小松左京、谷甲州(第二部)
もう4月になってしまったけど、50年前の3月20日は小松左京の「日本沈没」が刊行された日でした。
また今年は関東大震災から100年の節目にもあたります。
3月の初めにNHKで南海トラフ地震を綿密に考証したドラマ仕立ての番組がシリーズで放送されました。30年以内の発生確率が70-80%、発生の状況によっては日本経済に深刻なダメージを与える可能性すら示唆されています。
とかなんとか、考えながら年明けから先月にかけて、つらつら読み返してみました。今回は主に第二部が中心に語ります。
第一部の、小松氏の迫力あふれる筆致と途方もない発想力には圧倒されるしかなくて、それをここで繰り返しても仕方ないのですが、今読んでも未来的ですごいですね。。
当時は最新の理論であったプレートテクトニクス理論を、単に引用するだけではなく物語の方向性を形作る地殻変動(地球の核が膨張し、その過程でマントル対流に急激な変化が起きてプレートが支えを失う)の理論構築(トンネル効果)までもっていく、その説得力がものすごい。なにしろ竹内均さんも大絶賛したという、それこそSFの真骨頂みたいな理論設定です。
いや、うさぎには難しすぎて、ただ幻惑されてしまうのではありますが。。
ちょっとした近未来の設定ー超音速機や地域内空調、3Dホログラム投影機なども、適度に物語をドレスアップしてくれて、さっきも書きましたが古臭い感じがしません。70年代前半の近未来ですから、例えば1980年前後だとしても今から40年ぐらい前という設定なのでしょうけど、その時代を通過してきた我々にも違和感を感じさせません。
他方、小説という視点で見た場合、これまた時代なのでしょうけれど、小松氏の女性の書けなさぐあいは、いささか本作品の価値を損ないうる要因として、無視できないレベルにはあるかと思います。
最初にこの本を取り上げたときにも書いたかと思いますが、平穏な都会の庶民生活を描写する場面で、なぜかネオン街とサラリーマン、そしてホステス達、という記述が繰り返し出てくる。なぜか都会の華やかな世界=飲み屋のホステスさんなんですよね。。上下巻で出てくる女性は、阿部玲子、マコ(=ホステスさん)と渡さんのところの花枝さん、だけなんじゃないかな。あと名無しのサラリーマンの奥さん。
第二部は日本列島が完全に水没(小説世界では『異変』と通称されています)してから25年経過した世界を描いています。
仮に第一部の近未来世界が執筆時より10年弱先、例えば1978年だったとすると、その25年後は2003年です。つまり今から20年前です。
物語は『異変』後25周年の記念式典が政府主導で行われようとしている、直前から始まります。第一部に出てきた数少ない女性、花枝には自衛官の息子と大学生の娘(桜)がいます(ほかにも多くの子を産んだらしいが、物語には出てきません)。
また第一部で主人公小野寺と婚約していた阿部玲子は、国連難民高等弁務官事務所に勤務しています。
年齢的には花枝は48歳、玲子も50台前半ということになります。
実際には花枝はほとんど出てこない(小説では桜から見た母親の印象として描写され、セリフもほとんどない)ですが、この世代の女性たちが職業を持って活躍しているあたりが、個人的にはとても好印象です。このほか、パプアニューギニアの農業研究所長も女性ですが、この辺が時代ですね。リアリティがぐっと増してくる。
自分(うさぎ)の職業経験とオーバーラップさせて、物語世界に入っていきやすいな、と思いました。
日本人は世界に四散し、避難先で農業開発をしたり、時に地元民との軋轢や迫害を受けるなどしながら、世界で唯一国土のない国家の国民として生きています。二重国籍も認められているようですが、基本的には避難先で自治区のような地域をあてがわれて、そこで独立した経済を営んでいるらしい。政府省庁は世界中に拠点を分散して活動している。徴税はどうなってるんだとか、地元政府との関係はどうなってるのかとか、移転した日系企業はどうしたのかとか、よくわからないことが多いです。
年配者は日本の国土、生活、風習をよく知っているし、中核世代も日本で子供時代を過ごしている。しかし、若手が生まれたときには既に日本はなかった。
渡桜のように、『異変』前の日本の国土や生活に強い関心を示す人もいるし、生まれた土地に溶け込んで、日本のアイデンティティを失いかけている若者もいる。
第一部でも活躍した中田(D計画の主力メンバー)は、日本の首相になっていす。『異変』後、現地調査を含め、立ち入りも処遇も一切が凍結されている、かつての日本の国土が存在した地域に、メガフロートを建設し、新たな日本を再建しようと計画している。
本作の世界では(いま風にいえば世界線か)、日本民族は国土喪失後も引き続き高い民族的団結性と勤勉さ、さらに高度な技術力を有し続けているという前提のもとに物語が進んでいます。物語のキーとなる、世界最高度のスーパーコンピュータも開発している。
この辺り、第二部の執筆時点(2000年代の初め頃)と2020年代半ばに差し掛かった今とでは、そのリアリティに差異が出ているのではないか。言い方を変えると、我々の日本人観は時代が下るにしたがって変化し、かつてほどは自らの民族的一体性や技術力を手放しで信頼することができないのではないか、という気がしてきた。。
日本人は過去150年ほどの歴史の中で、自らの民族的特異性を、過度に意識しすぎているのかもしれない、という漠然とした思いがある。
産業政策や村落単位での行政などの人的要素、海に囲まれ、自然の恵みを得やすい一方、自然からの災害の影響を受けやすいという地理的な環境、さらにそこからもたらされる地政学的な環境などが複合して、今日の日本(人)という実像が作られてきた。
しかしもちろん、日本に生まれた人間という生物が、特別に優れているわけではない。今日の国家という概念はたかだかこの500年ほどの間に、主に西ヨーロッパで形成されてきたものだ。
現世人類自体(トバ・カタストロフ理論を、どこで知ったのかすっかり忘れていたが、初めて触れたのはこの物語からだったと今回思い出した)、一時は絶滅寸前まで追い込まれ、そこから世界に四散して今日に至っている(という説がある)。ましてや現代は世界のどこでも人の移動、交流が容易だ。今日の世界人類の多様性は、後天的な環境、文化に依存する部分が極めて大きい。
果たして、日本人という概念はそれほど堅牢なものなのだろうか。
それより先に、まだ国土も社会も保たれているはずの、現実の日本人自体が変質し始めているんじゃないかな。。
ともかく、物語世界ではかつての「日本人」が従来的な日本人らしさを保って、かつての技術立国、勤勉な日本人をほうふつとさせる行動を見せている。
物語の後段で中田首相と鳥飼外相が議論を戦わせる場面がある。
第二部は小松氏が若手作家数人とプロジェクトチームを組み、議論の末取りまとめられたという。この論戦場面も、その時の議論が下敷きになっているのかもしれない。
ただ、大事な場面の割には論理が直截かつ深みに欠ける気がしないでもない。前はちょっと感心したけど、今読むとね。
ものすごく生意気な言い方になってしまうけど、なにぶんテーマがあまりにも壮大なので、物語の運びがいささか窮屈というか、筆が薄味といったらいいのか、そういう印象が随所にある。
小松氏としては、本書が示した流れでこの小説世界に締めくくりを与えたかったのだろうし、第一部から一貫したテーマ性は保たれている。
ただ、一つの可能性として、本書の「世界線」のもと、もう少し細かい視点、例えば本書に出てきた山崎とカザフ周辺の日本人集落、篠原とパプア地域の開発などを、個別に腰を据えて小品としていくつかまとめていく、という方向性はなかったのかという気はする。
要するに、広げた風呂敷を無理にたたもうとしてる感が、ちょっと見え隠れするのだ。。
ああ長くなった。こんなのよんでくれへんな。