まぁー本当に長い事 傍に居て呉れた長女が帰る日が来た。
私の胆嚢摘出手術入院の時にも、闘病中の母だけでは心配だと言って~退院した後もしばらく手伝って呉れて帰った、その数か月後に今度は母の入院となって6月6日以降7月末日まで~一旦、帰った後 四十九日の法要の為、9日に再来し今日22日まで居て呉れた。
嬉しい事であるが親として この様に長期にわたって居て呉れる事は何かにつけて助かるし嬉しい事なのであるが~嫁いだ先の旦那の事を考えると果たして如何なものかと~滞在中にも何度か問う事であったが 「大丈夫!大丈夫!」 の言葉と共に4姉妹弟の中で 「今一番自由が効くのは私しかいないじゃない」 「了解済みだから心配しないで!」 と言われれば 帰ってくれとも言われず甘えて滞在して貰う結果になった。
ブログ上でも一言 長女ばかりでは無しに 旦那様とご両親様 に ご配慮頂いた事 感謝申し上げます。 ありがとうございました。
母の入院中は毎日病院通いに看病、慣れるに従いどちらが親なのか逆転したような~弱る母を励ます意味を込めての言葉と思うが場面も見られる事があった。
長女が居ない時 家内は 「怒られているようで気を使うわ」 と病気で小さくなった声を更に小さな声で訴えるのである。 「怒っているのではなく大きな声で励ましているんだよ」 と解釈すると小さくうなずく仕草。
最後に近い数日間は徹夜を含む看病になったが、39日間の入院の中でいろんな場面が思い出される。それを思う時、涙が浮かぶ。
朝食の出る前に病院へ行くのであるが、今日は元気な顔で居て欲しい願望で その通りであればホッーとし、そうでない時は時間をかけて落ち着くの待って 口内炎がひどいので 先ず口中掃除、うがいから始まり、洗顔等の世話をして、食事になるのであるが おかゆ食であるからスプーンで1杯~2杯程度。おかずは食べないに等しい。
ほどんと点滴頼り。体力は著しく落ちて入院後数日でベットの人になってしまった。
夕食は午後から看病に入った長女と、昼食の為 帰宅して再院した私の二人で世話をするスケジュールであったが、何時も19時前後一通りの身の回りを整えて 「じゃー又明日ね!」 とお互いに手を振りながら別れてくるのであるが、日につれてその時間が近づいて来ると不機嫌な表情をするようになる~が、こちらも帰って夕飯支度等仕事がある為、何時までも居る訳にはいかず、気持ちの中には居てやりたいのであるが~なだめて帰る事があった。 今思えば~後悔の一つになる。
哀れで悲しく寂しい事に 「家に帰れるのかなぁー」 「家に帰りたい」 「歩いて帰れるのかなぁー」 「何でこんなにだるいのだろう、力が入らない」 等々 体力の弱まりを自覚しながら願望を口にしていたのだろうと推察されて悲しい!
でも孫たちが見舞いに揃って来た時には会話も弾み、にこやかな笑顔を見せて声も何時もより大きい声を出して応対していた姿が、目に浮かぶ。 「好い顔していたよ」 と教えたい。
家に帰りたい言葉を実現出来なかった事が頭にあり、せめてもと斎苑に向かう前に自宅周りを一回りして貰って 「家に来たよ」 と 遺影と遺体に向かって声を掛ける事もしました。