[46]、1年生の秋からエースとして背番号1を着用した[40]。同校野球部は、工藤の他にも中村稔(1番打者・遊撃手 / 後に日本ハム入り)・高橋雅裕(2番打者・二塁手 / 後に大洋入り)・山本幸二[注 14](4番打者・捕手 / 後に巨人入り)らが在籍したタレント集団だった。[40]。高校時代は制球力を鍛えるため、学校とグラウンドの間(約13 km)を連日走ったり、山本とともに投球練習を繰り返したりしていた[40]。
高校時代の練習試合では2安打から3安打での完封がざらで、あまりに工藤の球が打てないため「打てないと選手が自信を無くすので勘弁してください」と学校側が練習試合を断られることも多かった。それでも本人は「カーブを投げると相手が面白いように空振りしてくれる」程度にしか思わなかった。
一方で工藤本人はセントラル・リーグ(セ・リーグ)球団[58](特に巨人)[注 21]を希望していた[55]が、ドラフト会議4日前(11月21日)に突然「プロ入り拒否」を宣言[66]。同日に工藤の父も、指名の挨拶をしてきた9球団に対し「指名お断り」の文書を発送した[60]。
しかし、ドラフト会議当日(11月25日)に西武が6位で工藤を強行指名した[60]。工藤は指名直後こそ「進路は決定している。『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが[67]、根本陸夫管理部長が指名直後に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉[68]。その結果、工藤も両親も最終的には翻意[注 22]し、工藤は12月28日に西武入団を表明して西武と契約[68]。その後、工藤の父親が一転して「いったん入ることになっていた熊谷組が(西武入りの)了承をしていない[注 23]ことが分かった。約束が違う」と態度を硬化させ、契約の白紙撤回を求めた[70]が、1982年1月6日に熊谷組野球部部長・大塚本夫(同社専務)が「工藤本人と父親から『熊谷組入りしない』との意思表示がない限り、当社野球部との間で交わした入社の約束は有効だが、この件に関して熊谷組が圧力をかけることはない」と表明[71]。工藤の父は同月8日に熊谷組本社を訪ねて工藤の入社内定取り消しを申し入れ[72]、名電高にも西武入りの了承を得た[注 24]ため、工藤は同月12日に正式に西武への入団を発表した[76]。
西武時代
入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から「坊や」とかわいがられていたが[88]、一方でその広岡から、特に基本練習の反復や食生活の重要性などに関して厳しい指導を受け[注 26]、大きな影響を受けた[90][91][92][93][94][95][96]。広岡からは「マウンドでオドオドせず度胸がある。球の力もプロ級で、短いイニングなら使える」と評価を受け、高卒新人ながら開幕一軍ベンチ入りを果たす[97]。8月31日の対日本ハムファイターズ後期9回戦[88](西武ライオンズ球場)でプロ初勝利[98]。同年は中継ぎで起用されて27試合に登板し、1勝1敗・防御率3.41と好成績を残した[99]。この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では江夏豊と投げ合って勝利投手になっている[注 27]。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。
2年目の1983年は「新人王候補の筆頭」として注目されたが、オープン戦開始後はその声も薄れていった[100]。3月ごろには武器であるカーブの切れ味が鈍り、本人も自信を喪失しかけていたが、5月15日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で3番手投手として登板し、シーズン初勝利[101]。同年も主に中継ぎで起用され、防御率も3.24を記録した一方[99]、2試合に先発した。しかし、入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わり[99]、アメリカのマイナーリーグ(1A級サンノゼ・ビーズ)へ留学させた。これに関して広岡は「最初はワンポイントで使っていたのですが、ランナーを背負った厳しい場面でもビシッと抑えてくれました。それが、じゃあもう1イニングとなるとボコボコに打たれてしまう。まるで別の投手でした。ピンチを切り抜けた瞬間に緊張が切れてしまっていたのでしょう。このままではこの子は伸びない。より厳しい環境に放り込む必要がある、と考えました。」と語っている[102][103]。工藤は留学先でメジャーリーグを目指して真摯に野球に取り組む選手たちと過ごしたが転機となり、また帰国後に宮田征典コーチの指導を受け、以降主力投手となった[104]。
1985年1月5日(自主トレーニング開始日)にキャッチボールをしていたところ、肩を痛めて選手生命の危機に立たされる[100]。そのため開幕直後は二軍(イースタン・リーグ)で治療に専念したが、4月中旬に一軍昇格して以降も中継ぎ・ワンポイントで登板[100]。7月9日の対南海ホークス戦でプロ入り初の完投勝利を挙げると、8月2日の対日本ハム戦、8月8日の対近鉄戦と3戦連続で完投勝利を記録[105]。先発ローテーションに加わり[69]、34試合登板[100]・8勝3敗・防御率2.76の成績を残し[69]、最優秀防御率のタイトルを獲得して広岡西武の3度目のパ・リーグ優勝に貢献[99]。
1986年は初勝利が5月8日の対近鉄戦と出遅れたが、7月13日の対近鉄戦では9回一死までノーヒットノーランに抑える快投を見せた[69]。それ以降は調子を上げ、2桁勝利(11勝)を挙げた[69]。また完投数も10を記録した。広島東洋カープとの日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2セーブを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。
1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。24歳の若さで正力松太郎賞を受賞した[106]。
1988年は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月には中継ぎに回り二軍落ちした[106]。10月9日の南海戦(西武球場)で175球を投げて完封勝利、中3日で13日の日本ハム戦(同)で160球を投げて2失点完投、これで10勝に届き、成績は10勝10敗1セーブ(11完投)を記録し、3年連続2桁完投を記録したが、防御率は2.41から3.79まで落ち込んだ[106]。中日ドラゴンズとの日本シリーズ第3戦(西武)で4安打3失点の完投勝利、日本一に貢献した[106]。1989年は開幕から6連敗、夏場には中継ぎに配置転換・二軍落ちも繰り返し、4勝8敗2セーブ防御率4.96の成績でシーズンを終えた[106]。
1990年は前年からの不調が続き、左肘を痛めたこともあり長期離脱も[107]、8月中旬に一軍復帰して以降は6勝0敗と復調、シーズン全体で9勝2敗防御率3.36まで戻した[107]。1991年は開幕から2完封を含む5試合連続完投勝利を飾り、6月から9月にかけての10連勝を含む終始安定して好調を維持し、16勝3敗。防御率2.82[107]、最高勝率のタイトルを獲得。広島との日本シリーズでも2勝を挙げ、3勝3敗で迎えた第7戦では5回から登板し、最後まで投げ切って胴上げ投手になった[107]。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
1993年のシーズンは15勝3敗、防御率2.06、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。
1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことから11月9日にFA権行使を表明し、11月15日に西武を退団した。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスへの移籍が12月6日に発表された。同年、石毛宏典もFAでホークスへ移籍したが、同一チームの2選手が、別の同一球団へ同一年度にFA移籍した史上初の事例となった。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、ダイエーの再建を託された。
ダイエー時代
1995年、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はチームが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1か月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。
1996年は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の178奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一方、開幕から黒星先行で月間勝ち越しが一度もなかった。結局、同年の成績は29試合登板・8勝15敗・202イニング2/3投球回・防御率3.51(パ・リーグ規定投球回到達者数20人中12位)の成績で[108]、リーグ最多の15敗(近鉄・酒井弘樹と同数)を喫した[109]。一方、同僚の武田一浩は防御率(3.84、20人中16位)、投球回数(171回)とも工藤を下回っていたが、リーグ3位[注 28]となる15勝[110](8敗)を挙げている[108]。
1997年は背番号を西武時代と同じ47に戻した[111]。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。
1998年は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。
1999年は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久が持っていた記録(84)を塗り替えた[112]。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。
球団代表・高塚猛による工藤への介入行為
直後の10月下旬に行われた契約更改の席上で、球団よりそれまでとは異なる年俸査定方法の提案(具体的には、従来の年俸をベースに提案をされたこと)が工藤に対してなされ、かつ、当時ダイエー球団代表であった高塚猛より「工藤君の登板の火曜日は一番客の入りが悪い」と工藤に放言をしたことで、工藤は球団に不信感を募らせて「この1年間の努力が何だったのかと言う気持ちになりました。」「出て行くしかないのかな」「残ることはないと思う」「福岡のファンには大変申し訳ないが、こうなった以上、前を向いて歩いて行くしかない。移籍先の希望はありません」とコメントした上で、シーズン終了後の11月1日にFA宣言した[113]。
すると代表の高塚が球団名義で10月下旬の契約更改時の工藤の行動と言動について、球団の公式サイトで公表して報復的な応戦を実行した。また、高塚は工藤に対して「FA宣言をすることは、福岡でなくともよいということになってしまう」との文章も記述し、工藤のダイエー残留に反対する姿勢をも見せた。これに対して、工藤はこれらの内容が事実と異なる旨を公表し、後に高塚による虚偽内容の文書であることが発覚した。加えて、高塚が仕掛けたこの応戦もファンからのブーイングで不発に終わったことで、公開から約2時間半後に球団公式サイトより削除された。これが工藤に対して火に油を注ぐ形となり、球団と工藤との関係は修復不可能な状態に陥ったかに見えた[114]。しかし翌日、球団オーナーの中内功が高塚のこの行為を撤回し、中内が張本人の高塚に成り代わる形で謝罪した上で工藤に残留を要請した[115]が、高塚と工藤は互いに感情的に拗れてしまったこともあり、工藤は残留を拒否し、移籍を決断した。
なお、高塚は後に小久保裕紀に対しても、工藤以上の規模で「小久保事件」と呼ばれる報復行為を実行している(その詳細は小久保裕紀#突然の巨人への無償トレードを参照)。
この間、11月8日に、福岡ダイエーホークスのファンに対して感謝の意と移籍の決断をした旨のメッセージを公表した[116][117]。
一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[118]、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が12月14日に発表され、背番号「47」、4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[119][120]。これにより再び清原和博とチームメイトになった。
FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。巨人は同年オフ、工藤に加えて江藤智もFAで中日との獲得競争を制する形で獲得に成功していたが、中日の現場の本命は江藤であり、工藤は中日のフロントの意思で急遽獲得に乗り出したものであり、最終的に中日はどちらも巨人にさらわれ、新たな主軸候補として獲得したディンゴも期待外れに終わっている[121]。
2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという[122]。
移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った[123]。
巨人時代
移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わる。
2002年は移籍後初、自身としても1999年以来の防御率2点台だったが援護に恵まれず9勝8敗止まり。それでもチームのリーグ優勝に貢献した。そして同年の日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、古巣相手に8回2失点8奪三振と好投した。試合はそのまま巨人が勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばしたうえ、チームも続く第4戦を制して日本一を果たした。しかし、2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23に終わる。
2004年8月17日の対ヤクルト戦で2失点完投勝利し、通算200勝を達成した。日本プロ野球史上23人目、41歳3ヶ月での200勝は当時の史上最年長記録であった。またこの試合で8回にジェイソン・ベバリンから右翼席へプロ入り初の本塁打となる決勝の2点本塁打を放った。41歳3ヶ月、プロ入り23年目での初本塁打も日本プロ野球史上最年長記録である[注 29]。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率こそ4点台だったが、規定投球回に到達[注 30]し4年ぶりの二桁勝利を挙げた。
2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録、8月26日の対阪神戦では42歳3ヶ月で最年長二桁勝利記録を更新した[注 31]。同年のオールスターゲームでは第2戦にリリーフで登板し、オールスター最年長登板記録(42歳2ヶ月)を樹立した[注 32]。この年は11勝を挙げ2年連続で二桁勝利を記録したが、規定投球回には到達しなかった。
2006年はシーズン前半に3勝を挙げる好スタートを切り、7月には大野豊(引退時43歳1ヶ月)を上回り、実働10年以上の選手としてはプロ野球史上初めて43歳2ヶ月以上の現役左腕投手となった[注 33]。しかし、6・7月の2試合で計10失点を喫し、更に肩を痛めて登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績に終わってしまう。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志、山口鉄也、木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。また、この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。
横浜時代
2009年、横浜時代
2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意であり、工藤投手に大変失礼なこと」と表明。これに対し、工藤自身は「あ、入ってなかったんだとは思ったが、僕がフロントだったら43歳の選手はプロテクトに入れないですね」と巨人フロントへの理解を示し、1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。この移籍に際しては、渡辺恒雄巨人軍オーナーから「元々、我々(巨人)がお願いして来てもらった偉大な投手。今回の件は残念だが、引退後は巨人軍でフロントに入ってもらいたい」とコメントを出すなどの対応がとられた。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。
横浜へ移籍後も背番号は47。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。
2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。
同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[注 34]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。規定投球回には満たなかったものの4年続いた防御率4点台を3点台に収め7勝を挙げた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。
2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ケ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。
2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎の若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。この年自己最多の46試合に登板したが、2年連続の最下位が濃厚となった中でチームの若返りを模索していた[124]球団は、9月15日に戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約にすると発表した[124][125]。移籍先については「国内しか考えていない」とした上で現役続行の意思を示した[124][125]。
第2次西武時代
その中で、2009年11月14日に手薄な中継ぎ左腕の補強を目指していた西武が獲得を発表し[126]、1994年以来の古巣への復帰となった[126]。工藤のデビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用していたが、帆足は「47は元々工藤さんの番号。球団や工藤さんが望まれるのであれば喜んで返還する」とコメントした。帆足自身は西武入団時に尊敬する投手として工藤の名を挙げ、47をつけたいと球団に対して数年来にわたって願い出ていた末の着用であったが、工藤本人も「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞[127]。尚、帆足は後にソフトバンクへ移籍し、工藤がソフトバンクの監督に就任した際にも背番号47を背負っている。11月16日、背番号は「55」と発表された。これについて工藤は「家で子どもたちに相談したら、イケイケゴーゴーだと言われた」「藤井の背番号15の5も入っていて、いいなと思った。彼の分も野球を続けていきたいと思っている」とコメントした[128]。
2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実働年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの本塁打を打たれ、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[129]。
西武退団後・引退表明
西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[130]。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという[131]。
福岡ソフトバンクホークス監督時代
2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った[7][145][8]。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー / ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが[146]、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった[7][145]。
2015年の就任1年目のシーズンでは、交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定[147][148]。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[149]。福岡移転後最速でマジック38が点灯し[150]、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[151]。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[152]。最終的に90勝を挙げ、2002年の伊原春樹(西武)が記録した新人監督最多勝利記録に並んだ[注 35]。クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった[153]。 10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした[154][155][156]。
日本一後の胴上げ(2017年11月4日、日本シリーズ第6戦後)
日本一後の胴上げ(2018年11月3日、日本シリーズ第6戦後)
2016年は首位を独走し、一時は2位に最大11.5ゲーム差をつけていたが失速、日本ハムに逆転されて2位に終わり、CSでも敗退し、秋山監督時代から続いた日本シリーズ連覇が2で途絶えた。野手総合巡回コーチに関川浩一を起用したが、試合中の作戦面やブルペンとの連携、また選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返した[157]。関川は一年で解任された。
投手記録
初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス前期1回戦(西武ライオンズ球場)、6回表二死に2番手で救援登板、1/3回無失点
初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージから
初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表二死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
初先発:1983年8月4日、対南海ホークス16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、9回2失点
初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃成績
初安打・初打点:2000年4月11日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、6回表に藤川球児から左前適時打
初本塁打:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、7回裏にジェイソン・ベバリンから右越決勝2ラン
節目の記録
1000投球回:1991年6月1日、対ロッテオリオンズ8回戦(宮城球場) ※史上241人目
1000奪三振:1992年8月6日、対近鉄バファローズ17回戦(藤井寺球場)、2回裏にアルビン・デービスから ※史上85人目
100勝:1993年9月4日、対福岡ダイエーホークス21回戦(西武ライオンズ)、9回1失点完投勝利 ※史上109人目
1500投球回:1994年7月17日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム) ※史上138人目
1500奪三振:1996年6月29日、対近鉄バファローズ14回戦(福岡ドーム)、5回表に水口栄二から ※史上39人目
2000投球回:1997年6月10日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福井県営球場) ※史上75人目
150勝:1998年9月9日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(千葉マリンスタジアム)、先発登板で7回1/3を4失点(自責点3) ※史上43人目
2000奪三振:1999年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に藤井康雄から ※史上16人目
2500投球回:2000年8月17日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム) ※史上41人目
500試合登板:2004年4月21日、対横浜ベイスターズ2回戦(東京ドーム)、先発登板で4回1/3を7失点(自責点3) ※史上73人目
2500奪三振:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、5回裏にビリー・マーチンから ※史上8人目
200勝:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、9回2失点完投勝利 ※史上23人目
3000投球回:2005年5月12日、対オリックス・バファローズ3回戦(東京ドーム) ※史上25人目
600試合登板:2009年7月9日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、8回裏一死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上34人目
日本シリーズにおける記録
出場14回 ※史上最多タイ
通算102奪三振 ※史上最多
1試合奪13三振:1999年第1戦 ※歴代2位タイ[201]
イニング三者連続三球三振:1994年第2戦3回 ※シリーズ史上初
両リーグ勝利投手:パ8勝(西武で7勝、ダイエーで1勝)、セ1勝(巨人で1勝) ※史上3人目
その他の記録
実働29年 ※山本昌、中嶋聡と並び史上最長タイ
年齢別最多勝:42歳で11勝、44歳で7勝
23年連続勝利 ※歴代1位タイ)
通算224勝利 ※最多勝タイトルを一度も獲得していない投手として史上2位、またシーズン20勝以上が1度もない選手としては史上最多[202]
1イニング4奪三振:1996年8月2日、対千葉ロッテマリーンズ戦17回戦(福岡ドーム)、7回表 ※NPB史上3人目
最年長ホールド:46歳4か月 - 2009年9月20日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、8回裏一死に3番手で救援登板、2/3回無失点
リーグ最多被本塁打を記録していない投手の通算被本塁打:362 ※歴代最多
オールスターゲーム出場:10回(1986年、1987年、1991年、1993年、1995年、1997年、1999年、2000年、2004年、2005年)
監督としての記録
節目の記録
500勝:2021年3月27日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(福岡PayPayドーム)、3-2で勝利 ※史上31人目(球団史上4人目)、837試合での到達は球団最速、歴代3位[203]
背番号
現役時代
47(1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
21(1995年 - 1996年)
55(2010年)
21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている[注 40]。2010年は背番号を55にした。
1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたためやむなく21をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディが47を引き継いだため、移籍3年目の1997年に希望通り47が与えられた。21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。
21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁は13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。
背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47をつけていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。また、同
著書
単著
『僕の野球塾:「考える力」こそ最強の武器』(講談社、2006年3月、ISBN 4062133555/講談社+α文庫、2011年5月、ISBN 9784062814263)
『現役力:自分を知ることからすべては始まる』(PHP研究所、2009年3月、ISBN 4569706827)
『47番の投球論(ベストセラーズ、2009年3月、ISBN 4584122210)
『限界を作らない生き方:2009年、46歳のシーズン』(幻冬舎、2010年1月、ISBN 4344950984)
『探究力。:人間「工藤公康」からのメッセージ』(創英社、2010年3月、ISBN 4881421913)
『工藤公康の10km/h速くなる投球術』(別冊宝島、2011年4月、ISBN 4796682163/決定版、2012年2月、ISBN 4796696601)
『折れない心を支える言葉』(幻冬舎、2012年1月、ISBN 9784344020801)
『野球の本当のこと、ぜんぶ話そう!』(宝島社、2012年7月、ISBN 9784796695893)
『野球のプレーに、「偶然」はない:テレビ中継・球場で観戦を楽しむ29の視点』(カンゼン、2013年4月、ISBN 9784862551771)
『「10年先の自分」をつくる』(KADOKAWA、2013年10月、ISBN 9784046000231)
『プロフェッショナル投手育成メソッド:一流投手へ導く“投球メカニズムとトレーニング”』(カンゼン、2023年3月、ISBN 9784862556677)
『工藤公康 配球とは』(PHP研究所、2023年4月、ISBN 9784569854403)
共著
(白澤卓二)『40歳から進化する心と体』(青春出版社(青春新書)、2013年3月、ISBN 9784413043908)
監修
『工藤公康のピッチングバイブル:DVDでマスター』(カンゼン、2012年6月、ISBN 9784862551306)
関連書籍
『ON対決初戦工藤公康86球にこめた戦い!:スコアラーの目から…』(吉見健明著、三省堂スポーツソフト、2000年10月、ISBN 4385602328)
『工藤公康「42歳で146km」の真実:食卓発の肉体改造』(黒井克行著、講談社+α新書、2006年1月、ISBN 4062723573)
『工藤公康 粗食は最強の体をつくる!:食事を変えれば、体が楽になる!強くなる!若くなる!』(幕内秀夫著、三笠書房、2006年4月、ISBN 4837921868)
黒井克行『工藤公康 プロフェッショナルの矜持』新潮社、2006年10月30日。ISBN 978-4104489046。
『強打者 工藤公康が語る、18.44メートル向こうのライバルたち』(飯尾哲司著、竹書房、2015年3月、ISBN 4801901468)
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