番組改編の季節だ。毎朝出かける前に見ていたNHK BS1 キャッチ!世界のトップニュースは時間帯が変更になり、8時から(再放送11時から)となった。番組名は変わるが、この系統の報道番組は、かれこれ20年ぐらい見続けている。以前はもう少し早朝に始まっていたと思うが、8時台ではちょっと見るのが難しいなあ。今、7時台はは各国のニュースを通訳付きでそのまま流している(以前はこれが8時台の番組だった)。個々のニュースもさることながら、痛いのは市況とワールドウェザー(日本を含む)が見られなくなったことだ。市況はデータとともに、ニューヨークのマーケットについて現地の日系金融機関社員の人が注目点などのコメントを話してくれていた。これらの情報が見られないのはちょっと寂しい。
夜の「国際報道2019」は放送時間が短くなった。実は朝のほうの放送はちらちらと見る程度で、テレビ自体見ないことも多いのだが、夜の放送は、特に昔は熱心に見ていた。一時は2時間(経済の番組も含む)枠で放送していた時代もあったが、4月からは40分に減ってしまった。もっとも、3月までの50分時代は後半のWORLD ROUNGEあたり、ちょっとダレる感じが否めなかった。ニュース番組は長ければよいものではなくて、NHK地上波でも朝6-7時台や、夜9時台のものは不要な情報を延々聞かされていると感じることがある。
報道番組の形として一番好きだったのは、前宅時代見ていた日テレニュース24だ。30分~60分間隔でほぼ同じ内容のニュースが繰り返し放送される。今はスカパーに入っていないので見られないが、以前はこればかり見ていた。
地上波11時台のニュースチェック11という番組も、時間帯がちょうどいいので時折見ていた。これも新番組に変わった。今はちょっと違和感だが、まあ数か月もすれば慣れてしまうのだろう。
15日夜。イルミネーション、たぶんもうこの冬最後だと思います。
去年の秋ごろからレコーダーの調子が悪くて、予約録画をしなくなった(再生とかはできる)。新しいのを買おうと思うが、どうも面倒で気が進まない。
昔は物欲がむらむらとわきあがる男だったのに、枯れてきたのかしら。。
それで、テレビを付けてそのときやっている番組をみている。
当たり前のようだが、ふだんはほとんどニュースとかしか、見ないことが多いのだ。
ドラマは苦手で、よく友人とテレビドラマの話になるとひやひやする。彼らがみているドラマを知らないのだ。
でも、今年はちらちらっとみてるぞ。どれもNHKだけど。
1月にやっていた、「モンローが死んだ日」は良かったです。
鈴木京香さんはとてもいいです。草刈正雄さんは、いかにもという感じになりそうでそうはならないのは、演技が達者だからでしょうね。
大人のドラマでした。
朝ドラの「まんぷく」も、ずっと追ってはいないけど、見られるときは見ている。
タイトルのドリカムと、映し出されている福子さんの映像がどうもしっくりこない。
ドリカムは個人的にはバブル最盛期から数年間のイメージが強い。むしろ「半分、青い」の時代性のほうが似合う感じ。なのに、福子さんは昭和20~30年代の、サザエさんみたいなファッションで。。いつもこれ見ると、自分の親たちの世代のひとが、ああ若いころを思い出すわねえ、と思うんだろうなとか、考えたりする。でもバックの音楽があれですからね。。。
今週は矢口プランもいよいよ実行段階に入ったようで、いよいよ佳境ですね。あ、ちょっと違うか。。?
「特撮ガガガ」は、ほんとうにチラ見している程度だが、わりとあの世界観、好きです。今では想像しにくいですが、昔は鐵道ふゃんだと人前で言うのは、とても勇気がいることでした・。さいきんではうちの部下の子なんか、ああ、鉄なんですかあ!と目を輝かしたりしますからね。
女の子がヒーロー特撮ものが好きに悩むといえば、僕も子供の頃、親に犬のぬいぐるみ買って欲しいといってからかわれたことあったな。しかしこの、自分のもふもふ好きと自らの外観とのギャップには、この先も悩むことになりそう。。
「半分、青い」を見ていたら、片山外務大臣(wikiによると副総理でもあった由)が100円均の店長をやっていて(田辺一郎)、おお、こんな姿に身をやつして・・、と思ってしまう。そういえば岐阜のお医者さんも防衛大臣(余貴美子)だったしな。NHKのサイトを見ると、「食べてないんだ!」の間邦夫さん(塚本晋也)も、大学教授役で出てたんですね。巨災対の功績で出世したか。。
あまり俳優さんの顔を覚えられない人なのですが、どうもシン・ゴジラの出演者たちがほかの役をやっていると気になります。。電車の広告か何かで見たのに、放送は見逃しちゃったけど、巨災対の安田君(高橋一生)が司会をやっていた「人類誕生」、見たかったな。安田君といえば、イオンシネマのポスターでいつも気になっていた映画「空飛ぶタイヤ」にも高橋さんが出ていて、しかも森課長(津田寛治)と共演したらしい。この映画も観たかったけど。。今どうも色々あって「映画を見に行く」という気にまではなれなくて。。
柄本明さん(東官房長官)や石原さとみさん(パタースン特使)あたりになると、ゴジラの印象よりもほかのイメージが重なるのでまた違うのですが。柄本さんは個人的にはなぜか「蝉しぐれ」ですね。。
16日(土)のNHK BS1で放映された、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞に伴う単独インタビュー番組を見た。
イシグロ氏は自らの生い立ちについて触れ、両親の生き方が自分が小説家になることそのものに強い影響を与えた、という。イシグロ氏の父は海洋学者で、イギリスに招かれて北海油田の開発に携わった。最初は数年で日本に戻ることを考えていたが、なかなか戻れずにいた。このことは、イシグロ氏をして自分たちは「訪問者」であって「移民」ではないという意識を与えた。イギリス人は異郷の地の「先住民」であり、その慣習を尊重するように言われた。が、「適応」することは求められなかった。自然、イシグロ氏は二つの異なる社会規範があることを理解し、イギリス人に距離を置いてみるように育った。ものごとを一方的に正しいとしてうのみのすることはなかった。
イシグロ氏は日本の50~60年代の小津映画などに、両親と過ごした家庭を見る。それは今日の日本の家庭とは違うかもしれないが、イシグロ氏にとっては懐かしい日本の家庭生活にうつるようだ。それがかれの小説世界の一つの背景になっているのだという。インタビューの最後のほうで触れているが、漫画(日本の)もまた彼に強い影響を与えており、その手法をこれからの作品に反映させたいのだという。表現形式のクロスオーバーというか、表現手法の多様性については例えば、昨年ノーベル賞を受賞したボブ・ディランについても、イシグロ氏は強い影響を受けている。かれの表現手法をスウェーデンの選考委員会が、文学賞に値すると判断したことは素晴らしいことだ、と激賞している。
イシグロ氏の作品世界については、僕は彼の作品をそれほど読んでいない(前にも書いたが、「浮世の画家」を英語と邦訳で、「ノクターン」を英語で読んでいる)ので、作品に関する彼のコメントは語りにくいのだが、彼の初期の一つの大きなテーマは、人生を振り返った時に、自らが打ち込んでしてきた仕事が、実は恥ずべき事であり、今は罪悪感を感じているという「記憶」にかんするものだったという。「浮世の画家」にはたしかにそういう面がある。彼は戦前にあっては国威を発揚する(戦争画のような?)絵を描く師匠のような存在であったものが、戦後はそれゆえに画壇での地位を失い、同時に家庭においても家長としての威厳を失っている。が、自らは直接その記憶に直面しようとはしていない。
こうしたテーマは、イシグロ氏が第二次大戦の直後に生を受け、また戦争を引き起こした日本の出身であることが影響している。しかし一方、自分を日本のことだけを書く作家とは見られたくない、という思いも強かったようだ。「日の名残り」は、戦前ナチスとの融和を図ろうとしたイギリス貴族の、執事の回想が主題なのだという(読んでいないのでわからないが、映画化もされているようだ。見たい)。
インタビューは多くの示唆に富んでいて、すべてを書き尽くすことはできないが、あと二つほど取り上げておく。
「私にとって文学とは、人間の感情に大きくかかわるもので、人間が作り出した壁を越えて感情を分かち合うことなのです」
「国家は暗い過去を忘れる方法をどのように決めるのか。国家は全身や結束のために社会が分裂し内戦に陥るのを防ごうと、過去を忘れなければならないことがあります。」国家はときに過去を忘れなければならないことがあると説き、しかし一方で、それまでおきた恐怖や不正に対処せず、安定した民主主義を保てるのか、ともいう。国もまた個人が抱える問題と同じ問題に悩んでいる。いつ思い出すべきか、いつ忘れるべきか、イシグロ氏はずっと、このテーマに心を奪われているのだ、という。
インタビュアーの「日本は過去の記憶にうまく向き合ってきたか」という質問に対しては、これはBS「国際報道」でもそこだけ抜粋して流していたが、「日本人にとってはは記憶にふたをして、自分たちが原爆の被害者と思おうとするほうが楽なのだろう。しかしだからこそ、事は微妙な問題になる。なぜなら、日本は軍国主義のファシズム社会から、近代的で自由な民主主義社会に移行するのに成功した輝かしい手本だからです。世界が不安定になりつつある今、日本は安定してる。これは日本が過去の暗い記憶を脇へ追いやらずになしえただろうか?日本のような良い社会を気づけるかどうかは無理にでも物事を忘れることにかかっているのかもしれません。それが正義ではなくてもです」
かなり踏み込んだ発言だ。インタビュアーはこのあともさらに畳みかけようとしているが、それは余分だろう。
先日、中国人の同僚とイシグロ氏について話す機会があった。たしかに文学は、人々をつなぐ架け橋としての役割があるようだ。
9月24日夜に総合テレビで放送されたのを、途中から何気なく見はじめたが、何かの都合で中断した。ところが火曜日の深夜に、帰宅してテレビを付けたら、同じ番組が再放送されていて、それもちょうど前回中断したところを放送していた。ので、これも縁だと思って最後まで見てしまった。なお、同番組は総合テレビでは初出だが、ネットを見ていると以前にEテレ?などで放送されていたらしい。
タイトルに掲げておきながら恐縮だが、ふつうに番組概要に触れながら感想を述べる、みたいな書き方が中々難しく、代わりに自分の中で乱反射して浮かんだものを拾いあげる、みたいな書き方になることをお許しいただきたい。
ある種のことは、外から見ていると余程大変なことのように思えるが、中に入ると視点が変わる。人間、いつまでも同じ辛さを感じ続けることはできない。早い話が慣れてしまうし、どこかに楽しみを見出すことも自然にできる。
ほかの人とは立ち位置が多少違うように思えるが、よく見ると違うところよりは同じもののほうが多い。ちがうところが多少目立って見えるだけだ。
例えるなら、急な坂に立っているが、前後左右にバランスが良いので、案外気楽な気分だ。しかし、ひとたびバランスを崩すとひどいことになる。その点だけは確かに違う。
人は人にいろんな形で影響を与える。考えてみれば、とても不思議なことだ。影響力お大きさは、人間の決めた概念とは必ずしも同じではない。専制君主が市民に与える影響、などは理解しやすい。音楽家の奏でる調べに引き付けらえる、あるいは大昔の作家が遺した小説に酔いしれる、あるいは、愛してはいけない人に心奪われるとか、うまくやらなきゃいけない相手なのに、つい衝突しては苦い思いを残す、なんてこともあるだろう。
家族、などはいわゆるしがらみが強く、それが心に重くのしかかる、ということもあるかもしれない。他方、仕事の場などでは、必死になってしがらみを保ち続けようとして、それが苦痛になるということもある。
人が選択できることは、漠然と思っているよりずっと少ない。漫然とみんな同じだ(同じ条件で暮らしている、同じ感覚を持っている)と思っていることは、実は千差万別。他人はおろか、自分自身だって時と場合で違う。
ケーブルテレビを契約して10年ちょっとになる。有線の放送を見るためもあるが、地デジ化の際に、アンテナを立てず、光回線で見ようとしたのがきっかけだ。
アナログ時代、この地域は都心のビルの陰になったいわゆる難視聴地域だった。ビルの所有者から、各家庭に有線のテレビ信号が無料で供給されていた。我が家にも屋根にアンテナがあったが、実際にはつながっていなかった。
もちろん、ビル所有者が回線を持っているわけではなく、j:comが代行していた。
それで、10年前にレコーダーを購入したとき、同時に地デジ信号をと思ってj:comと契約した。
もちろん、地上波やBSだけを見たくて契約したわけではない。当時はSuper dramaTVで、「ザ・ホワイトハウス」をやっていたので、それを見たかった。CNNやBBCがみられるのも魅力だった。
2008年暮れにパソコンを買い、その際インターネットもocnにした。同時に、j:comを解約してスカパーに変更した。相乗りの形で、テレビを光テレビに変えたのだ。
j;comのときに日テレニュース24がみられたかどうか、記憶がないが、とにかくそのころから頻繁に見るようになった。
何といっても本当に24時間ニュースばかりやっているのが魅力だった(ごくたまにゴルフ中継とかしているけど)。
当時は中島静桂さんが良く出ていた。麻生首相の頃で、そういっちゃなんだがどこか親子みたい(失礼?)だな、と思ったりしていた。
アナウンサーは結構新陳代謝する。
夜のニュース(デイリープラネット)をよく見たが、一時は坂木萌子さんが毎日のように出ていた(金曜日だけ違ったかな)。
舟橋明恵さんもこの春で卒業されたらしいし、塚田文さんもそうかな(追記:失礼まだ現役です)。
榎本麗美さんはもうベテランだ。あさのOha!4は見ていなかったが、中田有紀さんが登場する番組CMが盛んに流れていて、おなじみだった。
気象キャスターでは藤森涼子さんが大ベテランで、とても分かりやすい。
卒業された方、小越久美さん、山本詩織さんとかは、今ではブログやツイッターを拝見しています。
CMが原則なくて、番組の間は日テレニュース24か番組自体のCMが流れている。
これが、同じものがひたすら繰り返し流れるので、嫌でも耳(目)に残ってしまう。
割と単調で素朴な音楽がバックに流れている。それが耳に残る。
上の写真のような、見出しだけ表示されているとき(番組の合間)は、バックに普通のポップスのようなものが流れていた。時間帯によって曲が変わったりもしていた(午前中、日中、夜など)。
それも耳について、たしかビリー・ジョエルの曲は配信で買ったりしたな。谷村新司の曲もよく聞いたし、誰の曲かもうわからないが、「・・だからいい子にしてられない・・」という歌詞の曲も、頭を離れない。
今流れているCMも、都市の風景を時間を追うごとに早送りで見せていくもので、これが不思議と情緒を誘うんですね。
一日の仕事を終えて、ニュースをぼんやり見ている。今日も人々は行き交い、何かが起きて何かが残り、何かが生まれる。ああ、僕もその一員として、少しでもなにかを残すことができたかな、と振り返ったりして。
転居先は集合住宅なので、自分でアンテナを立てる必要がない。逆に受信できるケーブルサービスは限られる。
ので、とりあえず8年以上続けてきたスカパーをいったん解約することにした。
でも、そのうちどうしても見たくなって、再契約するかもしれないな。
シーズン5,6の放送も決まったようです。今回のシーズン4も、ここから新規に見るという人も少なかったでしょうから、初期のころからずっと見続けている人たちが一定数おられるのでしょうね。
今回は放送後半までビデオを録りためたままで、途中から数日かけて一気に見てしまいました。
シーズン2,3で目立った、スキャンダルや刺激一辺倒という感じを脱して、すこししんみりしたり、ほっとできるようなエピソードが目立った気がします。
とはいえ、アンナのシーンはひどい。。あれをちらっと見て、しばらく録画状態で放置してしまったんですけどね。。
また少しずつ、人が入れ替わっていますね。
オブライエンさんは、前シーズンの最後でなんとなく伏線を張られていましたが、今回姿も見せずに去ってしまいましたね。
このシーンは必要だったのかしら?円満退職という形にしたくなかったのかな?
たしかに、普通の退職なら引継ぎの期間が必要になり、エドナを後継で入れるには一工夫必要になってくるでしょうね。
そのエドナも、かなりあっさりダウントンを去ってしまいます。ちょっと不完全燃焼気味。
バクスターさんは伏線張ったままシーズン終了していますので、まだこれから何かありそうですね。
トーマスは今回は出番を減らしています。ベテランのキャラクターとしては、ヒューズさんが大いに活躍していましたね。
最終回で、カーソンさんと手をつなぐシーンは実にほのぼのしていて、心温まります。前シーズンはひどい終わり方でしたから、よけい。。
カーソンさんは比較的心温まるような描写のされ方を今回はされています。ただ、物語の原動力としてはあまり寄与しておらず、よけいヒューズさんの活躍が目立ちます。
パットモアさんも今回はおとなし目かな。
デイジーは、今回注目を浴びています。相変わらず人々の好意を素直に受け止められないという、たぶん辛い子供時代を送ってきたんだろうなあ、と思わせるようなそぶりが目立つのですが、そこにもすこしずつ変化が見えます。
アイビーとがちゃがちゃ喧嘩したりするあたり、うまいシナリオだなあ、と思いますね。色々と、心につかえているものがあるんでしょうね。。それでも最後は、アルフレッドもアイビーも気持ちよく送り出してあげるというあたりで、素直な心持ちを見せてくれています。
モールズリーさんは、相変わらずさえない役でしたが、バクスターさんに「みんなに愛されている」とか、「勇気をもらった」といわせているあたり、なんだか作者の愛を感じます。。
ストーリー全体の流れからいえば、メアリーとその取り巻き(イブリン、チャールズ、アンソニー)の話も重要ですが、今思い出すと豚のシーンしか出てこない。。
やはりイーディスですね。問題児は。この子も少しずつ大人になってきて、落ち着いてくれるのかな、と思ったけど。。ロザムンドおばさま、良い叔母さんですよね。。
ローズは・・物語上、必要なキャラクターではありますが、まあありきたりな若い子という感じ。
というわけで、、あまりまとまりがありませんが、僕のお気に入りの登場人物は、目下シーズン4エンディング時点ではイーディス嬢、デイジー、カーソンさんとヒューズさんという感じです。
モールズリーさんは、自分を見ているようです。。あと、バイオレット様、ロバート、コーラ、イザベル、トム、ベイツさん、ジェームズは言及できずにごめんなさい(って誰に?)・。
「ダウントン・アビー」の後を受けて始まったドラマだ。全17回で、先日日曜日に終了した。
1930年代のヨーロッパが華やかに描かれていて、異国情緒を楽しめる。のだが、前半はちょっと話の流れが見えにくくて、ものがたりのリズムも少々緩慢な印象があった。主人公はいちどどん底におちるが、仕立屋としてとんとん拍子で成功していくので、なんだか「おしん」を見ているみたいだな、という妙な感想を持ったりもした。
しかし後半、マドリッドに戻るころから「スパイもの」の本領が前面に押し出されるようになり、俄然ドラマも活気を帯びてくる。依然としてちょっと都合がいいというか、シーラができすぎという印象がぬぐえないのだが、スリルと(ドラマなんだからうまくいくはずと言う)安心感がうまくマッチして、つい見入ってしまうようになる。
登場人物のファッションが、30年代風におしゃれだ。男性もスーツがいちばんきれいだった時代で、みんなかっこいい。
最初はそうでもないのだが、回を追うごとに出てくる自動車の種類が増えてきて、圧巻だ。バスケス所長のシトロエン(だったかな?)、メルセデス、イスパノ・スイザ、パッカードぐらいしか名前がわからないのだが、きれいな自動車が縦横に走る姿は印象的。一体どこでどうやって保存しているのだろう?ダウントンアビーでも、いかにも古そうなバスが出てきていたけど。日本だと保存車自体が少なくて、「日本のいちばん長い日」でも60年代とおぼしきロールス(シルバーシャドウ?)が出てきたりして、ちょっとがっかりする。その辺にこだわるとこんどは「3丁目の夕日」みたいに、それ自体が売りになってしまって、それもまた違う気がするんだよな・・。
非常に女性視点のドラマで(原作がそうなのだろうか?)、どんぱちシーンとか、カーチェイスみたいなアクションシーンはとても控えめだ。そういう細かいドラマ作りに特色があり、なかなか、興味深いドラマでした。
まだシリーズが終わっていないので、時期的に中途半端だけど・・。
去年も第1シーズンをやっていたらしいのですが、そのときは全く知らなかった。ふだんテレビドラマ、余り見ないもので。
なぜ今回は見ているかというと、7月の初め頃にうちわをもらったのがきっかけ・。
もちろん、東京第一銀行の支店でもらったのではなくて(時計ならなお良かったけど・・)、昼休みに歩いていたら、番組の宣伝を偶々やっていたのだ。
オフィスの近くのビルが本部ということになっているらしいんですね。
ウェブの目撃情報を見ると、けっこうあちこちでロケをやっているらしいですね。僕は見たことはなかったですが。
僕は邦銀に勤めたことはないので、ドラマにあるようなメガバンクがどういう組織になっているのかは知らないが、こういう部署があるんですかね・・。
見ていけばわかることだし、そんなことを言っても始まらないのだが、このドラマ、銀行ではなく一般的なビジネス社会から見ても、それはないだろう、と突っ込みたくなるような、思い切りのいい台本設定が随所に出てくる。
ベンチャー企業の社長が、銀行借入の為にスキャンした税務申告書を深夜、一人で改ざんしたり、支払いを気にしている社員に支払いは大丈夫、と言うシーンがあったが、この会社、社員が50人以上いるのに、経理担当を置かずに社長が全部経理も見ているのだろうか?都心のビル3フロアも借りていたような会社なのに・・。
顧客の資料が流出したことを、融資担当と本部臨店班だけで謝罪に行くというのも、ちょっと考えられない対応だ。少なくとも担当者直属の上司や、支店長など役席者が臨席するのが常識だと思うが・・。
まあ、ドラマの進行の都合上、やむを得ず、というのはあることはわかるけど・・。小道具とか、ロゴマークみたいなのはかなりこだわっているみたいなので、いまいちなシナリオかなあ、とつい言いたくなってしまうのだ。
しかし・・、いくつか考えた。
ひとつは、あまりリアルな設定にしてしまうと、ドラマの性格上深刻になりすぎて、コメディっぽい雰囲気が損なわれてしまう。ので、わざと突っ込みどころのおおい設定にしているのではないか、ということ。企業の経営者や経理財務の方々が、「はは、そんなことありえないだろっ!」と笑いながら突っ込める程度にしておかないと、ドラマを見ながら仕事の続きをしているような気分になって、余計疲れてしまいかねない。その辺を配慮したのではないかと。。
もうひとつは、これも日本的な「お察しください・・」という思考の表れなのかな、ということ。というより、これは昔の時代劇のパターンだよな。花咲舞の「お言葉を返すようですが」が、40分過ぎに現れるのは、水戸黄門の印籠とか、遠山の金さんの入れ墨のパターンそのものだ。そんなこと僕に言われないでもわかっているって?
でも、なんだか妙に幼稚な行員たち、というのは、実はあり得ないことでもなくて、けっこうこの業界の本質を突いていたりとかしたりなんかして・・。あまりわらえなかったりする、かな。
先日は本も読みましたが、私、けっこう杏さんが好きですね・・。上川隆也氏も、かなりいい感じです。
写真は本文とは関係ないです。。
金曜日にリセットしたタブレットは、やはりどうも思わしくない。やっぱり新しいの買うか。