最新の長編小説「街とその不確かな壁」を読んでから、村上春樹の長編小説を何冊か続けて読んでみた。
ひとつは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で、これはもう定例行事みたいになっていて・、20回ちかく再読してるかな。
「街と-」を読んだ時の感想として、第一部(主人公が壁に囲まれた架空の町に幽閉される話。作者が若い頃書いた作品だが、納得できずその書き直しとして「世界の終わりー」が書かれ、さらに今回の「街と-」の第一部にそのモチーフが再利用された)が、まるでこの「世界の-」のあらすじを読んでるみたいだ、と書いたが、こちらを読んでしまうとやはり「街と-」の第一部を無批判に受け止めることは難しい。作家から見れば必要な手続きだったのかもしれないが。
今度「街と-」を再読するときは、第一部を飛ばして読むかもしれない。
若き村上氏の感性が素直に出ていて、そこがこの作品最大の魅力だ。物語はかなりトリッキーで、破綻寸前の縁を辿っていくが、とにもかくにも二つのストーリーが最後に一つに収束する(「街と-」のあとがきで作者もそのカタルシスを述懐していた)。
「私」のやや偏屈な性格の描写は、今日の村上氏作品にはもはや出てこない。村上作品の主人公たちは、時代と共に徐々に諧謔性やこだわりが抜けていって、脂身のない、妙に薄味な性格の人が多くなった、という印象がある。
過剰に細かい描写も魅力的だ。深夜スーパーで待ち合わせをするとき、タバコや酒のポスターを眺めながら論評したり、暗闇を歩きながら信号待ちの時見かけたカップルの事を思い浮かべ、テレビドラマのストーリーを考えていったり(配役も決めている。近藤正臣と中野良子と山崎努)・、コインランドリーで女子大生が「JJ」を読んでいたり。
近年の作品でも具体的な描写は出てくるが、作品的に洗練されてきたのか過剰感というものはない。ただ、面白みからいったら昔の方が上かもしれない。ギャグマンガの中で全体的に書き込みが薄い中、一部に戦車とか機関車だけが異常に書きこまれてたりするのと似ているかな。
ただ思うのは時代の変化につれて、若い人たちはこの辺の描写を見て、僕と同じようにリアリティを感じにくくなっているかもしれないということだ。。
近未来的な描写もあるが、基本約40年前の東京が舞台なのだ。
コインランドリーは今でもあるが雑誌「JJ」はないし、カリーナGT-Tという車の位置づけもわからないだろう。レンタルビデオとミュージック・カセットは辛うじて通じるか。連絡手段も固定電話しかない。
前にも書いた気がするが、「私」が買い物のための中古車を買ったとき、中古屋の人が「車というのは本来こういうものだ、世間の人は頭がどうかしてる」という発言の意味も分からないかもしれない(80年代半ばの高性能車、高級自動車ブームを揶揄した言葉)。
世界の終わりー壁の中の物語では、最終的に「僕」は森に残る(ことが示唆されている)。
個人的には「影(心)」を失って、閉ざされた街で平穏に暮らす世界がどんなものか、体験してみたい気はする。
読むたびに繰り返しそう思うので、つい再読してしまうのだ。。
6年前に刊行された「騎士団長殺し」は、後期村上作品の代表作として、今後も位置づけられていくだろう。
「街と-」は、第一部を含めた完成度が個人的には気になるが、これもひじょうによくできた作品だとは思う。
しかし「騎士団長殺し」は物語の面白さ、深さからいっても、作品としての完成度がとても高い。
「免色渉」さんがとても興味深い。
「世界の-」で「私」がしたように、読みながらこの人に演じてもらうと似合うと思う俳優を思い描いたりすることがある。「街と-」の子易さんは僕的には高橋克実さんが浮かんでくる。
免色さんの場合は俳優ではなく、僕の知り合い(芸能人ではない)が思い浮かぶ。髪が白いとか日々体を鍛えているとかは当てはまらない(黒髪ででっぷりしてる)が、なんとなく。
この人は社会的に非常に成功し、なんであれ自分のやりたいことを成し遂げる財力と手段と粘り強さや冷静さ、すべてを備えている。しかしその根本にある「なにか」が欠けている、という、とても興味深い性格の人だ。
もっと平たく言えばお金持ちで仕事もできて人あたりも良い。努力家で体も鍛えてていつも身ぎれいにしている。だけどほんとうの意味で人と結びついたり、誰かの為に生きるようなことができない。
そして、そのことをご自身が自覚している。
主人公(私)は物語の最後に免色と自分の違いを次のように評している。
二人ともこの子は自分の子かもしれない、と思われる子供が身近にいる。
免色はその子が自分の子供かもしれない、しかし違うかもしれないという可能性のバランスの上に自分の人生を成り立たせている。
「私」は、そんな面倒なことに悩むことはない。なぜなら私には信じる力が備わっているからだ。どんな状況でも、どこかに私を導いてくれるものがいると、率直に信じることができるからだ。
免色は一連の事件で「私」と行動をともにしながら、私は時々あなたがうらやましくなります、とかなり率直なことを言っている。
「私」は優れた知性と絵の才能を持っている。目の前にいる人や置かれた環境への対応を見るに、非常に誠意をもって適切な対応ができる人だとわかる。しかし、人生の大きなうねりの中で図らずも自分が運ばれていく、ということに対しては無力であり、それ(自らの力できることが少ないこと)を半ば自覚しながら、流れに任せようとしている。
免色も自分の運命には逆らえないことは理解しているが、彼は自らの力で運命をコントロールできる範囲が、幸か不幸か広い。
社会的、あるいは超自然的な分野で強い力を持つ人物は「1Q84」にも出てきた(緒方静恵婦人、深田保)が、本作を読んでから振り返ると、それらの人物の描写は必ずしも成功とは言えなかったのかもしれない、と思えてくる。
免色さんは村上作品のこの種の登場人物の描写を、一段と高いものにしたキャラクターではないかと思う。
最初から最後まで読者を飽きさせない一方、作品全体に一本筋が通っていて無駄な伏線がほとんどない。
さいごにマニアックなおまけだけど、本作は近年の村上作品として必要な要素?みたいのはほぼ網羅している。以下は同氏の長編作品(「世界の終わり-」、「ねじ巻き鳥クロニクル」、「1Q84」、「騎士団長ー」、「壁と-」にほぼ共通する描写だ。
- 主人公の精神的危機とその克服
- 井戸や暗いところにもぐる
- 壁を抜ける
- 異世界的ないきもの、またはアイテム
- 裕福で力のある副主人公(たいていは株で財産を築いた)の存在。ふつうはできないようなことを世間に知られずにできてしまう
- コミュニケーションに何らかの障害をかかえる少年少女の存在
- 父親または父親的な存在との確執
- 主人公は料理が得意で、1週間分の食材をまとめて買ってきては小分けにして冷蔵庫にしまったり、ソースを自作して保存したりする
- 主人公は酒飲みで、何かに驚いては酒を飲んで落ち着こうとする。飲んでもほとんど酔わない
- 主人公は必ず誰かと、または登場人物の誰かが誰かと性交する(「街と-」は初めての例外)
直接の場合もあれば、イマジナリーな場合もある - 主人公はニュースを見聞きしたり、新聞を読んでは、世の中の動きはじぶんとは全く関係ない、という感想を持つ
まあこういうのは僕が書くよりはもっと評論が書ける人がやってるはずだ。そちらの方がきちんと網羅できてると思う。
つぎはノルウェイの森あたりを再読したいところだが、ここしばらく村上主義できたので、少しやすみます。。