日経の9月に連載された鈴木忠志さん(演出家)の「私の履歴書」から。
シドニーのオペラハウスで、鈴木さん演出の「トロイアの女」が上演されたとき、鈴木さんは三井物産会長の八尋俊邦 さんと一緒に観ていた。
鈴木さんの演出では舞台中央にギリシャの神像、あるいは日本の菩薩のような姿の男が立っている。ギリシャ兵がトロイアの子供や女たちに乱暴狼藉を働くが、この男はただ黙って見ている。
終演後のパーティで八尋さんは「この芝居は戦争になると神も仏もない、ということだな」と言った。
不幸にあった女たちにとって、(舞台の)神像の存在は何の意味もない。救いの手を差し伸べることもなく、ただ黙って見ている。
鈴木さんは八尋さんが自分の演出の意図を的確に捉え、きわめて簡潔に表現してくれたと思い、感動したという。
八尋さんは1915年の生まれ、戦争の悲惨な記憶を沢山持っているはずだ。
その経験が、鈴木さんの演出の意図を的確に捉えさせたのだろう。
なにかのきっかけで、それを見たり聞いたり、あるいは思い出しただけで条件反射的に涙が出てしまうことがある。
前に映画「この世界の片隅に」を観たときは、しばらくすずさんの事を思い出しただけで泣きたくなってしまい、ちょっと弱った。テーマ曲が「悲しくてやりきれない」なのだけど、あれを聞いても自動的に涙が出てきてしまう。
3.11の後、音楽会等では東北を応援することを意図して「ふるさと」を歌う、ことが流行した。来日したプラシド・ドミンゴも確か歌っていた。
僕の属する音楽団体でも、コンサートのさいごに観客みんなで歌う、という演出がなされた。
歌っていると、何十年と聞き慣れた歌なのに、なぜか泣けてくるのだ。
なぜか・ではない。理由ははっきりしている。3番の歌詞に「山は青き ふるさと 水は清き ふるさと」とあるが、歌いながら色々考えてしまい。。
ちなみに、いまはもう大丈夫です。
鈴木さん演出の舞台は見ていないが、じっと立っている神像、という設定を読んで、目に浮かんだ映像がある。
被爆経験を原点に救済への願いを描く 平山郁夫《広島生変図》
平山郁夫さんは広島で勤労動員中に被爆している。この絵は平山さんが描いた唯一の広島の絵だ。
真っ赤な空に不動明王の姿が見える。
不動明王は、何かを語り掛けたり、拳を振り上げたりはしていない。リンクの解説では、憤怒の中に深い悲しみをたたえた表情(でじっと見つめている)、とある。
この絵の完成画は見ていない。平山郁夫美術館で、構想のための下絵が展示されていたのを見た。
見ているうちに涙が自動的に出てきた。
鈴木さんの舞台演出でも、神像は人間の悪行を黙って見ている。
鈴木さんは、(演出を)無力な神像に対する皮肉、と書かれている。
しかし、個人的には、神像が全く無力だとは思わない。
そこにいて、人々の仕業を見ていること自体に意義があるように思う。
親不孝をしてしまった子供を、咎めるでもなく泣くでもなく、見つめている親のように。
狙ったわけではないが、今日はイスラエルのガザ侵攻(につながったハマスの奇襲)からちょうど1年だ。
ウクライナの戦争もそうだが、連日の報道を前にして、我々はなすすべもなく眺めているしかない。
しかし少なくとも、目をそらす事だけはせず、事態を見守り続けないと。