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▲市HPより
昨年11月19日、文化審議会が、山岳信仰の「富士山」や織田信長の「岐阜城」などとともに綾瀬市の「神崎遺跡」を新たな史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しましたが、今年2月7日、正式に「国指定史跡」になりました。
神崎遺跡は、市内吉岡に位置しています。
この遺跡は、今から約1800年前の環濠集落で、環濠集落全体が遺存しているのは全国的に見ても珍しい例とのことです。
環濠集落とは弥生時代特有の周囲に深い溝を巡らした村のことです。
▲V字の深い溝(この写真はイメージです)
これまでの調査で、神崎遺跡は南北103メートル、東西65メートルの楕円形をした約5000平方メートルの環濠集落であることが明らかになり、環濠の内側には9軒の住居跡が確認されています。未調査部分も含めると、全部で15軒前後の住居跡があるのではないかと考えられているとのことです。
神崎遺跡は出土土器のほとんどが愛知県東部から静岡県西部の形態に類似していた点などから、当時、東海地方の人々が集団で移動してきたことがわかった貴重な遺跡です。
現在はすべて埋め戻されていて、現地に立っても畑などを眺められるだけですが、市では「今後整備活用を図ってまいります」とのことです。
古代ロマンのあふれる地として、市民憩いの場になればと思います。
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神崎遺跡については、過去記事(1)「神奈川の人類の歴史は綾瀬市からはじまるのです」、過去記事(2)「2世紀ごろ弥生人は相模川をのぼって綾瀬にやってきた」、もご覧ください。
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この秋葉山古墳群は、「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼が没した直後の3世紀後半から4世紀前半に造られたとみられています。この地は、海老名市で一番標高の高いところですので、南は江ノ島、東は関東平野、西は相模川に丹沢の山なみの連なりが一望できる地だったので、ここが選ばれたのでしょう。
▲ここまで掲載の写真は、海老名市教育委員会発行のパンフレットより転載
この写真は第2号墳ですが、写真の奥の方の丸く小高くなっているところが後円部で、手前が前方部です。写真だとわかりにくいですが、現地で見れば、「オオ!」となるはずです。
ちなみに、この古墳は発掘調査の結果、年代が古い順に、第3号墳(前方後円墳)、第4号墳(前方後方墳)、第2号墳(前方後円墳)、第5号墳(方形)、第1号墳(前方後円墳)ということが判明したそうです。
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つい先日のブログで、綾瀬市に旧石器時代の遺跡がある、ということを記しましたが、今回は、綾瀬の弥生文化は、どうやら愛知県三河地方からの集団移住によって伝えられたのではないか、というお話です。
これは、11日午前、「神崎遺跡を考える会」の2月例会に参加させていただいて、講師の西川修一先生(県立旭陵高校教諭)から教えていただいたことです。もっとも、先生は、考古学の中には史料を現代に都合のよいように解釈しているものもあるので、眉に唾をつけて聞いていたほうがいいこともあります、とのことでしたが、2世紀ごろ三河地方の弥生人たちが相模川をのぼって綾瀬の地に定住したことは間違いなさそうです。
なぜそう言えるのかというと、それが神崎遺跡から出土した土器にその根拠があるのです。その土器は、愛知県豊橋市の遺跡から出土した土器とまったく同じ様式だったのです。このことを西川先生は「綾瀬市神崎遺跡の衝撃」というタイトルでお話しくださいました。