昭和58年ごろの週刊朝日が 103 回にわたって連載した、有名人の「ひいきの宿」 98 回は、春風亭 柳昇師匠の「御宿さか屋」。以下全文を紹介したい。
幸せの湯 春風亭 柳昇
「戦争前のかなり昔、私の師匠・先代柳橋が夫婦して旅行の折、三島駅でタクシーの運転手さんに、
“静かでよいところありませんか”
と尋ねたところ、連れて来られたのがこの“さか屋”であったとか。師匠夫妻はここが一度で気に入り、親戚同様のお交際(つきあい)になったそうである。初めて師匠夫妻に連れて来てもらったころは、木造2 階建ての本当に古ぼけた宿であった。
“お風呂は大風呂がいいわ、3 人で入りましょう”
おかみさんの提案で大風呂に入った。ほかに浴客がなく、たまらなくよい気分だった。
“柳昇さん、背中を流してあげるわ”
恐縮して辞退する私に、おかみさんは私の背中を流してくれた。師匠は湯ぶねの中で気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。おかみさんが流してくれる湯の音は高い天井に響いて山の湯の情緒はたまらない。
“数ある弟子のなかで、おかみさんに背中を流してもらえる者は私だけだ”
限りなく幸せを感じた。“さか屋”はいつまでも忘れない。」
柳昇師匠は 2003 年 83 歳で亡くなられた。芸風とかは Wikipedia に詳しい。