キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

女子挺身隊 のこと

2010年02月12日 | ☆読書
父が郷土史の調べものをしている中で読んだ資料だといって、送ってきてくれた。
一読して、胸がつまった。
出てくる地名が馴染み深すぎるのも一因。


皆さんにも読んでいただきたく、ここへ転載する。



今でも口ずさむ此の歌、凛凛しい鉢巻姿の友どもの顔が壊しく蘇り、改めて血が燃えたぎる感を覚える。女学校時代後半は殆んど授業返上で奉仕作業にあけ暮れそして卒業、従軍看護婦、造船所、航空機製作所、淡い乙女の夢もかなぐり捨て、固い握手に只お互いの無事を祈りながら女子挺身隊としてそれぞれの職場へととびたっていった。

私は三菱重工、熊本航空機製作所勤務となる。
健軍の秋津寮から工場までを長い二列従隊で合唱も高らかに通い続けた思い出の歌……
モンペ等に防空頭巾を肩から提げ、頭巾袋の中には母より差入れの炒り大豆の小瓶も忍ばせて……現場は板金工場で板金に形を描き、機械に掛けて切り抜く作業であった。一枚でもオシャカ(欠陥品)を出さない様に皆で頑張った。友達の中に過って親指を機械に巻き込まれた人も居た。

寮生活も大分慣れた頃、朝の洗顔を済ませ、顔を上げた途端棚に置いた腕時計が失くなっている。急いで部屋に戻ってみると同室の者が時計の皮バンドを外し自分の胸もとに提げているではないか。私は恐しくなり何も言えず、心は震えながらも歯を食いしばって我慢した。反対にその人が凄む様に私をにらみつけたあの形相が忘れられない。

或る日、食堂で夕食をとろうと皆が並んでいると、私のよく知っている賄いのおばさんから手招きをされたので近寄っていくと小声で「今夜の肉フライはネズミの肉も入っているから食べん方がいいよ、誰にも内緒よ」といって餅を一切れくれた。私は席に戻って箸を付けずにいると隣の人が喜んで全部食べてしまった。炊事場の裏にネズミの頭や、しっぽが小積みになっている…‥・と噂が立ち始めたのもその頃であった。それにしても戦時下の貴重なタンパク源だったのであろう。

日に日に激化する敵機襲来に工場には煙幕が張られ、私たちは工場に寄りつけないまま八丁馬場の桜並木の木蔭や田んぼに避難した。ヒュルヒュルヒュルという爆弾が落ちてくるあの音を聞く度に、教わった通り耳を両手で塞ぎロを大きく開けて地面に伏した。秋津寮も愈々危険にさらされたので鏡町の自宅より汽車通勤となり、職場も作業課の事務に廻された。部品疎開先の上無田の倉庫まで、いっも数人で連れ立ち、伝票と番号を引き合わせ鋳造、鍛造の部品を運んで来た。途中素晴らしい江津湖の風景に、ホッとひと息入れながら作業をした日々が今は懐しい。

連日連夜の空襲警報の中、通勤列車の発着が不規則となり私は砂取の父の友人の方の家に下宿させていただくことになった。その日、父はウグイス色の国民服、母は紺色のモンペ姿で二人揃って私のためにわざわざ来てくれた。挨拶を済ませ、淋しそうに帰っていく父母のうしろ姿がいっまでも忘れられなかった。或る日、残業で夜10 時過ぎとなり、灯火管制で道路はまっ暗闇、下宿のある方角も判らず、あぜ道を足探りで歩いているうちに背丈程もある胡麻畑に這入りこんでしまい出口がわからず右住左住し、必死で帰り着いたのは真夜中であった。下宿の冷たい布団の中で母が恋しくさめざめと泣いたことを覚えている。こんなこともあって浄行寺に下宿している友人からの誘いで私もそこから一緒に通うことにした。

勤め帰りの夜みち、浄行寺のあの曲り角でラジオからいっも流れる国民歌謡のメロディーだけが今でも壊しく蘇る。その頃、組立工場の工員さん達の慌ただしい動きに飛行機の完成を知らされ友人達みんなと心踊らせながら広場へと駆けつけた。既に掛けられたキーンというエンジンの始動音が耳をつんざく。
キラキラと眩しく光る銀白色に真紅の日の丸がくっきりと映え初々しくも、どっしりと額もしげな巨体を横たえていた。
飛龍と命名されたこの飛行機の胴体を撫でながら「私達の造った部品はどの辺にあるのかなあ」などと携わる人々の歓声の中に「ステキ!わあステキ!」とはしゃぎ廻る乙女たち……
この感激を全身に受けとめながら「これからも頑張ろうね」と皆で励まし合い、胸をはずませながら、又それぞれの職場へ帰っていった。
巷では特攻隊の軍歌が流れ、暗いニュースを聞く度に「頑張らなければ」と身が引きしまる。

鈍く、唸る様な爆音を発しながらB-29 の大編隊が絶え間なく襲来、避難命令はかかり通しの日が多くなった。或る朝、人々のざわめきの中で非常招集が発令された。板金工場長が爆死を遂げられたことを知らされた。

その日の午後、待避命令で友人と手をつないで防空壕にかけ込む途中、トイレに立ち寄ったその友人が直撃弾を受けて即死、私は我慢したので命拾いをした。運命とはこういうものか。又、機械工場の窓ぎわに居た工員さんが窓越しに機銃掃射を受けられ、その肉片が窓ガラスに飛び散った現場の有様にはもう目を被うばかりであった。

まるで戦場にいる様な連日の或る日、警報発令もないまま、私たち数人で立ち話をしているところに突然、グラマン一機が急降下するなり、機内のパイロットが私達に白い歯を見せて笑いながらハンカチを振り、あれよ、あれよという問に空高く舞い上って行った。「馬鹿にしとるわね‥・」と腹立たしいながらも何だかポッとした一瞬でもあった。

6 月の終りになって幼な友達の一家のお世話になることになった。そして7 月1 日の大空襲に会い洗馬橋の下で恐怖の一夜を明かした。近くの病院の患者さんが読経を唱える傍らで私は友の手を一晩中握りしめていた。身の危険を返りみず最後まで陣頭指揮に当っておられた方々のふり絞るようなあの声がいまだに忘れられない。

夜が明けて橋上が白む頃、魔の一夜から漸く解放され、通りにはまだ煙続ける焼け跡に焦げた人がうつ伏せに倒れていた。
「新市街は黒すぼれしとるぞ!」との声に震えながら、もう一刻も早く熊本を離れたい……
幼なじみのその一家に別れを告げ八代の両親の許へ急いだ。
有佐駅から我が家まで転げるようにして着いた。

「只今ッ……」と格子戸を開けた途端、「玲ちゃん、あんた生きとったね!」と母が泣きくずれ私を力一杯抱きしめてくれた。「ゆうべは家中で祈っとったばい!」と父も涙声であった。鏡の方から見た熊本はまるで火の海だったとのこと。「あの火の中で玲子はどうなっているだろうか」と母は一晩中泣いていたという。
ひと息ついた母がエプロンのポケットから小さな紙をとり出して私にそっとくれた。

影もなく踏みしだかれしひな草の床しく匂う姿うれしき

短歌の好きな母が必死に私の無事を祈りながら万感の思いをこめて詠みあげたのであろう。あの日の喜びは、今でも心の奥深く焦きついている。もう母の許から絶対離れまい。

翌朝のニュースで、熊本市は続いて爆弾攻撃を受けたと報じられた。私たちが前夜に避難した洗馬橋が次の日には爆弾の直撃を受けたという。あの日、一緒に避難した人達は無事だったろうか。


不気味なきのこ雲が西の空にモクモクと現れ、後日それが長崎に投下された原爆であったと聞かされ、間もなく終戦を迎える。
欲しがりません、勝までは!と歯を食いしばって戦って来た友々の面影が今も彷彿と蘇る。

戦争は悲しいもの、平和は尊いもの、終戦記念日を重ねる度に、その感をますます強くする。
この平和をいっまでもと祈りつつ。



(松橋高女 渕田玲子さんの手記による)


7.1熊本大空襲

健軍三菱重工飛行機工場


http://www1.ocn.ne.jp/~kengun/archives1.html



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