藤沢周平の「用心棒日月抄」シリーズは4部からなっている。基本的にはエンターテイメント小説だが、この「凶刃」には、何か深いものを感じたので、取り上げてみたい。
最初の3部はちょうど1話完結のテレビドラマのような連作短編になっているが、最後の「凶刃」だけはエピソードが最後まで完結しない長編の形式を取っている。年代的にも、初期の3編は主人公青江又八郎の20代後半を描いた青春ものになっているのに対し、本編での青江は既に齢40代半ばに達し、腕に覚えはあるものの下腹は突き出て・・、という、剣豪ものには珍しい?設定となっている。
諸事情で脱藩し江戸で用心棒をしていた頃の仲間達(その交流は最初の3編で詳しく語られる)と、16年ぶりに再会するが、物語は、その16年という歳月の流れを、青江が噛みしめていく。
昔世話になった口入れ屋の吉蔵は、病を得て干し柿のような姿で青江の前に姿を現す。第2部、3部で青江と共に行動する、女嗅足の佐知は昔と変わらないように見えるが、本人は、
『太りました。 それに小皺も増えました。でも、そろそろ四十女ですからいたし方ありません。』と、無邪気に言う。かつての佐知は、堅苦しすぎるほどの女だったのだが、少しは青江に軽口を叩くことができるようになっている。一方、事件のカギを握る人物を、昔なら口を塞いでしまうところだが、
『私も齢取りました。仏心が芽生えたというのでしょうか、近頃は無意味な殺生が億劫になりました』という。そして、やがては帰藩しなければならない青江との、永遠の別れが近づいていることを、随所で惜しむ感傷を見せる。
前編の解説で、常盤新平さんが、佐知という女はいいなあ、と書いている(正確には、そう言ったのは彼の友人)。これは男性の身勝手な「理想の女性」像だろうか?そこはよくわからない。藤沢氏は決して、一面的な女性像を描く人ではない。この佐知という人はちょっとできすぎかもしれない、とは思うが、女性の目から見て、どう写るのだろうか?
『・・人は、やがて来る別れを思って、いっそ出会わなければ良かったと思うことはないのだろうか、と又八郎はかつては胸にも浮かばなかったようなことを思って見る。』
(これはエンターテイメント小説らしからぬ、重い言葉。思わず、本を離れてしばらく考え込んでしまった)。
又八郎も多分に感傷的だ。かつての用心棒仲間、細谷源太夫を訪ね、彼がようやくつかんだ屋敷勤めを追われ、ふたたび用心棒をしている姿を見て、
『又八郎の頭には、むかし細谷源太夫と過ごした野放図な浪人暮らしの月日が、懐かしく甦って来た。危険を紙一重でやり過ごすような日々だったが、一剣を恃んで恐れを知らなかったものだ。そんな日々にも、ずいぶんおもしろいことはあった。なによりも身も心も自由だった。あの頃に比べれば、今の俺は心身ともに小さくかがんで生きているとは言えぬか。細谷がこの年になって、なおも用心棒というしがない仕事にしがみついているのを憐れみ笑うべきではない。
細谷は細谷で、彼らしく筋を通して生きてきたことを認めねばなるまい・・・。』
本編での細谷の姿は哀れだ。
細谷源太夫は、細かいことにこだわらない、豪放磊落な人物として描かれている。仕官していた藩が取りつぶしになり、浪人となり青江と共に用心棒を務めた。前編では最後に、雇われた旗本の家臣のもとでの活躍が認められ、三十石で家士に採用された。
ところが、もともと我の強い細谷は、お屋敷でも争いごとが絶えず、そのたび夫人が取りなしてきたが、ある日上役を打擲してしまい、勤めを解かれてしまう。夫人はそれがもとで心を患い、死に別れる。細谷は酒が手放せなくなり、子供からも愛想を尽かされている。
幸い、最後には北国の藩で儒臣として仕えている長男のもとに身を寄せることになる(この辺り、作者の優しさが見て取れる)。
16年か。
今日、持っているマンションの様子を見に行った。先日借りていた方が退去されたので、現状を見に行ったのだ。この部屋は、かつて僕自身が住んでいた部屋でもある。ドアを開けると、その頃の記憶が甦り、懐かしい家に帰ってきたような気分になる。
それが15,6年ほど前のことだ。長いようで短い。しかし、16年の歳月はたしかに誰の身にも流れている。あの頃の仕事仲間、上司、同僚と、今再会したら、一体どういう思いをするだろうか?