もうひとつ載せます。
ここに出てくる「熊工専」は今の熊大工学部のことですね。
私が挺身隊として、熊本航空機製作所に入所したのは戦局もいよいよ厳しく緊迫してきた、19 年の10 月だった。3 月の卒業と同時に行く筈が延び延びになっていた。その頃の私は、7 月末に母を亡くしたばかりで何をする気力もなく悲しみのどん底にあった。女子挺身隊出動の通知を手にして「泣いている時ではない。国の大事に立ち上がらねば」と16 才の私としては随分と悲壮な決意をしたことを思い出す。
工場に初めて行った日は殊の他暑い日だったように思う。私達の仕事場は技術部の作業課だったと記憶している。作業課というからどんな作業をするのだろうかと話し合っていたら伝票やカードの整理など事務的なことや図面のトレス等であった。産業戦士という名称から予想し覚悟していた過酷な労働ではなく、これで国の大事に役立っているのだろうかと思った。同じ課には私達の他に第一高女や尚桐高女の方達もはいっており賑やかであった。学校生活の続きのような毎日であった。一度だけ工場の方へ使いに行った時見た汗と油にまみれて働いておられる人達の姿と、モーターのうなる音にひどく胸をうたれたのを思い出す。
社員の方で菊池から来ておられた三宅さん、熊本市内からの高島さん、松岡さんが私達に仕事を教えたり、世話をしたりして下さった。三宅さんは召集令状が来て私達五、六人で菊池までお見送りに行った。無事戻って来れたであろうか。松岡さんは現在熊本市内で画材店をなさっている。時々逢って昔話をする。名古屋から来ておられた坂口さんはおとなしい方だったが名古屋弁が珍らしく笑ったり、まねたりして坂口さんを困らせたことを、今深く反省している。
その頃、毎日の様に空襲があった。サイレンが鳴り避難命令が放送されると皆が一斉に避難するので足音がすごく大きく聞こえ、いっも私だけおいていかれる様な恐さを感じた。突然敵機襲来ということもあった。或る日資材を積んだ一台の馬車が工場内を通っていた。突然馬が何かに驚いて走り出した。それが引き金になり人、人、人が次々に走り出しB- 29 の来襲だとの誤報がまたたく間に工場内全体に伝わり皆が走り出し避難するという椿事が起こった。後でさんざん叱られるというおまけつきであった。
寮は学校別に部屋割があって私達は1 棟であったと思う。一部屋には6 人づつ入っていた。隣の2 棟には山鹿高女の方達であった様な気がする。私達は戦時中のこととて修学旅行にも行けなかったし、同級生ばかりなので一緒に寝泊りするのが珍らしく、仲良く生活した。寮の規律は厳しく寮長先生は特に恐かった。夜の点呼などで誰かが欠けると代弁をしたりしてうまく難を逃れた。夜は消灯までの時間、家から持って来た妙豆など山の様に積み上げ、ポリポリ食べながらおしゃべりに夢中になった。騒ぎ過ぎてよく叱られた。食事は当時の一般家庭の食生活からすると良かった方ではないだろうか。それでも甘い物のきらいな私はさつま芋御飯は苦手だった。芋を取り出すとご飯はほんの少ししか残らなかった。今は懐しくさつま芋をよく食べている。
空襲のために、夜はモンペをはいて、いっでもとび出せる服装で床に就いていた。枕元には救急袋と頭巾を置いて寝た。或る夜、空襲警報に起こされ素早く身仕度し、暗い道を走り(今は当時の面影もない賑やかな住宅街になっている)秋津の竹林の中の防空壕に避難した。夜明けまで警報が解除にならないので朝御飯は竹林の中でいただくことになった。支給された朝食は久しく見ることのなかった、まっ白いおにぎりにたくあんであった。朝露に光る竹の葉の緑と、まっ白いおにぎり、たくあんの鮮やかな黄色にひどく感動した。
味は勿論涙が出る程おいしかった。今思い出しても、あの朝の感動はいじらしく、切ないものがある。また冷汗の出る様な思い出もある。学校時代から仲良しの友達が「夜勤をすると次の日に休みがとれて家に帰れる」という話を聞いてきた。その友達とふたりで「夜勤をしてみよう。そうしたら家に帰れる」と話しあい、上司に申し出た。するとあっさり許されて夜勤をすることになった。寒い日だった。夕方になると広い部屋に私達二人と係長さんだけになった。暗くなるにつれて私たちは心細くなって来た。夜食の時間になり係長さんに連れられて食堂に行くと昼間と違って広く暗い工場は不気味だった。食堂に入ると女性は私達だけであとは男性ばかりであり、急に恐しくなった。夜食はいつもの食事よりご馳走の様だったが恐ろしさでのどを通らなかった。部屋へ帰って夜空の星を眺めて二人でしくしく泣いていたら係長さんが「もういい、仕事をしなくていいよ。私の横で寝ていなさい」と毛布を貸して下さった。二人で毛布をかぶって、この非常時に何ということをしたのだ、情けないね。と自責の念にかられながらも恐しく何もできず動けなかった。後日休みをとって家に帰ったかどうかは、全く記憶がないがその夜の恐しさと、情けなさだけは強く記憶に残っている。
昭和20年、戦争もますます激しく、緊迫し夜となく、昼となく敵機襲来で工場もあちこちに被害を受け、分散疎開することになり私達作業課は熊工専に移った。大きい資材、荷物は馬車等で運んだが小さい荷物は私達が黒髪町の工専まで歩いて運んだ。途中健軍まで来た時、警報も無いまゝ突然数え切れない程の敵機が飛んで来て機銃掃射をあびせて来た。私達は避難する間もなく松の下の根元にひれ伏した。一瞬これで死ぬのかなと父や兄弟姉妹の顔が脳裏をかすめた。暑い暑い一日であった。
疎開して間もなく入隊したばかりの兄が面会に来てくれた。友達に訳を言って煎り豆を手のひらいっぱい分けて貰った。学校の芝生に座りひとときの平和を感じた。父のこと、亡き母のこと等を話した様に思う。豆を一粒、一粒口にはうり込む様にして食べた兄。笑う口元や目元が横綱の千代の富士に似ているのを最近発見し以来、千代の富士の大ファンとなった。
その最愛の兄も戦争故に今は亡い。この日の兄が私の心に残る最後の兄の姿であった。熊工専へ疎開をしてから私達の宿舎は市内草葉町の旅館に移った。今はとても歩けない距離であるが、当時は毎日歩いて通った、夜空襲があると第一高女の運動場の防空壕へ避難した。
7月1 日の大空襲の夜も忘れられない。降る様に焼夷弾が落とされた。上通り町一帯から市役所付近一帯が火の海となって私達にも消火に当るよう指令がくる。女や年寄りばかりであった。バケツリレーで市役所の消火に当った。気がつくと上へ上へとおしやられ私は一番先頭に立っており危うく煙にまかれそうになった。「危ない逃げろ」と叫ぶ声にふと我に返り急ぎ階段をかけ降りた。
終戦の日、異様に静かな朝であったのを思い出す。皆泣いた、茫然自失、誰もが言葉を失ったかの様にへたりこんでしまった。空はうその様に青く澄み、晴れていた。挺身隊時代をふり返るといっもお腹をすかし、食べ物の話をすることで満腹していた時代、着るものも無く、何度も死の恐怖におびえた、暗い恐しい出来ごとばかりだった筈のあの時代、国の大事に胸を熱くし血を燃やし、不満も言わず友と心を一つにした日々はやはり悔いはない。16 才の青春だったと私は思うのである。
甲佐高女 松永真由子さんの手記
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ここに出てくる「熊工専」は今の熊大工学部のことですね。
私が挺身隊として、熊本航空機製作所に入所したのは戦局もいよいよ厳しく緊迫してきた、19 年の10 月だった。3 月の卒業と同時に行く筈が延び延びになっていた。その頃の私は、7 月末に母を亡くしたばかりで何をする気力もなく悲しみのどん底にあった。女子挺身隊出動の通知を手にして「泣いている時ではない。国の大事に立ち上がらねば」と16 才の私としては随分と悲壮な決意をしたことを思い出す。
工場に初めて行った日は殊の他暑い日だったように思う。私達の仕事場は技術部の作業課だったと記憶している。作業課というからどんな作業をするのだろうかと話し合っていたら伝票やカードの整理など事務的なことや図面のトレス等であった。産業戦士という名称から予想し覚悟していた過酷な労働ではなく、これで国の大事に役立っているのだろうかと思った。同じ課には私達の他に第一高女や尚桐高女の方達もはいっており賑やかであった。学校生活の続きのような毎日であった。一度だけ工場の方へ使いに行った時見た汗と油にまみれて働いておられる人達の姿と、モーターのうなる音にひどく胸をうたれたのを思い出す。
社員の方で菊池から来ておられた三宅さん、熊本市内からの高島さん、松岡さんが私達に仕事を教えたり、世話をしたりして下さった。三宅さんは召集令状が来て私達五、六人で菊池までお見送りに行った。無事戻って来れたであろうか。松岡さんは現在熊本市内で画材店をなさっている。時々逢って昔話をする。名古屋から来ておられた坂口さんはおとなしい方だったが名古屋弁が珍らしく笑ったり、まねたりして坂口さんを困らせたことを、今深く反省している。
その頃、毎日の様に空襲があった。サイレンが鳴り避難命令が放送されると皆が一斉に避難するので足音がすごく大きく聞こえ、いっも私だけおいていかれる様な恐さを感じた。突然敵機襲来ということもあった。或る日資材を積んだ一台の馬車が工場内を通っていた。突然馬が何かに驚いて走り出した。それが引き金になり人、人、人が次々に走り出しB- 29 の来襲だとの誤報がまたたく間に工場内全体に伝わり皆が走り出し避難するという椿事が起こった。後でさんざん叱られるというおまけつきであった。
寮は学校別に部屋割があって私達は1 棟であったと思う。一部屋には6 人づつ入っていた。隣の2 棟には山鹿高女の方達であった様な気がする。私達は戦時中のこととて修学旅行にも行けなかったし、同級生ばかりなので一緒に寝泊りするのが珍らしく、仲良く生活した。寮の規律は厳しく寮長先生は特に恐かった。夜の点呼などで誰かが欠けると代弁をしたりしてうまく難を逃れた。夜は消灯までの時間、家から持って来た妙豆など山の様に積み上げ、ポリポリ食べながらおしゃべりに夢中になった。騒ぎ過ぎてよく叱られた。食事は当時の一般家庭の食生活からすると良かった方ではないだろうか。それでも甘い物のきらいな私はさつま芋御飯は苦手だった。芋を取り出すとご飯はほんの少ししか残らなかった。今は懐しくさつま芋をよく食べている。
空襲のために、夜はモンペをはいて、いっでもとび出せる服装で床に就いていた。枕元には救急袋と頭巾を置いて寝た。或る夜、空襲警報に起こされ素早く身仕度し、暗い道を走り(今は当時の面影もない賑やかな住宅街になっている)秋津の竹林の中の防空壕に避難した。夜明けまで警報が解除にならないので朝御飯は竹林の中でいただくことになった。支給された朝食は久しく見ることのなかった、まっ白いおにぎりにたくあんであった。朝露に光る竹の葉の緑と、まっ白いおにぎり、たくあんの鮮やかな黄色にひどく感動した。
味は勿論涙が出る程おいしかった。今思い出しても、あの朝の感動はいじらしく、切ないものがある。また冷汗の出る様な思い出もある。学校時代から仲良しの友達が「夜勤をすると次の日に休みがとれて家に帰れる」という話を聞いてきた。その友達とふたりで「夜勤をしてみよう。そうしたら家に帰れる」と話しあい、上司に申し出た。するとあっさり許されて夜勤をすることになった。寒い日だった。夕方になると広い部屋に私達二人と係長さんだけになった。暗くなるにつれて私たちは心細くなって来た。夜食の時間になり係長さんに連れられて食堂に行くと昼間と違って広く暗い工場は不気味だった。食堂に入ると女性は私達だけであとは男性ばかりであり、急に恐しくなった。夜食はいつもの食事よりご馳走の様だったが恐ろしさでのどを通らなかった。部屋へ帰って夜空の星を眺めて二人でしくしく泣いていたら係長さんが「もういい、仕事をしなくていいよ。私の横で寝ていなさい」と毛布を貸して下さった。二人で毛布をかぶって、この非常時に何ということをしたのだ、情けないね。と自責の念にかられながらも恐しく何もできず動けなかった。後日休みをとって家に帰ったかどうかは、全く記憶がないがその夜の恐しさと、情けなさだけは強く記憶に残っている。
昭和20年、戦争もますます激しく、緊迫し夜となく、昼となく敵機襲来で工場もあちこちに被害を受け、分散疎開することになり私達作業課は熊工専に移った。大きい資材、荷物は馬車等で運んだが小さい荷物は私達が黒髪町の工専まで歩いて運んだ。途中健軍まで来た時、警報も無いまゝ突然数え切れない程の敵機が飛んで来て機銃掃射をあびせて来た。私達は避難する間もなく松の下の根元にひれ伏した。一瞬これで死ぬのかなと父や兄弟姉妹の顔が脳裏をかすめた。暑い暑い一日であった。
疎開して間もなく入隊したばかりの兄が面会に来てくれた。友達に訳を言って煎り豆を手のひらいっぱい分けて貰った。学校の芝生に座りひとときの平和を感じた。父のこと、亡き母のこと等を話した様に思う。豆を一粒、一粒口にはうり込む様にして食べた兄。笑う口元や目元が横綱の千代の富士に似ているのを最近発見し以来、千代の富士の大ファンとなった。
その最愛の兄も戦争故に今は亡い。この日の兄が私の心に残る最後の兄の姿であった。熊工専へ疎開をしてから私達の宿舎は市内草葉町の旅館に移った。今はとても歩けない距離であるが、当時は毎日歩いて通った、夜空襲があると第一高女の運動場の防空壕へ避難した。
7月1 日の大空襲の夜も忘れられない。降る様に焼夷弾が落とされた。上通り町一帯から市役所付近一帯が火の海となって私達にも消火に当るよう指令がくる。女や年寄りばかりであった。バケツリレーで市役所の消火に当った。気がつくと上へ上へとおしやられ私は一番先頭に立っており危うく煙にまかれそうになった。「危ない逃げろ」と叫ぶ声にふと我に返り急ぎ階段をかけ降りた。
終戦の日、異様に静かな朝であったのを思い出す。皆泣いた、茫然自失、誰もが言葉を失ったかの様にへたりこんでしまった。空はうその様に青く澄み、晴れていた。挺身隊時代をふり返るといっもお腹をすかし、食べ物の話をすることで満腹していた時代、着るものも無く、何度も死の恐怖におびえた、暗い恐しい出来ごとばかりだった筈のあの時代、国の大事に胸を熱くし血を燃やし、不満も言わず友と心を一つにした日々はやはり悔いはない。16 才の青春だったと私は思うのである。
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