(写真は左からペー族、イー族、ミャオ族・・・ だと思います)
大型民族服飾、民族風情舞踊計画
麗江金沙
大理の三道茶を楽しんだ後、私たちは一路麗江へ。
麗江での夕食は納西地方料理を食す。
食後はオプションの『麗江金沙』を鑑賞。
まずは楽器だけの民族音楽から始まる。
少数民族の衣装をまとった演者が、色々な楽器を奏でる。
舞台の前には水が池のようにはられ、少しばかりの造花の蓮が飾られている。
水と蓮の桃色が中国らしくて楽しい。
中国の舞台を観ているといったねっとりとしたこの感じは、心地が良い。
中でも真ん中に座っていたナシ族の長(おさ)は格好がよかった。
頭にかぶった帽子にはアロエのような飾り物。
衣装は渋く、まるでカブキの荒事に出てくるような男らしさを感じさせる姿。
美しい・・・
サンタではないが、「ホホホー」の掛け声から始まるこの舞台は、象や孔雀といった吉祥文様を作品に取り入れている。
ライトの色彩と文様、数多くの雲南省に住む少数民族の衣装を身にまとった舞台は、ドラマ性を含んだ中国風ファッションショーのようにさえ感じる。
雲南省少数民族の日常のたわいない暮らしや農耕儀式。自然や太陽や月に対する感謝。そして男女間の精神的肉体的表現・・・
自然の中で生かされているといった基本的な人間の姿から始まり、少数民族の風習などを描かれた、あらすじにおいては秀作といえよう。
美しい衣装で歌舞彩雲南の舞台は展開する。
一人の女性を巡ってリス族、ハニ族、ナシ族、イー族、プミ族などの男性が面白おかしく争っている。
これは演出上の身であって、実際は複数の民族の男性が女を取り合うということは考えられないから、余計に楽しい。
ひとりの男性を決めた後は美しい複数の女性がおどる。
座った女は左右からスカートをたくし上げ、顔の前でスカートを上出合わせる。
スカートは女の真前で貝のような形を細やかに振るわせる。
本来ならばイヤラシイと感じるのであろうが、この演出は消して卑猥なものではなかった。
カブキの『それ』に対する婉曲した演じ方とはまた違うストレートな表現だが、その割には底抜けに明るい。
ライトや彼女たちの屈託の無い笑顔など、大陸のなせる技かもしれない。
華やいだ進行の中で演じ手は前の池の水をしばしば楽しそうにかぶりつきの最前列の観客に、じゃれるようにかける。
その様子はまるで戯れのようにも感じられる。
最前列の客にはあらかじめ薄いピンクの傘が手渡されており、水を浴びせられる度に、大きなピンクの花(傘)が開く。
このシーンは傘は使わないものの(透明簡易レインコート)、日本では去年の興行『こくーんカブキ』(カンザブロウ他)の『ヨツヤカイダン』やワハハ本舗などでもみられる。
水をかけられると、観客はわく。
基本的な観客参加型演出で舞台に変化をもたせるといった試み。
つい笑ってしまう。
舞台はモソ族の『通い婚』に触れる。
舞台上に木で作った家三つ、女三人。
男三人がやってきて求愛を踊りで表現。
女たちは男を受け入れる。
この通い婚は次の日にガイドが教えてくれたが、子どもができても三から五歳になるまでは誰のの子供化は分からないらしい。
男は子どもを育てる義務は無く、子どもが大きくなって父親を必要とした時に初めて父親としての役目を果たすのだという。
男も女も複数の異性と恋愛をするといったおおらかさには『あっぱれじゃぁ~』というより他に言葉は見つからないが、これもまた異文化。
日本にも『夜這い』や『もてなし?』など、昔はこういった形態に近い風習もあったことを考えると、屋にもに中国だからといった言葉は慎みたいものである。
通い婚は確かモソ族以外にペー族(又はイー族か?)ものような気がするが、何しろボワリンっと旅していたものだから、あまり覚えてはいない。
この舞台で一番感傷に浸った好きな場面。それはナシ族の『自由恋愛』の場面。
恋人たち成人(13歳)になり自由に恋愛をするが、適齢期になると自分の思い通りには結婚することは不可能。
思い余った恋人たちは心中をはかる。
死んだ恋人たちは蓮の咲き誇る第三世界へと導かれ、二人は現世では成し遂げられなかった楽しい時間をともに過ごす。
ここで私の琴線に触れる。
あまりにも切ない風習・・・悲しい・・・
これも次の日にガイドが教えてくれたことだが、実際には思いを遂げられぬ男女は、集団自殺をしたのだという。
この『自由恋愛』の習慣はナシ族の他、リス族にも見られると説明を受ける。
あくまでも想像の域を超えないが、これも貧しい過酷な地域に住む少数民族の食糧確保のための、口減らしの一方法なのだろうかとさえ、勘ぐってしまう。
上においてはいい加減な話なので 今後調べてみようとは思っているが、悪意があって書いているのでは無いこと付け加えておきたい。
これもまた異文化。
わが国で昔与那国島にみられた口減らしの過去を考えると、あり得るかなとも感じる。
舞台全体としては民族の装い、民族歌舞踊が見事に組み込まれ、少数民族の確信にも少しだけ触れることができ、満足のいく時間を過ごすことができた。
最後も、この舞台は演じ手や表情を楽しむというものではなく、雲南省の少数民族をおおまかに舞台上で堪能するといった点において、楽しむものだということを記しておきたい。