4月末に開設して半年が経過した。開設1ヶ月の時も書いたが、一応1日1記事書くことを自らに課して書いてきた。一時期twitterから自動転送したものもあるので、記事の数は200近くになっていると思う。結構検索からカメラ関係の記事に飛んでこられる方がおおいようで、その割にたいしたことを書いていないので恐縮している。
今後は少しペースダウンして、毎日1更新という原則はとらないようにしていきたい。1日2,3書くこともあれば、書かないこともあるかもしれない。
晩年の城山三郎のエッセイには度々地元である茅ヶ崎が話題として取り上げられている。最近まとめて城山三郎の本を読んだこともあり、どんな街なのか、尋ねてみようと思い立って行って見た。
茅ヶ崎には烏帽子岩なんかもあるが、基本的には観光的な施設はなく、普通の郊外住宅地である。相模線も分岐するJRの駅だから、街はそれなりに大きい。
つばめグリル。お気に入りだったようで、奥様や編集者との待ち合わせにもしばしば利用されていたようだ。晩年の日記(「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」)にあまりしばしば出てくるので、どんな店だろうか、と思ったのが今回出かけたきっかけ。お昼をここで食べたけど、気取らない、感じの良い店だった。
駅前のマンションに仕事場を持ち、奥様存命の頃は自宅から通勤しておられたそうだ。そのマンション、ここかなとも思ったけど、さすがにその写真をここに載せるのは差し控えたい。駅前は山側の方が大きな商店などが多く並び、海側は高い建物はあまりない。少し歩くと、静かな住宅街になる。城山氏の自宅もそんな中にあったのだろうけど、探す気にはならず、街の雰囲気を味わう程度にして、海に向かった。
あいにくと雨が降ってきてしまい、駅前のヨーカ堂で傘を買った。雨はぱらつく程度で、散歩するのには支障はなかった。砂浜から海を見るのは久しぶりだ(お台場付近なら9月に行ったけど)。
「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」は城山氏晩年の日記というか、手帳の書き込みを編集したもので、日常の細々としたことや、心の葛藤などが、なまなましく書き込まれいてる。このblogもそうだけど、人に読まれることを前提とした日記はそれなりに心得た書き方になるものだが、これは自分のためだけに書かれた日記だ。日記を書いた人ならわかると思うけど、こういう日記は心を整理するために反省文みたいのを書いたり、どこで何を食べたみたいな些細なことを毎回書いてみたりするものだ。
どうせ、あちらへは手ぶらで行く
城山氏と言えば、作家として確固たる地位を確立した人であり、また政府、日本を代表する企業のトップから助言を請われるような、強い信念を持った人だった。そんな城山氏が夫人を亡くされて強い喪失感に見舞われたり、忍び寄る老いと闘い自分を叱咤激励しているというメモを残しているということに、ショックを受ける。
夫人に先立たれたことが、本当に辛かったようだ。人はどんなに努力しても、最終的に辛さ、弱さから逃げることはできないものなのか。
この本ではなくどこかののエッセイで、関西の高名な老僧が、臨終に際し弟子たちに残す言葉を尋ねられたとき、「死にとうない」と答えた、というエピソードに感銘を受けた、と書いておられた。しかし、弱さを肯定するだけで終わるのではなく、城山氏は政府に対し挑戦し、少しでも仕事を続けようと努力する。だからこそ痛々しく感じられるのだが。
そういえば、「大義の末」の柿見も、自分の心の弱さを自覚しながら、心を押さえ込むことを拒否して、自らを傷つけてしまう。「小説日本銀行」「官僚たちの夏」の主人公たちも、自分の弱さを肯定し傷ついている。
僕なども自分への正直さというか、そういう弱みは多分に抱えている。心なんか、なければ良いのにと、ちょっと本気で思ったりもする。
先日村上春樹のUnderground(英語版)を買って、今少しずつ読んでいる。
この本、今まで何となく読むのを避けていた。文庫版だとなんだか活字が小さくて分量もやたらと多い感じだし、それに正直に言えば僕は村上ほどこの事件に興味を感じていないと言うこともある(ただ、16年を経た今、事件のことが人々の話題にほとんどのぼらなくなっている事には、ちょっとびっくりする)。書店に行ったら1Q84の英語版が発売になったと言うことで、他の作品と共に目立つところに置かれていたのを偶々手にして、ちょっと買ってみるか、という気になった。英語版だというところが少しひねくれている。
その頃のことを思い出してみた。
事件のあった95年3月、僕は転職をした。前の職場へは、霞ヶ関駅を使って通っていた。いつも駅に着くのはもう少し遅い時間(8時半過ぎ)だったので、直接事件に巻き込まれることはなかったかもしれないが、もし前と同じ職場に通っていたら、どこかで足止めを食っていたかもしれない。前の上司は事件の1年ほど前に退職していたが、やはり霞ヶ関を利用して通勤しており、しかも朝は早く来る人だった。事件の後しばらくして、前の同僚と話す機会があったとき、もしXXさんがまだ会社にいたら、ひょっとしたら事件に巻き込まれていたかもね、などと話をしたのを覚えている。
そんなことを思い出したら、事件を離れてその頃の同僚たちのことが次々と心に浮かんできた。
辞めてしばらくの間は、前の同僚たちとも頻繁に連絡を取っていたが、やはり時間がたつとだんだん疎遠になる。
苦学して資格を取ったが、普段はまじめな顔をして今で言うところの親父ギャグを飛ばす上司、おもいきりお嬢さんのMさん、ちょっと気性が激しくて苦手だったPくん、やけにウマが合ったYさんとは、しばらく連絡を取り合っていたし、メールのやりとりもあったのだが、いつからかメールが通じなくなってしまった。一緒にいた頃の職場で交わしたジョークとか、上司の話、他の部署の人たちの話など、会えば話が尽きなかった。
face bookができてから、以前の同僚たちと再会を果たすことが多くなったが、この時代の同僚とは連絡が取れない(上司とだけは年賀状のやりとりがあるが)。
僕はかなりいろいろな職場をわたり歩いていて、長年一緒にやってきた人や、今でもつながりのある人もそれなりにいる(ありがたいことだ)が、一時期とても密度の高い関係だったのに、離れてしまった人のほうがずっと多い。どこかでつながっていれば、その人たちと作り上げた何かを再確認することができるような気がするが、離れてしまうと、何も残らないような気がしてくる。
一緒に暮らしていても、それが必ずしも同じ人生を共に歩むという意識につながるとは限らない。それはそうだが、次から次へと通り過ぎていく人生というのは、なかなかにつらいものだ。そういう生き方をしたいわけではないのに、なかなかうまくいかないものだ。せめて、今一緒にやってくれている人とは、協力し合って長くやっていきたいと思うのだが。
色々苦心しながらこのブログを書いていて、この辺で保存しておこうとボタンを押したら、もう一回ログインしろとメッセージが出た。戻るボタンを押しても同じ画面で、さっきの文章はどこかに消えてしまった。ううう
日曜の朝、このblogを書こうとしてOCNを開けたら、なにやら調子が悪そう。そのときはまだいくつかのページが開けたし、サポートのページも見ることができたが、そのうちどのページを開こうとしてもメンテナンス中、という表示が出るようになった。
出先からメールを見ようとしてもだめ。夜帰宅してから開いてもダメ。結局、月曜の朝かなり遅くなってから、メール、blog共に復旧した。OCNはこの3年ぐらいだが、こんなのは初めてだなあ。
その前はNifty(今でもメアドやHP等は使っている)だったけど、考えて見ると初めてネット接続してから今年で15年になるんだな。逆に言うと、それ以前はネットなしの生活だったんだ・・。
うちではデジタル一眼レフを買ったとき(2005年)に、手持ちのフィルム一眼(ニコンD80D)を下取りに出してしまった。ただし、オリンパスOM-1はそのまま残していたので、その後も時々フィルムでの撮影はしている。下取りに出したとき、F80Dはまだ一応現行品だった(その後1ヶ月たたないうちに、フィルムカメラの大幅縮小が発表されたが)ので、下取り価格はわりと悪くなかった。中古のカメラに詳しい人はわかると思うけど、その後フィルムを使う一眼レフは気の毒になるほど値下がりしてしまった。定価で10万円近くするような中級機が、2千円程度で売られているのを見て、中古とは言えここまで価値が下がるとは、なんだか気の毒なような気がしたものだ。
状況は今でも変わっているわけではないが、逆に言うと普通はジャンク品になってしまうようなものが、今でも一応中古として流通していると言うことは、一定程度は欲しいという人がいて、商売として成立する、ということなのだろう。だいたい数千円を出せば、以前の中級品は買えるようだ。数十万円したフラッグシップも、数万円で買える。価格はここ数年は変わっていないような気がする。
これまで何度か、フィルム一眼レフを買い直そうか、と急に思いついて、熱病のようにネットをあれこれ検索することがあった。何しろ安いので、買っても損はない。ニコンで言えば、以前は50mm F1.8、28mm F2.8、70-300mmF4-5.6ほかを持っていたので、ボディだけ買えば一応のことはできる体制でもあった。F801なんか、安いと2000円台で買えそうなのだ。しかし現実には買っても持て余してしまいそうで、手を出すことはしていない。カメラをコレクションする趣味はなくて、不要なものをあまり手元に持っておきたくないのだ。そのうち、50mmも28mmも売ってしまい、DXフォーマットのレンズが増えてしまったので、ニコンのフィルム一眼を買うならレンズも買わないといけなくなった。
ならば他のマウントでも買うときは同じ、と思ってみると、以前から欲しかったペンタックスが浮かび上がってくる。F80Dを買うときに比較対象にしたのがMZ-3で、これは思い出深い。どちらもカバンにカタログを入れておいて、毎日会社の帰りに眺めてはどっちにするか、迷っていた。当時(2002年頃)、オリンパスはレンズ交換式カメラから撤退していた。僕はOMを使っていたので、新しいカメラはどのメーカーでも良かったのだ。結局中古市場の厚そうなニコンにしてしまったが・・。
MZ-3はややレトロっぽい外観にシンプルな操作系で、軽くて使いやすそうな感じがする。43mmF1.9のレンズをつけた姿は、特に格好良く思えた。レンズは今でも結構高い(4万円ぐらい)が、そこは妥協して標準ズームと組み合わせれば、ボディと合わせて1万数千円でそろえられそうだ。在庫があったら買ってしまおうかなあ。
F80D。レンズは50mmF1.8
うさぎの年には本当にいろいろなことが起こるなあ。
カダフィ大佐は、42年間独裁を保っていたそうだ。国民の中には、生まれてからずっと同じ政治体制だったという人がほとんどだろう。そういう世の中を変えていくのは、簡単なことではないだろうな。欧州の利権がらみみたいな背景もあるだろうし、先行きリビア国民がどういう選択をしていくのか、大変だろうなと思う。
とはいえ、新しい船出だ。
僕らぐらいの年代になると、そうそう毎日順調に物事が運ぶなんてことは期待できなくなる。いちおう自分の仕事分野について自信はあるのだが、ここのところなぜか気が動転して失敗したり、自分が意外に知識不足だったことに、若い人から指摘されて気がついたり。前から進めていることも、なかなか先が見えない。
最近、城山三郎氏の本を見返しているが、朝の電車で氏のエッセイにこの、「担雪埋井(たんせつまいせい)」という言葉を見つけた。人の努力というのは、井戸の中に雪を放り込んで埋めるようなものだ、というわけ。埋めても埋めても溶けてしまうが、でもそれが人生だ、ということを簡潔に表現している(「男の転機」嬉しうて、そして・・・より)。
まあ、そんなものか。とにかく前に進もう。
名設計者米谷美久氏は、オリンパスには争いごとを避けようとする、ユニークな社風がある、とかつて良く語っていた。発売されたばかりの一眼レフのシステム名「Mシステム」について、ライカ社から文句を言われてあっさりと「OM」に変更してしまった話など、良くされていた。
米谷氏が今回の騒動を知ったら、どう思われるだろうか?
前回CDを買ったのは8月の末だった。今回も銀座山野楽器に買いに行った。
この前は久しぶりに見るCD売り場が色々と珍しかったが、今回は2度目なので少し慣れてきた。
探したかったのは二つだ。どちらの曲もCDを持っているが、別演奏で聴きたいという気持ちから。
(以下、すみません、知ったかぶりクラシックファン風の記述になります)。
一つはベルリオーズの幻想交響曲だ。家にあるのはミュンシュ指揮パリ管弦楽団の演奏で、世に名演と言われているものだが、いつも安いコンポで聴いているせいか、どうも音がくぐもった感じがして、気になっていた。昔は雑誌の名盤とか推薦版とか、色々気にして買ったりもしたが、今はさっぱりわからない。カラヤンBPOの演奏ほか、ベルリオーズの代表曲を2枚組にしたものがあったので、それを買ってみた。
もう一つはバッハの平均律クラヴィーア曲集だ。手元にあるのはジャズピアニストのキース・ジャレットが演奏したもので、こちらは雑誌のおすすめ名盤なんかには入らない、やや珍しい演奏だと思う。これはこれで悪くないのだが、他の演奏も聴きたくなった。
いま、書棚から懐かしの「大作曲家とそのCD名曲名盤(上)」志鳥栄八郎著 を取り出してみた。平均律のおすすめ盤はランドフスカ、ヴァルヒャ、リヒテル、グールド、コープマンの名前が挙がっている。
店頭ではリヒテル、グールドのCDがいくつか置いてあったが、リヒテルという演奏家にははちょっと食わず嫌いな気持ちがあって・・。手には取ってみたが、また戻してしまった。
グールドは特売品も置いてあったが、たぶん癖があるだろうし、手持ちのジャレットもメインストリームの演奏ではない(ちなみにジャレットはジャズの人だが、ストレートに弾いてはいる)ので、今回は見送った。
コープマンはチェンバロで、これが欲しかったのだが、最新発売の2枚組は1巻だか2巻だか、片方しか揃わない。アファナシエフは両方揃う。そんな選び方では失礼かもしれないけど、2枚で15%引きのシールも貼ってあったので、これを選んだ。
早く帰って聴きたいと思って家に急いだのだが、まだ開封していない。昔は1日中聴いていても疲れなかったが、さいきん余り疲れると、音楽を聴く気にもならなくなるようだ。今日はちょっと疲れすぎたなあ。