「千の風になって」
なんで曲をつけたんだろ
なんでヒットしたんだろ
感動している人から怒られそ
まだヒットする前に本屋で立ち読みした
買わなかったのは、読むと泣きそうになるから
手元にあっても開けない…と思ったから
それくらい心に響く詩だった
作者不詳
曲がついていることは知っていた
楽譜も見た
でも、聴きたいとは思わなかった
どんな曲か知りたくもなかった
あれは「詩」のままがいい
でもヒットしてしまった
いやでも耳に入ってくる
好きじゃないんだ、つまり、あのメロディーも歌唱も
ちっとも響いてこない
おかげで、心に響く詩が、どうしてもメロディー付きで頭の中回る
しょうがないから、原詩の英語で覚えようかしら
A Thousand Winds
日本のはちょっと演歌ぽいっていうか、洗練されてないっていうか、なんというか^^;
文字で見ると泣くから、これもキライ(T_T)
でも好きな人が多くて、素直に感動出来ない私は、ひねくれた心なんだって
ひがんでるのです。(^_^;)
ひねくれているんですかぁ?
英語の詩は良いけどねー。
何でこんなに売れているのかわからないですね。
介護が終わったら好きになれるのかなぁ?
いやでも好きにはなれないなぁ。きっと…。
そうだよね、あのメロディーはよくないよね。音楽的センスがあるとは思えない……なんてあんまり言っちゃ悪いかな。
でも、嫌いな人がいて良かった♪私だけじゃなかったか。
文字も泣く…っていうのはよくわかります。
私も泣く。だから本は買わない。
でも、詩そのものは好きです。
あの詩を見ると、お墓も納骨堂もいらないよね…なんて思うのだ。
日本中にはもっと嫌いな人がいるだろうね~…と喜んでどうする?!
私は、あの曲も歌唱も嫌いだから、ずっーーーーと好きにはなれないと思うわ。
あの歌手、うまいの?っていつも疑問に思う私こそひねくれ者かもな~
「歌詞もいきなり『私のお墓』と来るもんで、自分の墓に丁寧語かよ」とゲンナリさせらる」
と言ってるのを聞いてそれもそうだな、と。そして、柳田邦男さんが、ある会誌上で、この訳詞と作曲を「演歌」「講談社のコマーシャリズム」と喝破され、すでに10年以上前に南風椎(はえ しい)さんと言う方が訳されているものを紹介されていたとか。別のところから探してきました。もちろんこれには、稚拙な曲などついていません。
1000の風
私の墓石の前に立って涙を流さないでください。
私はそこにはいません。眠ってなんかいません。
私は1000の風になって吹き抜けています。
私はダイアモンドのように雪の上で輝いています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
秋にはやさしい雨になります。
朝の静けさのなかであなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって駆けあがり
鳥たちを空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で泣かないでください。
私はそこにはいません。私は死んでないのです。
(訳:南風 椎「あとに残された人へ1000の風」三五館)
いかがかな?
火曜日のNHKの歌の番組を義母と見ていたら、秋川さんが出ていて歌っていたのですが、義母が「この人うまいね」と。好き・嫌いは別として、まだ義母にもそういうところを見抜く力は残っているのだな、と思いました。
「自分の墓に丁寧語」……イヤからそれは気づかなかったな~
メディアで、バッサリ切っている方もいたんですね。
その話を生で聞いてみたかったな~
南風椎さんの詩、ありがとうございます。
これは永久保存です。
こっちの詩を覚えたいわ。頭の中であのメロディーをならしたくないので。
認知症になっても、キレイなものはキレイ…というような感情って最後まで残るという話は聞きますもんね。
母をみていると、理屈ではなく本能で「快・不快」「ヨイもの、悪いもの」「キレイなもの、そうじゃないもの」をかぎ分けているような、純粋になる分本質をとらえているような…そんなことを感じることがあります。
あの方の歌唱、私は嫌いで、歌唱力があるの?と失礼なことを思うんですが「声量もあるヨイ声」なのは間違いないですから、義母様も、それをちゃんと感じ取っているんでしょうね。