毎年この日にはご挨拶をさせていただいています。今年は新しい家からのご挨拶となります。
6年もたつと色々変わるものです。家が変わるというのは大きな出来事ですが、3年前にはブログそのものもocnからgooに変わっていますね。
これからもよろしくお願いいたします。
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8日ぶりにオフィスに。
相当ボケてるからな、と思ったが、案外すんなりと普段通りに仕事(色々溜まっているものはあるが)できた。
もとより、メール等で業務の推移はずっと把握していたので、この8日間全く仕事を離れていたわけではないのだが。
おなじみの店員さんにあいさつされる。お久しぶり。
家のほうはまずキッチン回り、次いでAV関係を整える。狭くなった影響はここにもあって、スピーカーの上とかがぎっちりに。。
書斎のオーディオは従来、本棚の上に括り付けてあった。高いところから音が出ていたので、『音のシャワー」という感じだったが、今はとりあえず、別のスピーカーを載せていた台を使ってつないでみた。メインのほうもそうだが、概して低音が従来よりも強く出るような気がする。トーンコントロールで調整してみた。
ただ、普段いる机の位置からすると変な場所にスピーカーがあるし、注文している本棚が入るとこの場所はどうかな、という気もする。
AM,FMともに電波は入りにくくなった。
安いソニーのラジカセは、アンテナを伸ばしてもノイズが酷い。パナソニックのほうはジャイロアンテナがついた、ちょっと性能自慢をしている(メーカーが)機種だが、やはり厳しいようだ。この、書斎のコンポはFMについてはアンテナ使用をあきらめ、壁のテレビ用コンセントから電波を取ることにした。アナログテレビ時代、裏技として使われていた方法だが、NHKなどはきれいに入る。局によってはダメなものもあるが、とりあえず。AMはループアンテナだが、やはりノイズが乗る。まあ仕方ないかな。。
日経ビジネス(著) 2016年10月
昨年の秋口、映画が公開されていたころにネット上で連載されていた特集をまとめたもの。なりたちは「村上さんのところ」(村上春樹氏が期間限定でファンからの質問にネット上で回答していったものを書籍にしたもの)と少し似ている。「村上さんのところ」は新潮社の特設サイトだが、「私はこう読む」は、日経ビジネスオンラインの特集記事の一つであり、通常であればウェブ記事の一つとして読み流されていくものだ。
連載中最初に注目したのは、やはり石破茂元防衛大臣と、枝野幸男元内閣官房長官へのインタビュー記事だった。映画の中で大河内首相が下した防衛出動(自衛隊法76条)に対する疑念(石破大臣)や、東日本大震災時の対処とオーバーラップさせながら回答されていた枝野氏の話は非常にキャッチ―で、以後毎日見出し記事をチェックするようになった。
記事の中で多くの人が語っているように、庵野監督はこの映画に数多くの問題提起をばらまいている、それがこの本のような、様々な切り口からの議論につながっている。それにしても、こうした議論に耐えられるだけのディティール描写をした監督、制作陣は大したものだ、と改めて舌を巻く。先の政界関係者や、建築、哲学、文学に至る、様々な専門家たちが本気になって論陣を張っているのだから。
現実世界の、映画ビジネスの在り方といった「日経」らしい記事は盛り込まれているが、本当は知りたかったけど掲載されてない話題がある。それは、劇中で破壊された日本がどれほど経済的被害を受けたかという試算だ。もっとも、ウェブのどこかには、被害を受けた大手不動産業者(ま、三菱地所さんでしょうね)の想定被害額を計算した方の記事があるらしい(本書にそういう人もいる、という記述がある)。
映画では既に存在して、ヤシオリ作戦で壊される超高層ビルをはじめとするビル群(常盤橋街区再開発プロジェクト)の総工費は1兆円以上とされるそうだ。丸の内地区のグラントウキョウ、オアゾ、日本生命ビル、新丸ビル、丸ビル、JPタワー、ぜんぶ壊されましたからね。ゴジラもまだいるから、施設が残っていてももう使えないでしょうし。JR東日本も、電車は爆弾輸送用に転用され、東京駅は壊滅した。米軍との戦いで焦土と化した西新橋地区は、港区のランドロードたる森ビルの本拠地だ。どうやら森ビルがうるさかったらしくて、はっきりした描写はしなかったようだが、影響は避けられないだろう。日銀本店もおそらく被災しているだろうし、野村、大和証券本社をはじめ日立、日本生命、日本郵便の入居しているビルは壊滅、この辺りは書き始めたらきりがないほどの企業のオフィスが集中している。
まあ、わかっていることなのだが、商業誌としてそんな試算はできないのだろう。広告主からクレームがついてしまいますからね。。
作中日本経済について触れられているのは、通貨安、株安が酷いこと、関西の土地が急騰していること、それで潤う人もいるらしいこと、など。具体的な金額は出てこない。避難民の総数がたしか380万人でしたっけ。。
とはいえ、映画の最後のほうで、赤坂内閣官房長官代理(ちなみにこの方の選挙区は、先日まで僕が住んでいた地区、という想定らしいのです。投票したかったですねえ)が、「スクラップアンドビルドでこの国はのし上がってきた。今度も立ち直れる。せっかく崩壊した首都と政府だ。まともに機能する形に作り変える」と、将来への展望を語っている。被害の大きさを語るよりも、先の展望を見据えるべきなのだろう。
あ、本の話だったんだ。。
金曜日、買い物のために立ち寄った新宿。
ここはゴジラの被害を受けていない。都内人口も激減するかもしれないが、生き残った都市インフラもかなりあるだろうから、案外復興は順調に進むかもしれない。
新宿についてみて、思ったこと。この街はこれまで「home」への入り口となるターミナルだったんだよな。。27年前から、とりあえずここから電車に乗れば、乗り換えなしで自宅最寄りの駅に着いた。少し待って始発の電車に乗れば、ゆっくり座って行けたものだ。ので、何か買い物があれば(まあ、ヨドバシとかビックとかね)とりあえずここに来たものだが。これからはどうなるかな。。
別に大したことではないが、現地に立ってみてはっと気が付いたことだ。。
一応転居が終了した。
実のところ、転居先の地域には、住まなくなるだけで、今後も頻繁に往来する。
また、転居先の地域は全く新しいところではなく、こどもから大人になるまで住んでいたところと同じ地域だ。
いまも実家があるので、頻繁に訪れている。
生まれた場所と、その後しばらく過ごしたところはその中間ぐらい。なんだか、狭い地域を行ったり来たりしている人生だな。。
いままで、元の家に向かって電車に乗るときは、当たり前だが「帰宅」していたわけで、家に近づくにしたがってホッとした感じが強くなっていった。
車で行くときのほうがその傾向が強いかもしれない。この角を曲がって、街路樹のある通りが見えてくると間もなく家だな、みたいな。
他方、元の家から、転居先に近い実家に行くときは、これは「出かける」という感じになる。ふるさとに帰る、という感じにならないのは、距離的に近くて頻繁に訪れているためと、街がそれなりに変わっていき、昔の面影が失われつつあるからだろう。じぶんにとっての故郷は’70年代のここであり、それは今ではじぶんの心の中(と、往時を分かち合う仲間たちの心の中)にある。
これからは、元の家方面に行くときは「出かける」ことになり、転居先に向かうときは「家に帰る」ことを意味する。これも当たり前だが。
当たり前なのだが、その辺の感覚は自分の中で、どう消化されているのだろうか。
今のところ、まだそこはわかっていない。
引っ越し当日は、業者さんが一気に運び出してくれて、こちらは貴重品と鳥たちを連れてあたふたと出ていかなければならなかった。
翌日、残された荷物を整理に行ってきた。
この写真は比較的落ち着いた感じだが、場所によっては嵐の後のような状態になっているところもあった。
ただ、逆に言うと、多少掃除すればまた住めるような状態でもあったのだ。
カーテンとかも残してあった。一時的に転居先でつかうため、部分的に外しもしたが、代わりに付け替えるようなこともしていた。
壁に飾った写真とかも、そのままになっていた。どれも10年以上前に飾ったものが多く、壁の染みと化していた(剥がすとき、画びょうがさびて取れないものが多かった)
机がそのまま残っている。反対側には本棚も、本のない状態で残っている。
「昭和40年代、都市近郊の一般住宅の様子」として、展示されている部屋のようだ。
この家は間もなく解体される。そのときは業者が重機で家ごと破壊して、家具なども産業廃棄物として処理されることになろう。
次に誰かが住むわけでも、使うわけでもない。
だから、埃だらけでも、使用可能状態で家具が置いてあろうとどうでもいいはずだ。
だが、それは個人的にはどうしても許せなかった。
ひとつには、19年住んだ家に、せめてもの感謝の気持ちを示したかったこと。
もう一つは、このまま「使える」状態で家を残すと、自分に「家に帰ることができる」みたいな未練を残しそうな気がしたこと。
だから、できる範囲で掃除をして、家具などは片隅に片づけることで、ひとつのけじめをつけようと思った。
19年前の初夏、購入のため初めてこの家を見たときは、こんな感じだった。
その時住んでいたのがマンションだったので、なんとなく頼りない、なよなよした作りの家だな、という印象を受けた。
昭和40年代半ばの建築で、当時なりのモダニズムを感じさせる。人には「のび太君の家にそっくりだよ」とよく言っていた。もっとも、アニメの設定などではうちよりずっと間取りが多くて、大きな家なのだそうだ。天井の作りが部屋ごとに、船底型や2段になっていたりと、かなり凝っていた。
昭和47年2月 登記
平成29年4月 登記抹消
来月中旬には更地となり、新しい綺麗な家が再築されることになる。あの家もまた、再生し新たな歴史を刻んで行く。
今日も最後の整理に訪れたが、ドアを開けると、住んでいたころとは違う、埃っぽいような匂いがしていた。
今は転居先(以後現宅または家と呼びます)の整理に忙しい。今日は家具をまとめて買った。これが来るのが来月連休明けだ。やるべきことは山積している。
パッキングは大詰めだが、もうだんだんと集中力が続かなくなってきた。
色々な生活形態の人がいると思いますけど、よそさんはどんな気持ちで引っ越しをしているのかしら。
夕方になるとつい、「日常」らしさを求めて外に出たくなる。
なじみの店で夕食。あ~くつろぐ。。
フラフラと自転車で、若い頃住んでいた街まで行ってみる。
今日は月曜なので、しまっているだろうな、と思いながら図書館に行ってみると、開いていた。
ここは、昔僕がこの地域に越してきたのとほぼ同じころ、オープンした図書館だ。
当時働きながら試験勉強をしていたが、自宅にいるとどうも勉強が手につかすに困っていた。偶々近くに図書館ができたことを知り、ここで勉強できる、と喜んだが、最初に行ったのが年末御用納めの後だったのですでに年内閉館、年始だいぶたってからしか開館しないと知り、がっかりした記憶がある。
そういえば、試験勉強のときも直前に家にこもりきりで、夕方になると人恋しくなったものだな。昔から、やることが変わっていないな。
クラシック音楽に興味を持ち始めたころ、この図書館で盛んにCDを借りた。当時はカセットに、後にMDに録音したりしたものだ。今だと配信サービスとかあるから、そういう使い方をする人はあまりいないかもしれないが。
一般書架をざっとめぐってみたが、本の配置や机のレイアウトなどは、20年以上前から変わっていないようだ。
ここで随分と長い時間を過ごした記憶があり、なんだか懐かしさが体の中から噴出してしまった。。
僕がいま心理的にしんどいのはあれですね。家のものを片づけることで、自分の若い頃からの足跡を一気にたどりなおして、心の底に沈殿していたものが一気に攪拌されて目の前が何も見えなくなった、みたいになっているからでしょうね。
やがてまたいろんな思い出が底にたまり、水も澄んでくる。のを待ちましょう。
通勤路の途中にあった鬱蒼とした森が、切り拓かれて更地のようになったのはたしか3月ごろ。
森というか、本当は植木の畑のようなものらしい。
市民農園にするか、それとも宅地にしてしまうのかと思っていたが。
今日見たら、新しい果樹の苗が植えられていた。
これがまた成長して、何十年か先にはうっそうとした森を形成するのかもしれない。または、必要に応じて植木屋さんに卸すか。
一部残された部分も、よく見るときれいに選定されている。
時間はかかるかもしれないが、森も少しずつ再生していくことだろう。
もう、部屋が箱だらけでさすがに家にいるのがつらい。
その分外食が楽しみ。
連日引っ越しか家およびその近所の話ばかりで申し訳ないのだが、今書いておかないと、というところもあって。。
現宅の屋根の部分に破れたところがあると気が付いたのは2年ほど前。季節が良くなったら補修しようと思っていたが、昨年はできなかった。
朝、鳥たち(アル、ココ)にご飯をあげているとき、屋根のほうでごそごそという音がする。最初はわからなかったが、屋根の破れ目にムクドリが巣をかけていたのだ。
弱ったのは、ムクドリ夫妻が枯れ枝などを持ち込んで、それが階下の屋根に落ちることだ。おかげで屋根がゴミだらけになってしまった。
うまくいけば数年前、木のうろで餌待ちの子供たちを見かけたときみたいなことになるかな、と思っていたのだが。。
このときの記事を探そうとしたが、見つからなかった。あまりよい結末ではなかったので避けたらしい(SNSには書いた覚えがある)。
ある日、大きな音がしたので窓を開けると、カラスが飛び立つところだった。そして階下の屋根には割れた卵が落ちていた。。
そんなわけで、屋根を補修する機会を失ったまま、時間がたってしまった。
そして今年、もう屋根を補修する必要がなくなった春、またムクドリが出入りするようになった。
残念ながら、今年もムクドリの子供たちの姿を拝むことはできない。
既にこの家の解体日程が迫っている。
ムクドリさん、他所で子育てをなさい、と伝えたいが、それもかなわない。
まあそれにしても、猫、ネズミ、ハクビシン、目白、そしてムクドリと、随分いろいろな生き物が出入りした家だったなあ。。
転居に伴うインターネット等の切り替えは、20日から21日にかけてと聞いていたが、20日を過ぎてもずっとそのまま使えていた。つい数時間前、ようやく切れたようだ。転居まではテザリングで対処しないといけない。固定電話も止まった。テレビ(光テレビ)はそのまま使えるようだ。先日解約したスカパーは、月内使えることになっている。
今は携帯があるので、固定施設がなくても直ちに陸の孤島とはならないが、テレビがないのはちょっと寂しいかな、と思っていた。ので、助かる。
気持ち的には色々きついところなので、テレビやラジオは各部屋でつけっぱなしにしてある。CDは今日箱詰めしてしまった。ただし、最小限のものを残して、聞けるようにしてある。
もう長いこと片づけを進めてきたが、いくらモノを捨てても一見何も変わりないように見えて、なんだか家が底知れぬ恐ろしさを秘めているように思えた。自衛隊の銃弾をいくら浴びても平然としている、ゴジラを連想したりしたが、ここへきて箱詰めが進み、さすがに風景が変わりつつある。
今が特別な時であることは間違いないが、どういうわけかここのところ非常にセンチメンタルで、自分の場所が失われてしまうという印象ばかりがのこり、これから先のことが心に浮かんでこない。
複雑な気分というか、自分でもちょっとおかしな気持ちだが、察するに”生き物”たるこの家の気持ちが、僕に乗り移っているのだろうか。
お隣のハナミズキの樹。先日も書いたが、ようやく花をつけるようになってきた、。
こちらも先日書いた。棕櫚の花。
どちらも、例年より少し遅い気がしたが、ようやく。
おなじみの店に行くと、少しホッとする。
引っ越し後はさすがに利用する機会は減るだろうな。とはいえ、打ち合わせやら何やらで引き続き使うとは思うが。
ケーブルテレビを契約して10年ちょっとになる。有線の放送を見るためもあるが、地デジ化の際に、アンテナを立てず、光回線で見ようとしたのがきっかけだ。
アナログ時代、この地域は都心のビルの陰になったいわゆる難視聴地域だった。ビルの所有者から、各家庭に有線のテレビ信号が無料で供給されていた。我が家にも屋根にアンテナがあったが、実際にはつながっていなかった。
もちろん、ビル所有者が回線を持っているわけではなく、j:comが代行していた。
それで、10年前にレコーダーを購入したとき、同時に地デジ信号をと思ってj:comと契約した。
もちろん、地上波やBSだけを見たくて契約したわけではない。当時はSuper dramaTVで、「ザ・ホワイトハウス」をやっていたので、それを見たかった。CNNやBBCがみられるのも魅力だった。
2008年暮れにパソコンを買い、その際インターネットもocnにした。同時に、j:comを解約してスカパーに変更した。相乗りの形で、テレビを光テレビに変えたのだ。
j;comのときに日テレニュース24がみられたかどうか、記憶がないが、とにかくそのころから頻繁に見るようになった。
何といっても本当に24時間ニュースばかりやっているのが魅力だった(ごくたまにゴルフ中継とかしているけど)。
当時は中島静桂さんが良く出ていた。麻生首相の頃で、そういっちゃなんだがどこか親子みたい(失礼?)だな、と思ったりしていた。
アナウンサーは結構新陳代謝する。
夜のニュース(デイリープラネット)をよく見たが、一時は坂木萌子さんが毎日のように出ていた(金曜日だけ違ったかな)。
舟橋明恵さんもこの春で卒業されたらしいし、塚田文さんもそうかな(追記:失礼まだ現役です)。
榎本麗美さんはもうベテランだ。あさのOha!4は見ていなかったが、中田有紀さんが登場する番組CMが盛んに流れていて、おなじみだった。
気象キャスターでは藤森涼子さんが大ベテランで、とても分かりやすい。
卒業された方、小越久美さん、山本詩織さんとかは、今ではブログやツイッターを拝見しています。
CMが原則なくて、番組の間は日テレニュース24か番組自体のCMが流れている。
これが、同じものがひたすら繰り返し流れるので、嫌でも耳(目)に残ってしまう。
割と単調で素朴な音楽がバックに流れている。それが耳に残る。
上の写真のような、見出しだけ表示されているとき(番組の合間)は、バックに普通のポップスのようなものが流れていた。時間帯によって曲が変わったりもしていた(午前中、日中、夜など)。
それも耳について、たしかビリー・ジョエルの曲は配信で買ったりしたな。谷村新司の曲もよく聞いたし、誰の曲かもうわからないが、「・・だからいい子にしてられない・・」という歌詞の曲も、頭を離れない。
今流れているCMも、都市の風景を時間を追うごとに早送りで見せていくもので、これが不思議と情緒を誘うんですね。
一日の仕事を終えて、ニュースをぼんやり見ている。今日も人々は行き交い、何かが起きて何かが残り、何かが生まれる。ああ、僕もその一員として、少しでもなにかを残すことができたかな、と振り返ったりして。
転居先は集合住宅なので、自分でアンテナを立てる必要がない。逆に受信できるケーブルサービスは限られる。
ので、とりあえず8年以上続けてきたスカパーをいったん解約することにした。
でも、そのうちどうしても見たくなって、再契約するかもしれないな。
年代ものです。80年ぐらい前、と聞いたこともありますが、正確なことはわかりません。
PRIMATONEは日本のメーカーで、ピアノに詳しい方はご存知のようです。
15年ほど前に、先生に譲っていただきました。
狭いところに鎮座ましましていたので、ふたを開けることはまずなかった。
転居先には持っていけないので、大変残念ですがお別れです。
長い間お世話になりました。どうも有難う。
2001年ごろだったかに描いた「The Piano」。「ピアノ・レッスン」という映画の1シーンからひろったもの。あの映画、映画館でも見たのかどうか、忘れたけど、たしかうちにソフトがあったはず。
意思的だけどちょっと人とのコミュニケーションに難のある女性(とその娘)が主人公ですが、あのころ、女性たちとこの映画の話をすると、あの暗い、変な映画、とあまり評判が良くなかったな。同時期の「シャイン」だったかな、やはりコミュニケーションに難のある、ピアノの上手な男性の映画があって、友人の女性はそっちが一押しだった。見たけど、それほど感情移入できなかった。どこかで男性と女性は、感受性に差があるんだろうな、と考えたりした。
絵は今見るとどうも拙いので、いつか同じ題材で書き直したいな、と思っている。
このムーミンはペーパーウェイトで、いつもオフィスの机の上にいる。
あるとき、何かの拍子にこのムーミンを床に落としてしまった。
ペーパーウェイトなので(中身は粘土か何かかな)重く、落とすとすこん、という音がする。
あ、しまった、という声をあげながら拾い上げる。
と、傍らにいた同僚と目が合った。
何かを言いたそうな目をしている。
こっちも何か言わなきゃな、と思うが、とっさに言葉が出てこない。
ようやく、
「・・・・・・・、かわいそう」
すると向こうも、
「・・・・・・・・・・・・・、いたい」
そこまで言うと、あとは二人で気の抜けたように笑った。。
ムーミンが彼女に乗り移って、しゃべらせたのかしら。。
「うちのさ、あのよくご飯くれる人間、こないだおれを放鳥するの忘れただろ。
せっかくココと遊ぼうとしてたのにな。」
「遊びって言えば、向こうがわにあった、鉄道模型のジオラマ、どっかに持っていっちゃったわね。。電車がジャージャー走っているの、面白かったのにね。」
「なんだよ、こないだ蛇と勘違いしてたくせに・・」
「してないわよ。でも、そういわれるとやまのてせんってへびっぽいわね。。」
「それにしてもどうしちゃったんだろうね。あのにんげん、最近どたばたしまくっているし。」
「なんか『引っ越しがあ・・』って、しょっちゅう言ってるわよね」
「なんなんだろうねそれ。。それにしてもうちょっとしっかりしろよなあ。。今日撮った写真も失敗してて、慌てて昔のアルバムから拾い出してたしね。。」
胃がキリキリするような思いをしながらひとり残業し、疲れた体を引きずって電車に乗る。一つ手前の駅で降り、駅前のスーパーに入る。
そこは、オフィスとは全く異なる平和な日常が広がっていた。
長閑なテーマ音楽が流れ、若い勤め人、主婦などが熱心に野菜やお総菜などを選んでいる。
いつも見かける店員さんもいる。お互い会話を交わすわけでもなく、向こうが覚えているかはわからないが。
まっすぐ家に帰るより、この店で客や店員さんたちとひと時を過ごすことで、とても癒された。
どの店もそうかというと、コンビニとか、他のスーパーとか見ているとやはりふんいきが違う。よそよそしかったり、どこか寂しげだったり。。
16年ほど前にできた店だが、それ以来、毎日のように使っていた。
震災の後、前日と同じ時間に行ったらもう閉店だったり、商品の棚が空っぽだったりということもあった。
4年ほど前の今頃、改装工事が始まり、1週間ほど休業してリニューアルした。しばらくの間、どこに何があるのか迷ったが、改装前の様子はもう覚えていない。。
まあ、そんなものだろう。よく行く店というのは、自分の家の様にどこに何があるのか体が覚えている。そのときは離れられないほどなじんでいるが、使わなくなってしばらくすれば、もう忘れてしまう(その点、本屋というのは不思議と書架の位置を記憶しているものだな。まあ、違って記憶しているところも多いかもしれないけど)。
この店も、行かなくなると忘れるかな。もっとも、これからもこの近辺には頻繁に行くので、引き続き使うことになるとは思う。
この週末で、今年の桜は見納めとなった。ソメイヨシノは基本的に同じ種のクローンらしく、一斉に咲いて一斉に散る。
もっとも、チューリップだって同じ時期に植えれば同じころ花をつける。自然というのは不思議なものだ。
周りを見回すと、この子だけは少し遅れて咲き始めたようだ。まだきれい。
街で見かける桜は、ほぼ全部が人がそこに植えたものだ。街や、そこに住む人とともに育ち、花を咲かせ、そして老いていく。
この界隈に住み始めたのは27年前の3月だった。越してまもなく桜の季節になったが、道を歩くと古い民家の庭から、大きな桜が枝を伸ばして花のトンネルを作っているところがいくつかあった。公園の桜とはまた別の趣で、通るたびに上を見上げては息をのんでいた。
戦前の、ある程度経済的に余裕があり文化的、教育的にも洗練されたような人たちが、家を建てるときにこうした桜を植えたのだろう。それから70年だか、80年だかわからないが、最初に家を建てた人たちも、これほど立派な巨木になるとは想像していなかったことだろう。
しかし、その、僕が若い頃見上げた桜のいくつかは、今ではもう見ることができなくなっている。
桜の樹そのものが老いて、枝先が枯れたり、苔が付着したりして衰弱していく。往来の多いところでは、四季を通じて枝が落ちてきたり、風の日には葉が落ちて滑りやすくなり、事故を招くこともある。人工的に植えられた樹は、その晩年においても人の手を借りて生涯を終えることが多いようだ。
2003年4月。緩やかな下り坂の向こうに踏切があり、その手前に道の両脇から桜の木がトンネルを作っていた。
当時400万画素のコンデジ(Nikon Coolpix 4300)で撮影したが、手ぶれ補正もないのに、案外きれいに撮れてるな。。
2008年4月。普段は何気なく通り過ぎる街が、この時期だけ急に変貌する、というのが桜の醍醐味ですね。
この姿がいつまで見られたのか、正確なところはわからない。普段何気に通り過ぎてしまうのは、そこがごく普通のたたずまいをしているからであり、花がなければ気にも留めない。この時期に花が咲いていなければ、そこに桜の樹があること自体を思い出さない。
手許のアルバムで最も最近の写真は、2011年4月10日(日)のものだ。自分のメモを見ると、この日は統一地方選、東京は石原4選、とある。震災後、散らかっていた部屋の片づけが終わっていない。気が付けば外は桜が満開、ということでカメラを持ち出したらしい。節電ムード、自粛ムードの強かった時期だが、別の写真には公園でくつろぐ人々の姿も映っている。
そして今、片側の桜は残っていない。どうやら家のリフォームか建て替えをして、その際に伐採したのかもしれない。
反対側は枝を大きく切られて残っている。花はわずかにつけているが、もはや往時のような姿には戻れないのだろう。
ペン殿のお墓引っ越しのときには行けなかった、神社にお参りに行ったのだが、帰りに通りがかった、ある駅の駅前広場。
2本の桜が枝を広げていた。由緒は全く分からないが、もしや鉄道開業のときに植えられたのだろうか。だとすれば樹齢は90年ぐらいだったことになる。
写真をご覧になればわかるように、今はもう残っていない。この2月に伐採されて、新しい若木が植えられている。
あと30年もすれば、桜盛り?を迎えて人々の目を楽しませてくれることだろう。そのころまで、こっちも元気でいなきゃ。
写真奥に見える更地はかつて古めかしい万屋のような店だった。こちらの建物も撤去され(結構長いけど)、また新しい建物が建てられるのだろう。
桜ではないけど。
先日家の前でお向かいの方と立ち話をしたとき、あのチューリップのプランター、引き取りますから置いていってください、花かわいいですから。。と言われた。
確かに、葉っぱはかなり伸びているのだが、球根を植えたのはおととしで、去年は根あげもせずにいたのね。ので、花が咲くかどうか。。
その時はどうぞ、といったのだが、やはり気になって、チューリップのないほうのプランターに新しい花を植えた。これで有終の美を。。
我が家の二階からお向かいの家を見ると、今頃はちょうどハナミズキが咲き始めるころだ。今年はこちらも少し遅いみたいで、引っ越しまでには見られないかもしれない。うちのほうはまた、棕櫚の樹がカズノコみたいな花をつける。すっかり伸びてしまって、2階の窓からも見上げるような位置にあるが。これを見ると自然の営みのたくましさを、毎年思い起こさせてくれた。こちらも見ることなくさようならかな。
ペン殿のお墓を移設しました。
ペン殿は現宅のにわに眠っていましたが、人間や、アル、ココたちに先立って引っ越しです。
12日がペン殿の命日(2014年4月12日午前2時40分ごろ)なので、それに合わせた形に。業務の都合で13日に行いました。
庭は測量の人が出入りしたりして、ちょっと荒れた状態。アジサイはここ数日でだいぶ葉が出てきました。
植えたのは3年前ですが、結構根を張っていた。できるだけ深く掘ったが、素人仕事なので、移植先で頑張ってくれるかどうか、心配。
写真は掲げませんが、アジサイを動かしたあと、更に掘ると、ペン殿の入った青い袋とリボンが見えてきた。まあ、久しぶりです。。
車を借りて積み込みます。この日は同時に鉄道模型のレイアウト(ジオラマ)も運ぶ用があり、バンの荷室はいっぱい。助手席には町会でもらったパンジーも入っています。
実家の裏庭に収まったペン殿とアジサイ。うまく根付いてほしいです。
3年前とほぼ同じ状態を保ってきたペン殿のケージ。仏壇代わりのような存在でしたが、引っ越し先にこのままという訳にもいかず、一応解体保存することに決めています。
あわただしくて、お花とか飾れなくてペンには申し訳ないのですが、いずれ改めて。
それにしてもあれから3年とはねえ。
これを書いている今と同じような、さわやかな初夏の休日、家の中に迷い込んできた目白君を一時このケージに入れたことがあったな。
転居先のカーテンの注文、各種家電の注文なども進み、おぼろげだった新生活が形を見せつつある。
一方、現宅や周辺の街の風景を見るにつけ、ついセンチメンタルな気持ちに襲われたりして。。僕はこういうのがからきしダメなんですね。自分でもバカみたいですが。
そしてあふれかえるゴミの片づけ、さらに仕事もあれやらこれやらと。。