私は今、サイパンにいます。
普天間基地をグアム・サイパンへ、という運動をしている党もありますが、いまは、穏やかな南の楽園です。
ここから熊本の7/1、8/10の空襲の際の戦闘機が飛んで行ったのだそうです。
自衛隊通りの花見と同様、当時の人が聞いたらどう思われるでしょうか。
挺身隊時代の想い出
昭和19年3月22日、尚絅高女を卒業と同時に挺身隊として三菱健軍工場に行き、入所式が行われました。各学校卒業生も同時に入所し2千人以上の挺身隊がモンペ姿も凛々しく、不安と期待に緊張した面持ちで整列致しました。
広い工場に入り、所長の御挨拶や注意等があり指導の先生方のお話もありました。それから毎日、実習工場で指導員の笛の音に合わせてハンマー打ちや、ヤスリ掛けの練習が交替で行われ、工場内にはハンマーの音が響き渡りました。
戦争は日増しに厳しくなり物資不足、食糧難となりましたが私達は唯耐え忍び、陛下の御為にと頑張り続けました。
時々、干バナナ、飴、こんにゃく石鹸、等の配給がありました。その時は嬉しくて家族共々喜んだものでした。こんにゃく石鹸はその名の通り見た目にはこんにゃくその物です。全然泡も立たず、あまりよごれもおちませんでしたが無いよりはましで、母もとても喜んでいました。近所の人にも分けてあげていました。実習期間も終り、配属先は工場管理部門の管理課材料係でした。高木課長、有住係長、今井技師の下で働くことになりました。課内には係長が数名、技師、技手の方がそれぞれ数名おられました。挺身隊は第一高女、尚桐高女、市立高女、松橋高女卒業生が5~6 名と簿記学校卒業生、養成工、女子徴用で他来た人数名、合わせて40~50名居た様です。男子は鹿児島の七高生と熊本語専の学徒動員の人も来ていた様です。
朝礼は男子が7 時30 分、女子は8 時でした。交通機関も悪く朝礼に遅れる人もありました。
水前寺駅から第3 通用門の近くまで線路が敷設され、多くの通勤者はこのトロッコの様な車両に乗せられて通っていました。現在では住宅やら、色々な建物が並んでいますが、当時は渡鹿の練兵場で広い広い野原で、見渡す限り芝草と所々に背の低い松が生えていました。引込線の通勤列車は、その中をゴトゴトと走っていました。これに乗り遅れた時、トラックに乗せられたこともありました。
しばらくの間は学校の寄宿舎から通勤していましたが、食糧難になると共に郷里の田舎から通勤することになりました。家は飯野村の船野山の裏にあり、そこから木山の停留所まで歩いて40 分、木山からバスで健軍まで来て、そこから第2 通用門まで小走りに坂道を急いで職場に入る毎日でした。大抵、始業30 分前には着き、皆さんの机上を拭き、係長の机上には時々花を飾っていました。朝礼、点呼が終るとそれぞれの持場に行って仕事を始めるという生活でした。或る日、今井技師が組立工場に連れていって下さいました。重爆撃機が組立中でした。2枚羽根の小さなトンボの様な飛行機も4 、5 機いました。
当時は、何でも軍極秘でしたので、あまりあれこれ聞くことも出来ず、それが何という飛行機かもわかりませんでした。帰りがけに、二枚羽根の飛行機に乗せてもらいました。「飛んでみたい」というと、その内に一回位、乗せて(飛んで)あげるよと云われましたが、遂にその機会はありませんでした。
鋲一本打つにも魂を打ち込んでしないと飛行機が空中分解すると教えられました。
昭和20 年に入ると部品や材料がうまく揃わず、又空襲も激しくなり、生産はまゝならなくなりました。或る日、昼の休憩時間に皆で輪になってバレーボールをしていました。その時打上げたボールが機械工場の屋根にひっかかったので、学生がよじ登ってとりに行ったところスレートが割れて落下しました。
すぐタンカで運ばれましたが、気の毒に亡くなったと聞かされ涙が出ました。
7月に入り毎日の様に警報が入り大事な書類だけ持って近くの竹薮の防空壕に待避しました。高小を出たばかりの女子工員が空襲の恐しさのあまり「お母さん」と云って泣き出したので私は彼女の肩を抱き、妙り豆を食べさせて励ましてあげました。彼女等は当時14~15 才で親元を離れ、寮生活をして頑張っていましたが、やはり母親と離れていることが淋しく、つらかったのでしょう。
当時、私達の姿はモンペをはいて、防空頭巾をかぶり、非常食(大豆を炒ったもの)を入れた袋を肩から下げていました。この姿は日本国中、申し合わせた様に格一的なスタイルでした。
耳をすまし、敵機が遠ざかるのを待って職場に帰っていきました。
7 月1 日の深夜、熊本市は壊滅的な空襲を受けました。市内の空は真紅な火の海と化し、絶え間なく聞える敵機の爆音がにくらしくてなりませんでした。
私は会社が気になったので、翌日早目に出勤しました。健軍の社宅もいくつも焼けて、課内でも2~3人が焼き出されました。職場は空席が目立ち、女子では川下さんと私の二人だけで、男子が5~6人出勤して来ましたが仕事にならず、その日は帰りました。
日課長のお話しがあり、「敵機の本土空襲も日増しに本格化して来たが、森都熊本の軍需工場では、増々旺盛な戦意を以って敵撃滅のため生産に邁進し、頑張っていこう」と激励されました。工員の方の中には、家財をすべて焼かれ、肉親を失った方々も出ましたが神州不滅を
信じて頑張りました。
私も心を強く持ち直し、負けてはならじと気を引きしめました。然し部品も底をついたのか、飛行機は仲々完成せず、不安がつのって来ました。敵機の空襲がある度に、こんなに敵の為すがまゝにされ、日本の飛行機は対抗出来ず、山の中に据えてあった高射砲を一度も発射する気配もなく、私達は敵機が去るのを見届けて壕から出てくるという状態です。
8月10日、私はどうしても気が進まず、会社を休みました。お昼近くになったら御船方面から来た敵機約50機が船野山から低空に入り、太陽の光をあび健軍目がけて突込んで行きました。やがて健軍上空で大きな輪を描きながら、次々と爆弾を落し、見る間に黒煙が立ちこめま
した。船野山の裏の高いところにある私の家から健軍はよく見えていました。私はこわいもの見たさに杉垣の問からその光景をじっと見ていました。次の瞬間、職場の皆さんや同僚の安否が気になりました。会社に連絡をするにも、その頃電話は一里程離れた役場と学校に一台づつあるだけで、誰も電話のかけ方もわからない人ばかりでした。歩いて行ったり来たりで知らせ合っていた時代です。
三菱へ行っている近所の人の帰りを待って工場の状況を聞きました。その人は「もう恐しくて、腰が抜けそうで、死ぬ目に遭った」と涙を流さんばかりにして話てくれました。低空で舞下りて来て機銃掃射をしていき、アメリカのパイロットが見えたとも云っていました。が、とに角、皆無事と聞きほっと胸を撫で下しました。
この頃は、通勤バスも木炭車で火力が強くならないと動かないので、皆んな降りてバスを押し、やっとェンジンがかかったと思うと又停まるという調子で、健軍→木山→家まで歩いて通う日が多くなりました。靴も破れ、下駄で通いましたが、その下駄すらすり減って割れてしまい、素足で帰ることもありました。会社は事務所の横の空地に大きな穴があき、爆風で窓ガラスの破片が辺り一面に乱れ散り、そのすさまじさに思わず目を見張りました。幸い課内の人は無事でしたが、同級生の前田さんの職場では吹きとばされて眼鏡だけが残っていたそうです。
鍍金工場の2 千屯プレスの上には200 kg爆弾が落され大分やられました。この日の空襲で大分あちこちがやられ建物は無残な姿となり只、呆然となるばかりでした。疎開が始り、私達管理課は水前寺の盲学校(現在むつみ荘)に疎開しました。畑の中には焼夷弾の不発弾がニョキニョキと突き立っており、その間を縫うようにして走り抜けたこともありました。
8月14日出勤したら、課長から明日天皇陛下のお言葉が伝えられるので聞く様にと云われました。翌15日、皆外に並んでその時を待ちました。
日本は無条件降伏したという内容のお言葉であったそうですが、はっきり負けて降伏したというお言葉は聞けず、とてもむづかしい言葉であったが、何となく負けたのだという感じが段々判って釆ました。
課長からは「無条件降伏の詔書が奉読され、陛下は国民のことを心配されとても苦しんでのお言葉でした。残念だが今となっては詮方ない。」と話があり、長く、苦しかった戦いも終りを告げました。
8月20日に挺身隊は解除されました。 29 日にちょっと残務整理に行き、500 余円の賃金を頂きました。ハンカチ一枚もない世の中、金はあっても買う物がなく金は役立ちませんでしたので、私の給料袋は神棚にずらりと並べてありました。
健軍終点の土手の上には、焼夷弾の空や不発弾が集められ、山と積まれていました。戦争が終ったら今度は生きるために一生懸命戦はねばなりませんでした。リュックを背負った人達が、田舎へ田舎へと行き、から芋、かぼちゃ、お米など食べられるものなら何でもいいからと、大切にしていた着物などとの物々交換が続きました。夜は電気もなく菜種油で灯されました。
かつて私達が、毎朝小走りに駆けていった工場西の道路も、今は桜並木が続き花見時は歩行者天国となり、花の下には敷物を敷きつめ、唄ったり、踊ったりの大娠いです。この天国の様な昨今を見るにつけ、その昔、私達が同じこの地で歯をくいしぼって生きて来たことが何であったろうかと、フト考える昨今です。
尚絅高女 米原絹子さんの手記
■関連記事
最近読んでいるもの 『健軍三菱物語』
女子挺身隊 のこと
女子挺身隊 のこと その2
女子挺身隊 のこと その3
女子挺身隊 のこと その4
女子挺身隊 のこと その5
普天間基地をグアム・サイパンへ、という運動をしている党もありますが、いまは、穏やかな南の楽園です。
ここから熊本の7/1、8/10の空襲の際の戦闘機が飛んで行ったのだそうです。
自衛隊通りの花見と同様、当時の人が聞いたらどう思われるでしょうか。
挺身隊時代の想い出
昭和19年3月22日、尚絅高女を卒業と同時に挺身隊として三菱健軍工場に行き、入所式が行われました。各学校卒業生も同時に入所し2千人以上の挺身隊がモンペ姿も凛々しく、不安と期待に緊張した面持ちで整列致しました。
広い工場に入り、所長の御挨拶や注意等があり指導の先生方のお話もありました。それから毎日、実習工場で指導員の笛の音に合わせてハンマー打ちや、ヤスリ掛けの練習が交替で行われ、工場内にはハンマーの音が響き渡りました。
戦争は日増しに厳しくなり物資不足、食糧難となりましたが私達は唯耐え忍び、陛下の御為にと頑張り続けました。
時々、干バナナ、飴、こんにゃく石鹸、等の配給がありました。その時は嬉しくて家族共々喜んだものでした。こんにゃく石鹸はその名の通り見た目にはこんにゃくその物です。全然泡も立たず、あまりよごれもおちませんでしたが無いよりはましで、母もとても喜んでいました。近所の人にも分けてあげていました。実習期間も終り、配属先は工場管理部門の管理課材料係でした。高木課長、有住係長、今井技師の下で働くことになりました。課内には係長が数名、技師、技手の方がそれぞれ数名おられました。挺身隊は第一高女、尚桐高女、市立高女、松橋高女卒業生が5~6 名と簿記学校卒業生、養成工、女子徴用で他来た人数名、合わせて40~50名居た様です。男子は鹿児島の七高生と熊本語専の学徒動員の人も来ていた様です。
朝礼は男子が7 時30 分、女子は8 時でした。交通機関も悪く朝礼に遅れる人もありました。
水前寺駅から第3 通用門の近くまで線路が敷設され、多くの通勤者はこのトロッコの様な車両に乗せられて通っていました。現在では住宅やら、色々な建物が並んでいますが、当時は渡鹿の練兵場で広い広い野原で、見渡す限り芝草と所々に背の低い松が生えていました。引込線の通勤列車は、その中をゴトゴトと走っていました。これに乗り遅れた時、トラックに乗せられたこともありました。
しばらくの間は学校の寄宿舎から通勤していましたが、食糧難になると共に郷里の田舎から通勤することになりました。家は飯野村の船野山の裏にあり、そこから木山の停留所まで歩いて40 分、木山からバスで健軍まで来て、そこから第2 通用門まで小走りに坂道を急いで職場に入る毎日でした。大抵、始業30 分前には着き、皆さんの机上を拭き、係長の机上には時々花を飾っていました。朝礼、点呼が終るとそれぞれの持場に行って仕事を始めるという生活でした。或る日、今井技師が組立工場に連れていって下さいました。重爆撃機が組立中でした。2枚羽根の小さなトンボの様な飛行機も4 、5 機いました。
当時は、何でも軍極秘でしたので、あまりあれこれ聞くことも出来ず、それが何という飛行機かもわかりませんでした。帰りがけに、二枚羽根の飛行機に乗せてもらいました。「飛んでみたい」というと、その内に一回位、乗せて(飛んで)あげるよと云われましたが、遂にその機会はありませんでした。
鋲一本打つにも魂を打ち込んでしないと飛行機が空中分解すると教えられました。
昭和20 年に入ると部品や材料がうまく揃わず、又空襲も激しくなり、生産はまゝならなくなりました。或る日、昼の休憩時間に皆で輪になってバレーボールをしていました。その時打上げたボールが機械工場の屋根にひっかかったので、学生がよじ登ってとりに行ったところスレートが割れて落下しました。
すぐタンカで運ばれましたが、気の毒に亡くなったと聞かされ涙が出ました。
7月に入り毎日の様に警報が入り大事な書類だけ持って近くの竹薮の防空壕に待避しました。高小を出たばかりの女子工員が空襲の恐しさのあまり「お母さん」と云って泣き出したので私は彼女の肩を抱き、妙り豆を食べさせて励ましてあげました。彼女等は当時14~15 才で親元を離れ、寮生活をして頑張っていましたが、やはり母親と離れていることが淋しく、つらかったのでしょう。
当時、私達の姿はモンペをはいて、防空頭巾をかぶり、非常食(大豆を炒ったもの)を入れた袋を肩から下げていました。この姿は日本国中、申し合わせた様に格一的なスタイルでした。
耳をすまし、敵機が遠ざかるのを待って職場に帰っていきました。
7 月1 日の深夜、熊本市は壊滅的な空襲を受けました。市内の空は真紅な火の海と化し、絶え間なく聞える敵機の爆音がにくらしくてなりませんでした。
私は会社が気になったので、翌日早目に出勤しました。健軍の社宅もいくつも焼けて、課内でも2~3人が焼き出されました。職場は空席が目立ち、女子では川下さんと私の二人だけで、男子が5~6人出勤して来ましたが仕事にならず、その日は帰りました。
日課長のお話しがあり、「敵機の本土空襲も日増しに本格化して来たが、森都熊本の軍需工場では、増々旺盛な戦意を以って敵撃滅のため生産に邁進し、頑張っていこう」と激励されました。工員の方の中には、家財をすべて焼かれ、肉親を失った方々も出ましたが神州不滅を
信じて頑張りました。
私も心を強く持ち直し、負けてはならじと気を引きしめました。然し部品も底をついたのか、飛行機は仲々完成せず、不安がつのって来ました。敵機の空襲がある度に、こんなに敵の為すがまゝにされ、日本の飛行機は対抗出来ず、山の中に据えてあった高射砲を一度も発射する気配もなく、私達は敵機が去るのを見届けて壕から出てくるという状態です。
8月10日、私はどうしても気が進まず、会社を休みました。お昼近くになったら御船方面から来た敵機約50機が船野山から低空に入り、太陽の光をあび健軍目がけて突込んで行きました。やがて健軍上空で大きな輪を描きながら、次々と爆弾を落し、見る間に黒煙が立ちこめま
した。船野山の裏の高いところにある私の家から健軍はよく見えていました。私はこわいもの見たさに杉垣の問からその光景をじっと見ていました。次の瞬間、職場の皆さんや同僚の安否が気になりました。会社に連絡をするにも、その頃電話は一里程離れた役場と学校に一台づつあるだけで、誰も電話のかけ方もわからない人ばかりでした。歩いて行ったり来たりで知らせ合っていた時代です。
三菱へ行っている近所の人の帰りを待って工場の状況を聞きました。その人は「もう恐しくて、腰が抜けそうで、死ぬ目に遭った」と涙を流さんばかりにして話てくれました。低空で舞下りて来て機銃掃射をしていき、アメリカのパイロットが見えたとも云っていました。が、とに角、皆無事と聞きほっと胸を撫で下しました。
この頃は、通勤バスも木炭車で火力が強くならないと動かないので、皆んな降りてバスを押し、やっとェンジンがかかったと思うと又停まるという調子で、健軍→木山→家まで歩いて通う日が多くなりました。靴も破れ、下駄で通いましたが、その下駄すらすり減って割れてしまい、素足で帰ることもありました。会社は事務所の横の空地に大きな穴があき、爆風で窓ガラスの破片が辺り一面に乱れ散り、そのすさまじさに思わず目を見張りました。幸い課内の人は無事でしたが、同級生の前田さんの職場では吹きとばされて眼鏡だけが残っていたそうです。
鍍金工場の2 千屯プレスの上には200 kg爆弾が落され大分やられました。この日の空襲で大分あちこちがやられ建物は無残な姿となり只、呆然となるばかりでした。疎開が始り、私達管理課は水前寺の盲学校(現在むつみ荘)に疎開しました。畑の中には焼夷弾の不発弾がニョキニョキと突き立っており、その間を縫うようにして走り抜けたこともありました。
8月14日出勤したら、課長から明日天皇陛下のお言葉が伝えられるので聞く様にと云われました。翌15日、皆外に並んでその時を待ちました。
日本は無条件降伏したという内容のお言葉であったそうですが、はっきり負けて降伏したというお言葉は聞けず、とてもむづかしい言葉であったが、何となく負けたのだという感じが段々判って釆ました。
課長からは「無条件降伏の詔書が奉読され、陛下は国民のことを心配されとても苦しんでのお言葉でした。残念だが今となっては詮方ない。」と話があり、長く、苦しかった戦いも終りを告げました。
8月20日に挺身隊は解除されました。 29 日にちょっと残務整理に行き、500 余円の賃金を頂きました。ハンカチ一枚もない世の中、金はあっても買う物がなく金は役立ちませんでしたので、私の給料袋は神棚にずらりと並べてありました。
健軍終点の土手の上には、焼夷弾の空や不発弾が集められ、山と積まれていました。戦争が終ったら今度は生きるために一生懸命戦はねばなりませんでした。リュックを背負った人達が、田舎へ田舎へと行き、から芋、かぼちゃ、お米など食べられるものなら何でもいいからと、大切にしていた着物などとの物々交換が続きました。夜は電気もなく菜種油で灯されました。
かつて私達が、毎朝小走りに駆けていった工場西の道路も、今は桜並木が続き花見時は歩行者天国となり、花の下には敷物を敷きつめ、唄ったり、踊ったりの大娠いです。この天国の様な昨今を見るにつけ、その昔、私達が同じこの地で歯をくいしぼって生きて来たことが何であったろうかと、フト考える昨今です。
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