香港に行ったとき、画家であり美術(芸術)の先生もしている友人”楽”クンに会いました。
(先日ここで彼の陳昇評論の一部の拙訳を披露しました)
彼は香港人です。
付き合いはかれこれ10年以上。
はじめは英語でコミュニケートしてましたが、最近は中国語を使ってます。
北京語もとても上手です。
長洲島に行ったとき、在住の日本人のお友達のRさんと楽クンと3人で話をしたのは面白かった。
Rさんと楽は広東語、私と楽クンは北京語、私とRさんは日本語。
二人が話しているとき、残された一人もなんとなく理解している。
(私とRさんの日本語会話は楽クンには聞き取れなかったと思うけれど)
楽クンと香港島まで一緒に帰った。
道々いろいろ話をしたんだけど、中国語のレッスンとしてかなりいい感じだった。
私「今どんな仕事してるの?」
楽「小説の書き方を教えてる」
私「!?小説?美術だけじゃなくて小説?」
楽「そう、美術も教えてるけど」
私「自分でも小説書いてるの?本出した?」
楽「書いてるよ。雑誌に発表してる。まだ本にするには分量が足りないけど、たまったら出版すると思う」
私「そのほかはどんな仕事?」
楽「いろんな学校の中学生に美術を教えてる。時々駅や公園などに野外展示されてる作品を見に学生たちを連れて行くんだ」
私「そういうところにある芸術作品って、ほとんど意味が分からないよね?私、どう鑑賞していいのか分からない。どういう風に教えてるの?」
楽「そういうものを見るときは、まずみなで感想を討論する。そうすると見えてくるものがあるんだよ」
私「なるほど!私現代芸術すごく苦手なんだけど、以前美大卒の友人と一緒に美術館に行って、彼女と展示作品についていろいろ話しながら見てたらとても楽しかったことがあった。そういう感じなのかな?」
楽「そうそう!それから、その作者の背景を調べたりもする。そうするとさらに別の角度から見れたり、深く味わったりすることもできるよ」
なんていう会話を、全部中国語でやれた私ってすごくないですか?
あはは~!
でも上記の会話を全部中国語で書けるかというと、それはできないんですよね。
会話中には雰囲気やジェスチャーなどの助けもあり、内容が理解できるのですけど、言葉としてちゃんと理解してないんでしょうね。
その辺が大いなる課題。
(先日ここで彼の陳昇評論の一部の拙訳を披露しました)
彼は香港人です。
付き合いはかれこれ10年以上。
はじめは英語でコミュニケートしてましたが、最近は中国語を使ってます。
北京語もとても上手です。
長洲島に行ったとき、在住の日本人のお友達のRさんと楽クンと3人で話をしたのは面白かった。
Rさんと楽は広東語、私と楽クンは北京語、私とRさんは日本語。
二人が話しているとき、残された一人もなんとなく理解している。
(私とRさんの日本語会話は楽クンには聞き取れなかったと思うけれど)
楽クンと香港島まで一緒に帰った。
道々いろいろ話をしたんだけど、中国語のレッスンとしてかなりいい感じだった。
私「今どんな仕事してるの?」
楽「小説の書き方を教えてる」
私「!?小説?美術だけじゃなくて小説?」
楽「そう、美術も教えてるけど」
私「自分でも小説書いてるの?本出した?」
楽「書いてるよ。雑誌に発表してる。まだ本にするには分量が足りないけど、たまったら出版すると思う」
私「そのほかはどんな仕事?」
楽「いろんな学校の中学生に美術を教えてる。時々駅や公園などに野外展示されてる作品を見に学生たちを連れて行くんだ」
私「そういうところにある芸術作品って、ほとんど意味が分からないよね?私、どう鑑賞していいのか分からない。どういう風に教えてるの?」
楽「そういうものを見るときは、まずみなで感想を討論する。そうすると見えてくるものがあるんだよ」
私「なるほど!私現代芸術すごく苦手なんだけど、以前美大卒の友人と一緒に美術館に行って、彼女と展示作品についていろいろ話しながら見てたらとても楽しかったことがあった。そういう感じなのかな?」
楽「そうそう!それから、その作者の背景を調べたりもする。そうするとさらに別の角度から見れたり、深く味わったりすることもできるよ」
なんていう会話を、全部中国語でやれた私ってすごくないですか?
あはは~!
でも上記の会話を全部中国語で書けるかというと、それはできないんですよね。
会話中には雰囲気やジェスチャーなどの助けもあり、内容が理解できるのですけど、言葉としてちゃんと理解してないんでしょうね。
その辺が大いなる課題。