矢作俊彦 文庫版は新潮社、平成4年。
自動車雑誌「NAVI」に、1985年頃から連載された読み切り短編小説を集めたもの。毎回1台の車がモティーフとしてとりあげられているが、必ずしも車が主役となっているわけではない。時代的には、作者の青春時代である1960年代末が中心となっているようだ。
短編小説として、実にセンスの良い傑作だと思う。これらの連載をリアルタイムで読んでいたので、どうしてもノスタルジックな気持ちがはいってしまう。それをを排除し、じっくり読み直してみたが、今読んでもその切れ味は一流だと改めて思う。
まあ、ちょっとヨコハマ ハードボイルドな臭いが強いけど。
男が負けていく話だ。
それこそ、いろいろな負け方がある。結婚相手を奪われる、若さに負ける、賭に負ける、レースに負ける・・。
ちゃんとしていないのだ。それを、わかっているのだ。
そして、責められる。
ロータス・コーティナで、トヨタコロナ・マークⅡGSSに挑み、追い切れず後塵を拝する主人公(津田)に、同乗している元彼女の弟、亮は言う。
「詰めが甘いんだよ。津田さんは」
狷介な気分になって、亮は食い下がった。そうした自分にひやっとしたが、虫歯にあてたキューブ・アイスのようにそれを心地よく感じた。
「いつもそうだよ。俺、そう思うな。」 (キューカンバ・サンドウィッチ)
事情があって離島(たぶん小笠原)に逃げてきた男に向かって、連れの女が、ここでも国内のテレビ放送が見られることを知って、言う。
「知っていたとは言わせないわ」
「何がだ」
「電波が届くことよ」
「そんなことどうだっていいんだ」
「あなたのすることって、いつだってこうよ。半分は旨く立ちまわるの。でも、半分は抜けてるの。-抜けてるんじゃないわ。無視するのよ。どうだっていいんだわ。恐れていることが現実になってしまうのが厭なのよ。」(渚のランデ・ヴー)
早暁に家を出て行こうとする妻との会話では、妻に責められる
「失敗?」煬子が遮った。
「失敗じゃなくってよ。やめちゃったのよ。あなたは」
「大沢美術にだまされたんだよ」
「騙されたんじゃないわ。古美術の輸入なんて、あの程度のリスクは当然だって、みんなも言ってたもの」
「きいたようなことを言うなよ」
「騙されたとしても何よ。あの程度の欠損で潰れるわけないわ。潰したのよ。-やめちゃったのよ、あなた。いつもと同じよ」
(さめる夢、さめない夢)
亮ではないが、僕もこんな描写を読んでいるとひんやりとした気持ちの良さのようなものを感じる。
男とは中途半端で詰めが甘いものなのだ。僕だってそうだ。俺は違う、という人はいるとは思うが。
津田は、こう答えている。
「ツメを鋭くするなんて、本当は恥ずかしいことなんだよ。覚えておくといいぜ、少年。たとえばああした車と同じだよ」
なんでそうなるのか、よくわからないのだが、無様な方がかっこいいのだ。
老成にあこがれる若者、幌の閉まらないオープンカーに、すすだらけになりながら乗る伊達もの・・。
借金を抱え、2千万を注ぎ込んでフェラーリを買ったもと映画スターは、高速の中央車線で世界を止める。
フェラーリに乗ったら死んだも同じさ、とかねがね公言していた。
その気になればその先に行ってしまうこともできるかも知れない。しかし、彼は帰ってくる。
・・そうありたいように見せていただけだ、と彼は思った。そうであるように、見せたいように。
やがて左足がクラッチを求め、右手がギアを四速へ落とした。いきなり地球が回転を再開した。はじめは激しく、やがてゆっくりと、すべてのものがちょこまか動き出した。二速で、彼はそこに帰った。フロント・モールの上に茜色の空が戻ってきた。風が生き返り、エンジンが機械音を立てた。
フェラーリはひそやかに路肩をめざし、ぴたりと止まった。大きな息が胸から転げ出た。
何、死ぬほどのことじゃない、と彼は呟いた。たかが映画じゃないか。
百連発の舌打ちが口の中を破裂させた。(銀幕に敬礼)
最後の台詞は30年前からずっと、心に引っかかっていた言葉だ。
解説はもとNAVI編集長の鈴木正文氏だが、これについてはまた稿を改めたい。