こんな記事を見つけました。
凸版印刷が、江戸時代のくずし字を読み取る技術を開発実用化したというもの。
凸版印刷、くずし字翻刻を手軽に公開~OCR技術を応用し、誰でも容易にくずし字で書かれた歴史的資料にアクセスできるWebビューア「ふみのは」を開発、多言語対応により外国人への日本文化紹介にも活用~
古文書読むの大変だと思っていたら技術革新はすごいですね。
でもきっとこれでも読みこなせないものがあるはずで、そこはやはり古文書を学ぶ意義があるはずです。また古文書を読む中で、その時代の文化や社会の有様も知識として持つようになる、むしろその部分が機械にはできないことでしょうね。
さて、ここからが本題なのですが、先日ある高校の国語の先生と話すことがあり、英語教育の話になりました。
彼が「小学校から英語教育なんて必要ない。というか学校で英語教えなくていい。現代は技術が進んで、英語がわからなくても翻訳機などでコミュニケーションはとれるから不自由はない」と言っていました。
へ~。教育の現場にいる人はそういう風に考えてるのか。
国語教師なのに?
と、とても驚きました。
と同時に、その考えがとても危険なものにも感じました。
いつだったか、京都府の中学校の英語教師にTOEICを受験させたら、2割しか730点(この点数は英検準一級レベルで一応の合格ラインとして設定したのだそう)に達しなくて、最低点は280点だったとか。というニュースがありましたが、その先生たちが英語をコミュニケーションのツールとして使っていないことを如実に物語る結果でしたね。TOEICで測れる英語力云々という議論もあるでしょうけど、280点はないですよね、真面目に受けてないのかな?
きっとその国語の先生も、英語で実際に外国人とコミュニケーションとる機会がないのではないでしょうか?先日の「嫌韓」の時にも書きましたが、外を知らずに日本の中にだけいて、自説を振りかざしている人が、今の日本にあって意外に多いような気がします。
英語の本を読むとか、いよいよ困って英語で意思の疎通をしなければならないなんて言う時に翻訳機は便利です。私も、インターネットで外国語のサイト読むときにはしょっちゅう使っています。
よしんば、超小型翻訳機を常に携帯できる時代になり、日本語で会話するスピードと同じように外国語でも疎通できるようになったラそりゃ便利でしょう。
でも、外国語を知ることで日本語を客観視したり、外国語の奥行きを感じることは、外国の文化の存在を知ることになる機会は失われますね。外国語を勉強することは自分の可能性を地球規模に広げることになるのにもったいない。
英語の教育の仕方や、小学生から始めるのがいいのかどうか、細かいことは私にはよくわかりませんが、学校で教えず校外の学習でいいとは思いません。それこそ、経済格差が如実に表れてしまいますね。
それと、今の学校教育の疲弊がそこに現れているのかもしれませんね。
先生辛いのかな。
ついでだから書くと、私の友人で高校教師をしてる人がいますが、死ぬほど多忙です。
部活の顧問を運動部と文化部それぞれ掛け持ちして、私立だから土曜も授業あるし、日曜はだいたい遠征や演奏会、練習、コンクールと恐ろしいまでの連勤。合宿、校外学習の引率も長期休み中に何件もあり、運動部では毎回子どもがケガをするので病院にも付き添い・・・何年もそれが続いています。311の時も合宿引率中で、相当大変だった話を聞きました。部活の顧問は先生にさせない方がいいのじゃないでしょうか?恐ろしい労働環境ですよね。