アイスランド人の名前に関する流儀や伝統をひとしきりお伝えしました。少しだけ後から思いついたことがあるので番外編で付け足しておきますね。
アイスランド人の自分たちの名前へのこだわりはお分かりいただけたと思うのですが、時には「やり過ぎ?」と感じさせられることもあります。
例えば有名な映画の登場人物の名前等も-特に子供達が見るようなもの-アイスランド式に変えられることがよくあります。「スターウォーズ」シリーズは決して子供用の映画というわけではないと思うのですが、こちらではルーク・スカイウォ-カーは「ロイエ・ゲイムゲンギットゥル」、レイア姫はリルヤ姫です。
ルークの名字「ゲイムゲンギットゥル」はSkywalkerのアイスランド語訳なのですが、これを人名とするのはいかにも無理がある。「ルーク」なんて「ルーカス」というちゃんとしたアイスランド名バージョンがあるのに、何でLogi(これは一般的な名前)?「レイア」の替わり「リルヤ」も超ありふれた名前です。
さすがにこの変更には大人たちはついていきません。子供たちも英語のテレビには慣れてますから、どこまで浸透したことやら。外国人(外星人?)の名前なんだからそこまで意固地にならなくても良いのに、と感じました。
ただ、これは1990年代前半のことでしたので、今はどうなっているのかな?自分の子供が大きくなってしまうと、幼児界にも疎くなってしまいます。
同じ頃遭遇したもうひとつのエピソードです。
1970年代から90年代始めにかけて、アイスランドは200人余りのベトナム難民を受け入れました。
*200人という数はそれほど大きくはないかもしれませんが、それでも受け入れたという点に関しては日本は心して考えるべきですよ。同じ時期、はるかに大きな国である日本が距離的にもはるかに近いインドシナ半島からどれだけの難民を受け入れたことか。
で、難民の定住促進に責任を負ったのがアイスランド赤十字なのですが、時の(90年代さえ)基本定住政策は「一方的同化政策」(Assimilation)で、「相互統合」(Integlation)ではありませんでした。これは90年代という時期で考えるならば,相当遅れた考えだったと言っていいと思います。
「言葉や文化の全く違うところからやってくるベトナム人は、どうやって早くアイスランド社会に馴染めるだろうか?そうだ!名前をアイスランド式に変えよう」と、いうことで、ベトナム難民の人たちは、アイスランド人の名前の中から気に入ったものを自分で選ぶように言われたのです。
かくして、ベトナムからやってきた「テイトゥル」「ハルドール」や「カトリーン」が誕生しました。
その意図はともかくとして、人のアイデンティティを一方的に無視したこのやり方は、やはりそれなりの結果しか残せなかったようです。ベトナム難民受け入れの大きな失敗は、彼らがアイスランド語を自分のものにし得なかったこと、と陰では公然と言われています。公にはそのような反省はなされていないようです。
失敗の理由はきちんと追求して、反省していかねばならなかったはずです。責任が誰にあるかはまた別問題です。うやむやにされてしまった感は残りますが、「さあさあ、自分の名前は捨てて。アイスランドの名前を取って」という態度にその一因があったのは明らかだと考えています。
アイスランド人の自分たちの名前へのこだわりはお分かりいただけたと思うのですが、時には「やり過ぎ?」と感じさせられることもあります。
例えば有名な映画の登場人物の名前等も-特に子供達が見るようなもの-アイスランド式に変えられることがよくあります。「スターウォーズ」シリーズは決して子供用の映画というわけではないと思うのですが、こちらではルーク・スカイウォ-カーは「ロイエ・ゲイムゲンギットゥル」、レイア姫はリルヤ姫です。
ルークの名字「ゲイムゲンギットゥル」はSkywalkerのアイスランド語訳なのですが、これを人名とするのはいかにも無理がある。「ルーク」なんて「ルーカス」というちゃんとしたアイスランド名バージョンがあるのに、何でLogi(これは一般的な名前)?「レイア」の替わり「リルヤ」も超ありふれた名前です。
さすがにこの変更には大人たちはついていきません。子供たちも英語のテレビには慣れてますから、どこまで浸透したことやら。外国人(外星人?)の名前なんだからそこまで意固地にならなくても良いのに、と感じました。
ただ、これは1990年代前半のことでしたので、今はどうなっているのかな?自分の子供が大きくなってしまうと、幼児界にも疎くなってしまいます。
同じ頃遭遇したもうひとつのエピソードです。
1970年代から90年代始めにかけて、アイスランドは200人余りのベトナム難民を受け入れました。
*200人という数はそれほど大きくはないかもしれませんが、それでも受け入れたという点に関しては日本は心して考えるべきですよ。同じ時期、はるかに大きな国である日本が距離的にもはるかに近いインドシナ半島からどれだけの難民を受け入れたことか。
で、難民の定住促進に責任を負ったのがアイスランド赤十字なのですが、時の(90年代さえ)基本定住政策は「一方的同化政策」(Assimilation)で、「相互統合」(Integlation)ではありませんでした。これは90年代という時期で考えるならば,相当遅れた考えだったと言っていいと思います。
「言葉や文化の全く違うところからやってくるベトナム人は、どうやって早くアイスランド社会に馴染めるだろうか?そうだ!名前をアイスランド式に変えよう」と、いうことで、ベトナム難民の人たちは、アイスランド人の名前の中から気に入ったものを自分で選ぶように言われたのです。
かくして、ベトナムからやってきた「テイトゥル」「ハルドール」や「カトリーン」が誕生しました。
その意図はともかくとして、人のアイデンティティを一方的に無視したこのやり方は、やはりそれなりの結果しか残せなかったようです。ベトナム難民受け入れの大きな失敗は、彼らがアイスランド語を自分のものにし得なかったこと、と陰では公然と言われています。公にはそのような反省はなされていないようです。
失敗の理由はきちんと追求して、反省していかねばならなかったはずです。責任が誰にあるかはまた別問題です。うやむやにされてしまった感は残りますが、「さあさあ、自分の名前は捨てて。アイスランドの名前を取って」という態度にその一因があったのは明らかだと考えています。
名前とアイデンティティ、という話題を見て思い出しました。
数年前英語圏に留学していたとき、自分の名前が一回では絶対に伝わらないこと、電話口では毎回スペルアウトしないといけないこと、(当然ですが)英語風の発音とアクセントで呼ばれること、にほとほとうんざりした時期があります。
そこで、もちろん学校や公の書類では無理ですが、せめて日常で使うときは英語名を通称にしてしまおうか、と一瞬考えました。考えたのですが、「それは嫌だな」とすぐに思い直した記憶があります。後から振り返ると、これはアイデンティティに深く根ざした経験だったのだと思います。
名前が正しく呼ばれない、相手に伝わらないことで自分自身を否定されているような気がしたのも、名前がアイデンティティに深く関わっているからでした。
英語名にしようか迷ってやめたのも、「相手に負けて迎合する感じがしていやだな」という非英語圏文化出身としてのプライドが理由でした。
一度こういう悩みを経験したことで、むしろそのあと、非常に日本らしい自分の名前が好きになりました。今外国の方に自己紹介するときは自信を持って名乗れます。
そして想像していた以上に名前とアイデンティティが繋がっていることに気がついて驚いたものです…
アイスランドでアジア人の名前で過ごすのは、もっと難しそうですね^^;以前アイスランドへ行ったとき、レイキャヴィクでアジア系の人をなかなか見かけず驚いた記憶があります。
コメントありがとうございます。
そうですか、そういう経験をなされましたか。
これは私の個人的な意見なのですが、名前を外国で通りの良いものにしたり、ニックネーム的なものを使ったりすることは構わないと思うんです。ただそれが自発的な本人のしなのか強制なのか、という点はどちらでもいいとは思えません。
アイスランド人で日本へ交換留学に行っている連中の多くは、早い時期に自分の名前の(日本人にとっての)難しさを見て取って、ニックネームを自分で撰んでいるみたいですよ。
私の場合、幸か不幸か?Tomaはありふれた西洋的な響きだし、ToshikiはあのToshibaに似ていることから、それほど苦労せずに来てしまいました。Toshibaと今でも呼ばれることがありますが。東芝の社員でないのが残念です。へへ)
ちょっとポイントがずれたお返事になってしまいました。ごかんべんください。
コメント、ありがとうございます。
tomakoってちょっとかわいいですね。それにワタシの親戚っぽいし。へへ)
もしかしたらtO-mO-kOの三連続Oはアイスランドの人には言いにくいのかもしれませんね。(そういう言葉ってあるかな?)
トコマの方は、もしかして無理して間違えてる?んじゃないですか?
私の場合Toshibaの他に、ToshikAが圧倒的に多いです。これはどこから来てるんか?