阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

中田厚仁さん30年平和フォーラム

2023年04月08日 22時32分02秒 | 政治
 今日4月8日はUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)で、自由・公正なカンボジアの選挙の実施のために活動していた中田厚仁さんが銃撃を受けて亡くなってから30年になります。
京都芸術大学、外務省、国連ボランティア計画が『中田厚仁30年平和フォーラム』を実施し、私は基調講演を行いました。UNTACの特別代表を務めた明石康氏など、国連や各国政府で活躍する平和構築、平和外交のエキスパートが参加される中、約40分、お話ししましたが、皆さんの途切れることのない熱心な視線を感じ、私の問題提起が基点になって、民主化支援の在り方や、日本の平和貢献の在り方など様々な議論がなされました。このような機会を作れたことを本当にありがたく思います。
下記の様なテーマでお話ししました。
1:中田さんの足跡をまとめた絵本『中田厚仁物語-夢は世界を平和にすること』を通して中田厚仁さんのパーソナリティーの紹介。この絵本はクメール語研修の2か月間、ルームメートだった時に直接聞いた彼の言葉を引用して編集し、すでにカンボジアと日本で約3500部配布されている。
2:自由で公平な選挙の実施のために命を懸けた彼の遺志を継ぐ活動として、衆議院議員として、カンボジアの選挙制度改革に取り組んだ。有権者登録のプロセスに二重登録などの不正が起こり得ること、それをコンピューター化することで不正を防ぎ得ることを国会で提案した。その結果、コンピューター化に生体認証機能も加え、自由公正な選挙を行う制度的基盤はできた。
しかし、カンボジアでは2017年に野党第1党・救国党は国家転覆を図ったとして解党させられた。変化を望む国民が投票する政党がなくなり2018年の選挙で与党人民党が125議席全てを獲得した。カンボジアの民主主義は危機的状態にある。
3:彼が人生の終焉を迎えた場所にできたナカタアツヒト村と『アツ学校』の現状を紹介。現在は小学生300人、中学生が130人学んでいる。貧困のため学校に通えない子どもも多いため、NGOインターバンドは補習授業実施のための支援をしている。 
4:日本の平和貢献の在り方について問題提起を行った。特にカンボジアの選挙制度改革による学びを、同じような選挙プロセスの不正が民主化の阻害要因になっているミャンマーなど第三国にどのように応用して実行するか問いかけた。
中国の影響もあり、民主化しなくても豊かになれると考える国が増えています。どのように民主主義の質を向上させ、ひとりひとりを幸せにするシステムに進化させるか、これは今後の大きな課題です。この2日間一緒に考えていきましょう!
講演はパワーポイントを使って行いましたが、近く、日本語で、オープンな形でオンライン講演を行いたいと思います。また、私が理事を務めるインターバンドはこの7月23日に行われるカンボジア総選挙に選挙監視ミッションを派遣し、『ナカタアツヒト村』を含む地域で選挙監視を行います。今回インターバンドからボランティアとして参加してくれた人々が中心的な役割を果たす見込みですが、一般の方々にも参加して頂ければと思います。市民による選挙監視ミッション、一緒に作っていきましょう!

Today, April 8, marks the 30th anniversary of the shooting death of Atsuhito Nakata, who worked for UNTAC (United Nations Transitional Authority in Cambodia) to implement free and fair elections in Cambodia.

Kyoto University of Arts, the Ministry of Foreign Affairs, and the United Nations Volunteer Program conducted the "Nakata Atsuhito 30th Anniversary Peace Forum," at which I was the keynote speaker.
I spoke for about 40 minutes in the presence of experts in peacebuilding and peace diplomacy working for the UN and various governments, including Mr. Yasushi Akashi, who served as UNTAC's Special Representative. I felt everyone's uninterrupted and enthusiastic gazes on me, and my presentation of issues served as a starting point for various discussions, including how we should support democratization and how Japan should contribute to peace. I am very grateful for this opportunity.

I spoke on the following themes.

1: Introduction of Mr. Nakata's personality through his picture book "Nakata Atsuhito Story: My Dream is to Make the World Peaceful," which summarizes his footsteps. This picture book was edited with quotes from his words that I heard directly from him when we were roommates during the two months of Khmer language training. About 3,500 copies have already been distributed in Cambodia and Japan.

2: As a member of the House of Representatives, I worked to reform Cambodia's electoral system as an activity to continue his legacy of risking his life for the implementation of free and fair elections.
I proposed to the National Assembly that the voter registration process could be subject to fraud, including double registration, and that computerization of the process could prevent fraud. As a result, the institutional basis for free and fair elections was established, with the addition of biometric functions.
However, in 2017, Cambodia's first opposition party, the National Rescue Party, was disbanded for attempting to overthrow the state. The people who wanted change no longer had a party to vote for, and the ruling Cambodia People’s Party won all 125 seats in the 2018 election. Cambodia's democracy is in crisis.

3: The current situation of Nakata Atsuhito village and "Atsu
School" which was established in the place where he ended his life.
Currently, 300 elementary school students and 130 junior high school students are studying there. Since many children are unable to attend school due to poverty, the NGO Interband is supporting the implementation of supplementary classes. 

4: I raised the issue of how Japan should contribute to peace. In particular, I asked how the lessons learned from Cambodia's electoral reform could be applied and implemented in third countries, such as Myanmar, where similar electoral process irregularities have been an obstacle to democratization.
China's influence has led me to believe that more and more countries are thinking that they can be prosperous without democratization. How to improve the quality of democracy and evolve it into a system that makes each individual happy is a major challenge for the future. Let us think about this together during these two days!
















新年のご挨拶と2022年への感謝

2023年01月01日 00時00分26秒 | 政治
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

2023年は、来る総選挙に向けた政治活動を本格的に再開するとともに、地に足を付けた社会生活、そしてずっと取り組んできた国際協力活動と両立することを目指し、頑張りたいと思います。

2021年10月の衆議院選挙で落選し、今後の政治活動をどうすべきか?との判断を迫られるとともに、社会人としての基盤を再構築しなくてはとの現実に直面しました。『総支部長』になることは、地域をまわる政治活動に専念すること。私の場合、そんな生活が過去にも長く続いたので、総選挙がすぐにはないとの考えに立ち、議員ではなくても、自分の経験や長年の問題意識を発揮できる場を探したいとの思いに強く駆られました。幸い『政策担当秘書』の資格を持ってこともあり、複数の議員から政策スタッフとして手伝って欲しいと声を掛けて頂きました。特に30年来の友人でもある牧山ひろえ参議院議員が、外交防衛委員会所属の羽田次郎参議院議員とのご縁を作ってくださったこともあり、国会に勤務しながら、羽田議員の政策担当秘書としてこれまでの問題意識を活かすことを仕事にすることができました。

ロシアによるウクライナ侵攻、敵基地攻撃能力や防衛費増額に関する議論など、安全保障が大きな政治課題になる中、国会質疑や政策作りのための調査・研究に自由なスタンスで取り組めたことは、私にとっては大きな意味があり、非常にありがたいことでした。

2022年は『政策担当秘書』としての仕事が中心でしたが、新たな1年においては、来る衆議院選挙に向けた準備を加速させつつ、引き続き、野党として自民党に対峙できる政策立案能力に貢献できるように、そして日本の民主主義を鍛えることにも寄与できるように、役割を果たしていきたいと思います。引き続きよろしくお願い致します。

防衛費増税と『アメリカに守ってもらう』ことをセットで考えるロジックの非常識

2022年12月31日 23時44分26秒 | 政治

 今年もあと少しになりました。先日、2人のアメリカ人と話していたら、日本の防衛費増強について質問されました。金融の専門家としてのキャリアアップのためにMBA取得の勉強をしている30台前半の青年達で、発展途上国の支援にも熱心で、アメリカの政策についても批判的に考える訓練をしていることが伝わってくる人たちでした。

 彼らが心底驚いていたのは、日本では、いざという時にアメリカに助けてもらうことと、防衛費増強がセットで考えられていることでした。「申し訳ないけど、アメリカが戦争するかどうかの判断は、アメリカにとって利益があるかどうか以外の理由が入り込む余地あり得ないよ。日本が頑張っているんだから、助けようとはなるはずがない」とハッキリ言われました。もちろん、私の考えも同じです。彼らはアメリカに助けてもらうためとする防衛費増強派の根拠のないロジックに心底驚いていましたね。ある意味、ウクライナがハードルを上げていて、全国民が武器を取って闘うぐらいの状況になって、初めて頑張っているように見えるんでしょうね。それでも『先制攻撃』をしたのが日本であれば、「まず、アメリカ世論の賛同は得られないだろうね」とも言われました。完全同意です。

 私は『国民を守る』ことはもちろん政治の大きな役割だと思いますが、それは食糧安全保障や、明確な安全保障政策としての平和への貢献、何より国民生活の安心を守ること等と信頼に足るバランスがあってこそだと思います。いわゆるジャパンハンドラーの言葉がアメリカの考えと思っていたら、致命的な間違いを起こすことになります。

 アメリカ大統領にしても、アメリカ軍の犠牲を生む可能性、場合によっては米国本土も攻撃を受ける可能性、そしてアメリカ世論の賛同を慎重に考えながら、それが本当に『日本とともに戦うこと』と釣り合うのか、慎重に判断せざるを得ません。『日本も防衛費を増やして(アメリカの武器を高く買って)頑張っている』からという理由で日本のために参戦するなどという判断は到底起こり得ないと思います。

『1ミリ』の差が生んだ歴史的なスペイン戦勝利の裏で、歴史的な政策転換が専守防衛を変える

2022年12月03日 15時08分35秒 | 政治
たった『1ミリ』の差が歴史的な逆転ゴールを生みだしたW杯スペイン戦。三苫薫選手と田中碧選手、劇的なゴールの立役者が学んだ鷺沼小学校は、川崎市の両親の家から何度かジョギングで行った距離にあります。この3月に撮った時はまだ東京オリンピック出場を祝う横断幕でしたが、まさに世界を驚かせてくれました! 

世界の中での存在感が低下し続ける日本にあって日本人選手の活躍は嬉しいことですが、昨日は、もうひとつ『歴史的』な大きな出来事がありました。敵基地攻撃能力の保有を与党が正式合意。これまでの専守防衛から大きく政策転換することになります。相手が攻撃に着手したと判断した時には、敵基地を攻撃することを安保3文書に明記し、射程距離の長いミサイルの開発・配備に乗り出します。しかし、何をもって着手と判断するのか、敵基地、そして指揮命令系統とは何を対象とするのか?首相官邸や行政府は含まれるのか等の質問に、政府は個別具体的な質問には答えられないと、あいまいにしています。極めて大きな問題です。

相手が攻撃に着手した時、という解釈は非常に難しく、相手も同じように解釈するでしょう。もし、『オフサイドトラップ』に引っ掛かり、最初にミサイルを撃ったなら、日本が先制攻撃をしたとして、間違いなく相手に攻撃の口実を与えるでしょう。日本全土が圧倒的に多くの攻撃能力を持つ敵の攻撃に晒されるのは疑う余地もありません。ウクライナがロシア国内を決して攻撃しないのも、それをやってしまったら国際社会を味方にできなくなるのを知っているからです。

また、日本が攻撃された時の民間人の安全確保はどうするのか?まさに国家の主権にかかわる有事の際の指揮権は、米国なのか、日本なのか。米国の公文書として公開されている指揮権密約(1952年)の存在を含め、政府の答弁は常にあいまいです。しかし、主要な装備、暗号、GPSなどは米軍仕様ですし、今、米軍は統合全領域指揮統制(JADC2)」システムによって米軍内の情報共有を進めています。情報、監視、偵察活動で得た情報を陸軍、海軍、空軍、さらに宇宙軍、海兵隊をひとつのネットワークに接続して情報を共有し、意思決定の迅速化と最適化を図っています。この中に自衛隊が統合され、戦略の意思決定に日本自身は関与できないことを危惧します。

残念なことですが、私たちの未来への影響は専守防衛の政策転換の方が遥かに大きいのです。スポーツで盛り上がるのは素晴らしいことですが、歴史的な政策の転換が歴史的な勝利の陰で本来の注目を得ることなく決定され、実行されていくことには大きな危惧を感じます。

付け入る隙を与えない安全保障体制の構築は当然重要です。しかし、政治的『中立』を担保してこそ可能な、平和構築や紛争の仲介を『日本だからこそできる平和貢献』として磨き上げ、『攻撃しにくい国』として実績を積むことが安全保障の柱のひとつにするとは、私が長年主張し、取り組んできたことですが、その可能性がますます小さくなることを残念に思います。

写真は数年前の8月にドーハ市内を散策した時のものです。この時期は連日50度前後の猛暑でした。すさまじい暑さの中、危険な労働で命を落とした多くの出稼ぎ労働者の問題にも向き合わなければと改めて思います。

国民の命と尊厳を守るために真に必要な安全保障とは何か。最後の1ミリまで諦めず、あるべき姿を追及し続けなくてはと、改めて痛感しています。















イビチャ・オシム元監督の民族共存への思いを再び

2022年11月25日 02時03分15秒 | 政治
昨夜は日本がドイツを破った試合の後に放映されたNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ-“オシムの国”のW杯』を食い入るように観ました。この番組は2014年に観て、元サッカーユーゴスラビア代表監督のイビチャ・オシム氏が果たした役割に深い感銘を受けました。オシム氏についてもっと知りたい。私自身のボスニア・ヘルツェゴビナ勤務の経験をもとに、『紛争の仲介』や『紛争後の和解と民族の共存』という長年の問題意識についてオシム氏の考えを知りたいと願うきっかけになった番組です。

W杯予選に参加する条件としてFIFAから突きつけられた、セルビア、クロアチア、ムスリムに分裂したボスニアサッカー連盟を統一する大きな役割を果たし、祖国ボスニアを2014年のW杯ブラジル大会出場に導いたオシム氏の哲学がその半生とともに描かれています。ユーゴスラビアが分裂し、内戦に突入していく中、代表チームの監督として、民族主義者の脅迫を受けながら、あくまでも中立でフェアな選手起用を貫いた信頼が、彼が最高の仲介者になり得た大きな要因だと改めて実感しました。

2017年、再びボスニアに行き平和構築の調査をした際、ボスニアサッカー協会を訪ねオシム氏が果たした役割についてヒアリングしました。用意していた質問を次々にぶつけたところ「それはオシム氏本人に聞くのが一番ですよ」と言われることが沢山ありました。「本人は今、オーストリアのグラーツにいるので、そちらに行けるなら連絡しますよ」と言ってもらったのですが、日程的に不可能でした。残念でしたが、脳梗塞で倒れ、心臓にも病を抱えるオシム氏に会えるとは思っていませんでした。ところが!その夜連絡があり、何とオシム氏がサラエボに来て、私に会ってくれると言うのです。サラエボ勤務の外交官で高校の同級生でもある熊倉隆行氏、そしてボスニアサッカー協会の方々の尽力でした。

オシム氏の言葉の数々に心を打たれました。
「サラエボが魅力的だったのは、各民族が共存する多様性があったからだ。サッカーの美しさは、多種多様な個性がそれぞれの強みを見つけ、磨き上げ、一体になることだ。私はそれをサラエボから学んだ」

国家分裂の危機に瀕したユーゴスラビアをワールドカップでベスト8に導き、レアル・マドリードなどの強豪チームからのオファーを断り続け、弱いチームを劇的に変える数々の奇跡を見せてきた名監督だからこその言葉の重みを感じました。オシム氏の生き方自体が、大国、あるいは力のあるチームが意のままに世界を操ろうとする世界の現状への強烈な問題提起と感じました。

オシム氏の奥さん(アシマさん)からは日本がアメリカから武器の購入を増やすことについてどう思うかと聞かれました。日本はアメリカとは同盟関係にあるが、私は紛争解決のための仲介や、平和構築など平和に寄与する日本を目指していて、それを安全保障の戦略のひとつと考えている、そのためにはできる限り中立と思われることが不可欠。アメリカ追従になり過ぎるとその可能性を放棄することになるので反対と答えると、アシマさんは手を叩いて同意し、オシム氏が仲介者として信頼され、サッカー連盟の統一に寄与できたのも中立だったからだと強調していました。隣で私をじっと見つめながら深くうなづくオシム氏の表情も印象的でした。

サラエボがセルビア人武装勢力に包囲され多くの市民が命を落とす中、祖国に帰れないオシム氏と、自分だけがサラエボから出るわけにはいかないと苛烈な生活を耐え抜いた夫人は、生死さえも確認できない時期が長く続きました。だからこそ、平和を願う気持ちの強さ、サッカーを通した民族融和への二人の思いは心に刺さりました。お二人からは口だけ勇ましい日本の政治家とは真逆の本物の勇気を感じました。

体調の不安があるオシム氏との会話時間は30分。アシマさんが時間を管理すると言われたのですが、あっと言う間に1時間が経ち、そろそろ失礼しなくては...と思った時にオシム氏が言いました。「もう少し話そう!グラッパに付き合ってくれないか?」オシムが悪戯っ子のような目で見たアシマさんは仕方ないわね...と言う顔をしながらも、オシム氏が語るほどに元気になり、会話を楽しんでいると言って喜んでOKしてくれました。さらに2時間、オシム氏の少年時代、これからのオシム氏の夢など奥さんも交えて熱いトークを聞くことができました。幸せな3時間でした。

貧しい労働者の家に生まれたオシム氏は、奨学金を得てサラエボ大学数学科に入学。ボスニア工科大学の学長でもあるガニッチ氏(元ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領)によると、際だって優秀な学生だったそうです。数学の教授を目指していたそうですが、東京オリンピックの代表選手になったことを契機に大学を中退し、サッカー選手になったそうです。大学生当時、数学を教えていたのがアシマさんで、オシム氏は教えることもとても上手だったそうです。その当時は生活のためにサッカーをしていたけど、指導者としてのオシム氏は契約金や報酬については、一切話を聞くこともなかったそうです。「いくらもらえるの?と聞いても知らない!と言うのよ!」と言うアシマさんは、そんな夫を心から誇りに思っていることが伝わってきました。

オシム氏に夢を聞くと「民族共存の象徴としてのスタジアムを作りたい」とのことでした。私が1996年に日本政府の選挙指導員としてサラエボに勤務していた時、まわりの山をセルビア人武装勢力に包囲され、平地が少ないサラエボでは戦死者の埋葬場所の確保が困難で、1984年のオリンピック会場、オシム氏がプレーし、采配をしたサッカー場、さらに一部の山の斜面が墓地になり、雪が積もったかのように真っ白に見えました。残念だけど、サッカー場は民族主義者の争いの場でもあったと言うオシム氏。だからこそ、民族融和の象徴としてのサッカースタジアムを作りたいとの言葉、胸に迫りました。

この旅では、前述のエユプ・ガニッチ元ボスニア大統領にも会いましたが、難しい道と知りつつも理想を貫くオシム氏の生き方そのものがボスニアの人々に大きな影響を与えているとのガニッチ氏の言葉を実感しました。苛烈な内戦の当事者であり、今は少数派であるセルビア系住民との関係は今なお多くの火種を抱えています。だからこそ、セルビア系のミシモビッチ選手が主力としてボスニアをワールドカップに導く活躍を見せたことの意義はとりわけ大きなものだったことを実感しました。「同じ人間として接すること。多様性の価値を認めること」仲介者としてのオシム氏がセルビア人によるサッカー協会を説得したシーンはこの番組のハイライトであり、私が一番聞きたかったことでした。オシム氏は人生を通してその言葉を体現してきた人だと感じました。

私に会うつもりになったのは、サッカーではなく民族和解や平和構築について聞きたいという風変わりな訪問者だったからだそうです。でも、グラッパを飲むに連れ、サッカーについても熱く語り始めました。日本代表やジェフ市原のかつての教え子について、また戦術について質問もされましたが、この点では詳しく答えられなかったのは心残りです。でも、私の名刺の『走るさかぐち』はオシム氏の『考えて走るサッカー』を参考にしたと答えると、政治もサッカーも自分が汗をかくことが大切だよ!と大きく頷いてくれました。

今年5月に亡くなったオシム氏。劣勢を耐え凌ぎ、ドイツから劇的勝利を挙げた日本代表の活躍を天国で喜んでいることと思います。

#イビチャ・オシム
#オシム監督
#ボスニア・ヘルツェゴビナ
#サッカーワールドカップ





















政権交代可能な野党を作るためにー政権を担う本気を理解してもらうために

2022年11月22日 18時14分02秒 | 政治

日曜の夜は市民連合の勉強会で講師を務め、質疑応答を含めて2時間あまりお話をしました。

緩み切った自民党の相次ぐ不祥事の責任の一端は、我々弱すぎる野党にもあります。与野党が伯仲した緊張感のある国会にしなくては!との思いで、自分自身が経験した民主党時代の政権奪取を目指した本気の取り組みをまず振り返りました。

民主党が政権交代を実現した過程では、5000万件もの『消えた年金』について、2兆6000億円もの年金を、本来受け取る権利のある人に返したこと、マニフェストを通して政党としての価値観、そしてビジョンを明確に示したことなどを改めて問題提起しました。

通常国会では『提案型野党』を目指したようですが、残念ながら与党にとっては与しやすい野党であったようです。臨時国会においては一転、統一教会と自民党の関係を追及する一方で、維新をはじめとする野党各党と協力し、統一教会の被害者救済法など議員立法を通して政府に実現を迫るなどの一定の成果を挙げています。

昨年の衆議院選挙に向けて消費税ゼロを政権公約に入れるよう枝野代表(当時)に申し入れたところ、今、手の内を明らかにすると与党に真似されるとして、なかなか明快な回答を得られませんでした。しかし、大企業、富裕層寄りの自民党とは異なり、私たちは不条理に苦しむ人々の側に立つこと、大企業を支える中小零細企業を守ること、『ひとりひとりを幸せにする』ために子育てや教育などに力を入れることなど、目指すべき社会の違いは明らかです。生活に苦しむ人々の安心を作ることが、結果的には、より多く税金を払った方にもプラスになるような経済システムを作ることも重要。大企業の利益が上から滴り落ちるトリクルダウンではなく、生活の安心が需要を喚起し経済を押し上げる、そんな社会を作っていかなくてはなりません。

このような旗、つまり自民党政権の対立軸になるようなビジョンを示した上で、国民を巻き込み、他の野党の協力も得て政権構想、そして政策を示すべきとして、その方法について問題提起し、議論しました。ちょうど20人の参加者と白熱した議論になりました。結局新幹線の終電は逃してしまい、夜行バスで東京に戻ることになりました。




岸本周平知事候補の応援と、串柿の里で古民家を再建した夫婦との再会

2022年11月18日 20時42分44秒 | 政治
今日は政治活動における恩人であり、尊敬する先輩、岸本周平和歌山県知事候補の応援に入りました。夜行バスで朝7時過ぎに和歌山駅に到着。レンタカーで海南市、紀美野町、岩出市、紀の川市、さらにかつらぎ町をまわり、衆議院議員時代に私を応援してくださった方々に岸本知事の誕生に向けて支援をお願いしました。夜は岩出市での演説会に参加しました。

挨拶まわりをした方々は80歳を大きく超える方々も多かったのですが、皆さん元気でいらっしゃることに安堵しました。また、串柿の里として知られる四郷にも足を伸ばしましたが、2008年秋に平野博文元官房長官のお父様の案内で挨拶に伺ったことを未だに覚えている方もいて、和歌山の人情の厚さが身に沁みました。

四郷での嬉しい出来事はもうひとつ。江戸時代の古民家を手作業で修復し、石窯ピザと自然食や野草茶などの茅葺き茶屋『月空』を再開した岡さん夫妻と再会できたことです。堀越観音近くで古民家を改修した空間があまりにも素敵で、何度か通ったのですが、奥さんが体調を崩されたとのことで、前回行った時は廃業してしまっていました。とても残念に思いましたが、今回は新たな古民家の改修と、空間アートプロデューサーとして宿泊場所まで創作していて驚きました。手製の干し柿のお菓子を頂きながら、自然や伝統文化の中で生きるスローライフが生み出す可能性について語り合いました。

スーパー官僚と言われた超エリートでありながら、一貫して地を這う活動を続け、普通の人々の声を何より大切にする岸本さん。

「全国で活躍している起業家や投資家、文化人などの皆さんにアイデアを出してもらうプラットフォームをつくる。そこに、和歌山の若い経営者、女性、シニアの方々、NPO、学生など多様な皆さんの知恵を融合して躍動感あるプロジェクトをつくりたい」岸本さんのこんな政策は、岡さんのような方々もきっと勇気づけることでしょう。投票日は11月27日。是非、皆さんも応援してください!


























#岸本周平
#和歌山知事選挙
#串柿の里
#月空

村上市長選へー伝統を活かし未来を拓く、町おこしプロデューサー吉川美貴さんの挑戦

2022年11月03日 22時30分48秒 | 政治
新潟県村上市で、町家や雛人形など今ある資源を活かした町おこしで奇跡のような成果を生み出した友人の吉川美貴さん。来年6月の村上市長選挙に無所属での立候補を決意し、活動を始めました。美貴さんのご主人、吉川真嗣君は、私の早稲田大学時代からの親友で、城下町村上市が『近代化』によって全国どこにでもある金太郎あめのような街になることを、袋叩きに遭いながらも身体を張って止める挑戦を最初に始めた『観光カリスマ』でもあります。美貴さんは吉川君の活動の辣腕プロデューサー。そして、『まちづくりの非常識な教科書-35万円で10億円の経済効果を生んだメソッド』や『町家と人形さまの町おこし』などの著書を持つ高い発信力を持った研究者、文学者でもあります。

何度か訪ねた村上市ではお二人の温かいおもてなしを受けました。お二人が始めた『町家の人形さま巡り』によって町家の奥に眠っていた江戸時代の雛人形が多くの方々に感動を与え、行くたびに伝統的な造りのお店が増え、コンクリートの塀が黒塀に変わり、人形さまSLが走り…と町が大きく変化し、寒くて暗くて不便な、遅れた村上の象徴だった町屋が、実は近代化が遅れた故に残った宝だったことを皆さんが誇りに思うようになったことを感じます。そして、お二人のライフスタイル自体が、伝統的な手法での鮭の加工を営み、浪漫亭という古民家で暮らし、日頃から着物を着て…と、徹底して、伝統的な生活の知恵から学び実践する暮らしを送っています。

今、多くの町で地域の価値を再発見する試みが始まっています。間違いなくその先駆けのひとりが、吉川君、そして美貴さんです。お二人の新たな挑戦が、今度は何を生み出すのか。私もワクワクしています。


村上市の未来を拓く。吉川美貴さんへのメッセージ


映像は今日の会合に向けてお二人に送ったメッセージです。














アントニオ猪木さんの逝去を悼み、そばで見た闘魂外交の本質を改めて考える

2022年10月01日 22時59分41秒 | 政治
アントニオ猪木さんが逝去されました。難病と闘う、信じられないほど痩せた姿は本当にショックでしたが、絶対に回復すると信じていました。今、悲しみの底に沈んでいます。

私にとっては子どもの頃から絶対的なヒーローだった猪木さん。その猪木さんと北朝鮮、キルギス、そして2度のスリランカと4度にわたって海外での議員外交にご一緒させて頂くなど、人道問題や紛争解決をテーマに行動を共にできたことは本当に幸運でした。

実は今日は御嶽山に登っていました。岐阜県と長野県にご縁を頂いた人間として、8年前の噴火によって亡くなった方々を慰霊する思いもあり、急遽日帰り登山をしていました。山頂まであと5分あまりの場所で訃報を聞きました。山頂では猪木さんのご冥福をお祈りし、共に過ごした貴重な時間を振り返っていました。

議員外交をともにした中で見た人柄とエピソード、そして政治家アントニオ猪木の価値は何だったのか、改めて振り返ってみたいと思います。

子どもの頃から私はアントニオ猪木の大ファンであり、異種格闘技戦を次々に仕掛ける格闘家として、また、政治家としてイラクの人質救出に尽力するなどスケールの大きな生き方に大きな影響を受けました。中学を卒業したら新日本プロレスに入門して鍛えてもらおうと本気で考えていたほどです。

国会議員としてご一緒した印象は、燃える闘魂・アントニオ猪木のイメージとは異なり、徹底して平和主義で本当に心優しい人ということでした。

1.北朝鮮外交-拉致被害者を返しやすい環境作り

「そもそも猪木議員は何しに北朝鮮に行ってるんだ?」という批判の声も多く聞きました。

 プロレスラー・アントニオ猪木の師匠である力道山の娘がスポーツ大臣を務めていたこともあり、金日成主席が亡くなった時にはメーデースタジアムで延べ38万人を集めた平和の祭典を実施しました。その姿が北朝鮮では切手にもなっています。だからこそ猪木議員は対話の窓口であり続けていました。

私たちは核開発、レアアースなどの資源開発、スポーツ・文化交流などについて意見交換をしましたが、もっとも大きな関心のひとつはもちろん拉致問題を含む人道問題でした。一日も早い帰国を実現させるなど拉致問題解決の努力を求めるのは当然ですが、1959年に始まった帰国事業で北朝鮮に渡ったものの、現地で筆舌に尽くしがたい苦難を味わっている日本人、あるいは日本人配偶者やその子供たちの存在も決して忘れてはならないと考えていました。

従って、いかに北朝鮮側が拉致被害者を返しやすい環境を作るかを考える方が現実的と考え、拉致被害者と北朝鮮在留日本人の帰国とリンクさせるのが私たちの戦略でした。

猪木氏との訪朝では、姜錫柱(カン•ソクジュ)書記と3回にわたって意見交換をする機会を得ました。姜錫柱書記は元副首相で、その時点でも外交の責任者だった。金日成・カーター会談や、2002年に小泉首相が訪朝した際の金正日総書記との首脳会談に同席するなど金日成主席、金正日総書記、金正恩第一書記と3代の外交を支えてきた重鎮です。私たちは相手のメンツも立てながら、『人道的配慮によって』希望する日本人全体を対象に帰国を認めさせ、結果的にその中に拉致被害者も含まれるストーリーを描いていました。そのためには、徹底して信頼関係を構築する必要があります。政府としては言えないことを議員外交で伝えて可能性を探り、政府と協力して成果を引き出す戦略でした。

日本政府との連携、議員外交との役割分担についてはアントニオ猪木議員は予算委員会などで再三安倍総理に呼びかけていたが、安倍首相は極めて冷淡な反応だったことが残念でなりません。

日本政府の交渉窓口だった宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は党内序列では当時61番目。アントニオ猪木議員は政府の交渉窓口より遥かに力を持った外交担当者と交渉できる唯一の存在だからこそ、「猪木をもっと使ったらいいんだ!」との叫びが心に刺さりました。

湾岸戦争時、イラクでは多くの日本人が人質となりましたが、その際に当時のサダム・フセイン大統領と交渉し、費用も私費で賄って41人を救出したのは外務省でも時の政府でもなく、アントニオ猪木議員でした。

相手政府だけではなく、あらゆるルートを駆使して可能性を探るのが本来の外交の姿です。アントニオ猪木という稀有な存在を失ったこと、日本の外交の可能性を考えても残念でなりません。

2.キルギスーペレストロイカ・ボクサーとの再会

私は20代の頃、協栄ボクシングジムに通っていたことがあります。一緒に練習しながら旧ソ連出身のユーリ・アルバチャコフ、そしてオルズベック・ナザロフが世界チャンピオンに昇り詰める様子をそばで見ていましたが、彼らはアントニオ猪木議員が『ペレストロイカ・ボクサー』として招いたボクサーでした。ソ連が崩壊し、素晴らしい才能を持ったボクサーの活躍の機会がなくなってしまいましたが、彼らにチャンスを与えたのがアントニオ猪木議員でした。

2010年夏、10月に行われる選挙監視活動を効果的に行うためのリサーチでキルギスを訪問した時、私はオルズベック・ナザロフ氏に再会しました。彼はキルギス共和国初の世界チャンピオンとして国民的英雄でした。その彼が「日本に帰ったら是非、猪木さんにお礼の気持ちを伝えて欲しい。あの時チャンスをもらえなかったら今の私はなかった」と切実に訴えてきたのです。

その時は、アントニオ猪木氏と連絡を取る方法を見つけることはできなかったのですが、その後、何と同じ国会議員として議員外交のパートナーになったのでした。

様々な議員外交に取り組む中、意を決してオルズベック・ナザロフ氏のことを猪木議員に伝えたところ、「是非、行きましょう」と即答してくれました。タイミングを図っているうちに私は落選し、衆議院議員ではなくなってしまったのですが、2015年5月、私が実行委員長として第1回大会開催に奔走したキルギス・シルクロード国際マラソンの第4回大会に参加してくれたのでした。貴重なGW期間中、世界中から招待される中、すでに国会議員ではなくなっていた私の求めに応じて、首都ビシュケクからも遠く離れたイシククル湖畔まで来てくれたのは、まさに、人のつながりを大切にする猪木議員らしい判断と行動力だったと思います。

 「先生、一緒に議員外交の本を出しましょうよ」首都ビシュケクに戻った時、猪木議員は提案してくれました。「私が本を出せば必ず買う読者がいますから、私で良ければ少しでも先生の力になりますよ」

アントニオ猪木と共著を出せるなんて夢のような話です。私も『苦しみの中から立ち上がれ』などアントニオ猪木の著書のほとんど全てを持っていて、多くを学んだひとりです。企画書を一緒に考えたり、一緒に出版社を当たったりしてくれたのですが、この提案は未だに実現しないまま、天国に行ってしまいました。

猪木さん、安らかにお眠りください。猪木さんに薫陶を受けたひとりとして、仲間とともに、議員外交、民間外交の可能性を切り拓いていきたいと思います。本当にありがとうございました。

#アントニオ猪木
#闘魂外交














国葬で発した誤ったメッセージの検証

2022年09月30日 17時51分44秒 | 政治
やはり、国葬はやるべきではなかったと思います。

まず、政府が作成した映像は、安倍元総理を全人格的に肯定する内容になっていました。これが安倍ファンの集いや、国政報告会だったらいいでしょう。自民党葬であれば自由にやればいいのです。でも、税金を使って政府がこのような映像を作成し、国葬の場で流すべきではない。これでは、リーダーを称える独裁国家のPRビデオのように見えてしまいます。

菅元総理の弔辞が良かったという声も聞きます。確かに聞いている人々の心の琴線にふれるような言葉が展開します。構成もプロフェッショナルで、そこは大いに参考になります。しかし、決して言うべきではない言葉が、せっかくの弔辞を台無しにしてしまったと思います。

『天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか』という表現、全ての人の命は等しく価値があるものであり、全ての人の命は失ってはならないものです。公文書の改ざんを命じられ、自死に追い込まれた赤木さんの命も、統一教会によって家庭が崩壊し、自死に追い込まれた人の命も尊い。安倍元総理の命だけが特別失ってはならないものということはあり得ません。

『一歩後退すると、勢いを失う。前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしよう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました』

国民の反対の方が多く、また憲法に反するとされる法案を、国会の議論を途中で打ち切って、数の力で強行採決に次ぐ強行採決。安倍総理の判断が全て正しかったとは到底思えません。

また、これらの多くはアメリカの戦争に協力するための法律であり、平和構築や民主化支援、紛争仲介外交など、日本が独自に平和に貢献できる可能性は大きく狭まることになってしまいました。国際社会の代表者を前に一方的に正しかったと言い切ったことは大問題です。

また、民主的な選挙で選ばれたミャンマー政府をクーデターで転覆させ、人権蹂躙を続けるミャンマー国軍の代表者を招いたことは致命的な失敗でした。世界で抗議の声が上がっていて、私のもとにも大きな反発の声が届いています。

臨時国会では国葬について様々な角度から検証しなくてはならないと強く感じます。

ミャンマー国軍の正当性、人権蹂躙にお墨付きを与える国葬であってはならない

2022年09月26日 16時35分14秒 | 政治

岸田首相は安倍氏国葬の根拠を『民主主義を守り抜く決意を示すこと』と言います。選挙で選ばれた政権をクーデターで転覆させ、市民を虐殺、弾圧し、民主主義を破壊し続けるミャンマー国軍。その駐日大使を招待することに多くのミャンマー人から抗議の声が届いています。

国葬への招待はミャンマー国軍の正当性、さらに人権蹂躙にお墨付きを与えることになります。国葬をさらに蔑める暴挙です。G7では唯一の首脳だったカナダのトルドー首相も欠席。ハリケーン対応と言っていますが、私はミャンマーの国軍の代表を招待したことも欠席の要因ではないかと見ています。

6000人の出席を目指していた国葬は、元国会議員など当初予定していなかった人々にも招待状を送り水増しを図ったにもかかわらず、結局出席者は4300人とのことです。これでは実質は『サクラが見る会』になりそうですね。

政治権力が生み出す不条理を明らかにし、その構造を変えることが安倍元総理への弔意の示し方

2022年09月16日 17時09分27秒 | 政治

9月13日は安倍晋三元総理の国葬の出欠連絡の締め切り日だったようです。私のところには案内は届いていません。

私が繰り返し、国葬に反対する意見を示していることが理由ではありません。おそらく、欠席者が相次ぎ、急遽元国会議員を全員招待することになったものの、現住所を短期間に正確に把握するだけの事務的なキャパシティーがなく、案内状は迷子になっているのでは?と思います。行政が政治に振り回されている様子が伝わります。

私は国葬には断固反対ですが、故人を悼み、偲ぶ気持ちの表現の仕方は、あくまでも個人の価値観によって判断すべきです。立憲民主党が議員の出席は本人の判断に任せたこと、そして、泉代表をはじめとする執行部は欠席としたのは妥当な判断だったと思います。しかし、あまりにも判断が遅かったのは残念でした。

安倍元総理とは衆議院予算委員会などで何度か議論をしましたが、最初の議論は『アメリカからの自立』がテーマでした。自民党のタカ派と言われる安倍総理が、アメリカに対しては追従を続けることへの疑問が質問の要諦でした。その後、安倍元総理が銃撃されて亡くなったこと、そして国葬をめぐる政府の稚拙な対応がきっかけで、統一教会と自民党の関係があきらかになり、保守、タカ派を自認する議員の本質が明らかになってきたように思います。安倍総理自身が、霊感商法など詐欺的手法で日本人からお金を集め多くの家庭を不幸に追いやった反日カルト教団の広告塔であり、自民党議員への教団の選挙協力を差配する立場だったことは、彼の政治的主張と完全に矛盾します。『保守』は権力を維持するための方便に過ぎなかったのではないかと感じています。

萩生田光一政調会長、下村博文元政調会長、山際大志郎経済再生大臣など自民党の中核議員は旧統一教会との関係を当初は否定していましたが、選挙協力を通して旧統一教会と深い関係にあることが、次第に明らかになってきました。世論の圧倒的な関心が、安倍政権の元で自由な報道が制約されていたマスコミを動かし、事実を明らかにし、社会を動かしていることを感じます。

東京地検特捜部は受託収賄の疑いで東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の元理事、高橋治之容疑者(78)を逮捕しました。過去に五輪の招致に関わってきた人は、多くが逮捕されているとして誘致への関与を断った高橋容疑者に対し、安倍元総理は「大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします」と約束したとのことです。安倍政権の元、司法が明らかに政権寄りの不可解な判断をしたことが数多くありました。これまでの政治権力の濫用の実態についても明らかにすべきです。

本来は権力を監視し、権力と闘うのがジャーナリズム、そして司法の使命です。国民の後押しを得ている今こそ、本来の役割を全うして欲しいと思います。

銃弾に倒れた安倍元総理を思う時、今も続くウクライナの戦乱で奪われる命や、様々な社会の不条理によって奪われる命と同じく、命の価値に変わりはなく、理不尽に奪われてもいい命はないことを改めて感じます。一方で、政治権力が生み出す不条理を徹底的に追及し、変えるべきことは変える機会にしなければと強く感じています。国葬への出席は関係なく、それが安倍総理に対する何よりの弔意の示し方だと思います。





国葬への首脳出席率を高めるためのODA(政府開発援助)であってはならない

2022年09月04日 09時51分47秒 | 政治
 昨日は小森忠良岐阜市議会議員のご自宅を訪ね、統一教会や国葬問題がもたらす今後の政局について意見交換をしました。

 今回、安倍氏の国葬には国連常任理事国のトップは誰も出席しません。G7のトップもカナダのトルドー首相だけです。弔問外交ができることを国葬の根拠のひとつにしていますので、面目がこれでは立ちません。今、全体の首脳出席率を高めるため、アフリカやアジアの発展途上国のトップの出席を求め、ODA(政府開発援)のバラマキなどとセットで必死で出席要請をしているはずです。岸田首相は8月27日にアフリカに今後3年間で4兆1000億を投資すると表明しましたが、出席率を高めるための相当水増しされた可能性があると私は見ています。国葬にかかる費用は実施費用や警備費だけではありません。この中身や成果は国会での追及を中心に、今後も厳しく見ていかなくてはなりません。国会議員にも提案していきます。

 昨年脳出血で倒れ、長く闘病生活を送った小森さん。一人で歩けるようになり、金融の専門家としての鋭い視点もそのままでした。嬉しい限りです。



人生の選択に大きな影響を受けたミハイル・ゴルバチョフ氏の逝去に思う

2022年08月31日 15時35分52秒 | 政治
ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領が亡くなりました。私の人生にもっとも影響を与えた政治家のひとりです。

私が子どもの頃、隣国の大きな存在だったソビエト連邦。怖くて、冷たくて不気味な存在と思っていた人が多かったことでしょう。また『嫌いな国』のナンバー1であったと思いますが、だからこそ、私は興味を持ちました。高校生の頃、ソビエト共産党が支配するソ連と、そこに住む普通の人々は違うのではないかと思うようになり、ソ連関係の本を読み漁るようになり、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などのロシア文学を片っ端から読みました。ドラマティックで魂に響くストーリーに心奪われ、勉強の時間はほぼ読書に捧げたので成績は悲惨なことになりましたが、自分の考え方、生き方の核になる部分を育んでくれた読書体験だったと思います。

大学生になった時、そんな私の目の前に登場したのがゴルバチョフ氏でした。ソ連共産党のリーダーに上り詰めるまで、改革の意志は固く心に秘め、しかし、ソ連の体制は壮大なペテンであり、持続不可能であることを見抜いて、トップに立った時からペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)などを進めていきました。本当の勇気が必要なことだったと思います。それまでのソ連の指導者に見られなかった笑顔、また、理想を語る言葉の明快さにも魅了されました。

ゴルバチョフ氏の改革が、東西冷戦の終結、そしてソ連と東欧諸国の体制の崩壊へとつながって行く過程も、真に心躍るものでした。その頃の私は大学を卒業してキヤノン株式会社で複写機輸出部にいたのですが、希望して担当していたのが、ソ連東欧や中国市場でした。

1989年、天安門事件や、ベルリンの壁の崩壊など大きく歴史が動きます。翌年東西ドイツが統一され、さらにソ連が崩壊。自由、そして民主主義を求める人々のすさまじい熱量を感じ、そんな人々の鼓動を感じたい、できることなら力になりたい!と思う気持ちが私の心に湧き上がりました。そして3年後、国連が史上初めて一国の統治を暫定的に担い、自由で公正な選挙の実施を担うミッションがカンボジアで実施されることを知ったとき、何が何でも行きたい、自分の人生を懸けてこの仕事をしたいと思ったのは自然な思いでした。

昨日亡くなった京セラの稲盛和夫会長や、サッカー旧ユーゴスラビア代表監督だったイビチャ・オシム氏など、直接薫陶を受けた偉大な人物が今年相次いで世を去ってしまったこと、とても寂しく思います。民主化を進めると思われたロシアはウクライナに侵攻。ゴルバチョフ氏の理想はまだ道半ばです。国際的には大きな名声を得ているゴルバチョフ氏は、ソ連を崩壊させ、社会の混乱、さらに現在の紛争の要因を作った人物として、旧ソ連の国々、特にロシアでは評価していない人が大半のようです。しかし、不可能と思われた大きな壁に怯むことなく立ち向かい、世界史を大きく変える役割を果たしたゴルバチョフ氏の政治哲学ー対話と相互協調、そして政治思考の非軍事化には大きな影響を受けました。心から哀悼の祈りを捧げたいと思います。

*写真は旧ソ連のキルギス共和国で選挙監視をした時に代表して投票所で挨拶する機会があり、上記のような思いをお話ししました。ロシアでの活動の写真が見つからなかったこともあるのですが、旧ソ連の15の共和国のひとつでの民主的な選挙の実現は、まさにゴルバチョフ氏の功績だと思います。

*二つ目の写真は、サンクトブルグで通訳をしてくれた女性がロシア文学好きで、ドストエフスキーの『罪と罰』のゆかりの場所、つまりドストエフスキーが普段生活していたエリアで、主人公のラスコーリニコフが様々な行動をした場所として作品に描かれている場所を案内してくれました。右手奥の壁の下の隙間が、彼が老婆を殺した斧を埋めた場所とされているそうです。









カンボジアの未来について三上大使と、旧友と熱く語る

2022年08月27日 13時28分39秒 | 政治
三上正裕大使を訪問。大使公邸で『中田厚仁学校』訪問の報告をするとともに、来年のカンボジア総選挙も視野に入れた日本の民主化支援の在り方について意見交換をしました。1992年以降、カンボジアの選挙に関わってきましたが、有権者登録のプロセスに不正が入る余地が大きいことが毎回深刻な問題になっていました。長年カンボジアの民主化に取り組んできた問題意識を踏まえ、国会議員として日本の支援として有権者登録のプロセスを電子化するために奔走し、実現の道筋をつけることができました。一方で、カンボジアの民主主義は、2018年の総選挙の前に『国家転覆を企てた』として野党第一党を解党させる暴挙によって与党人民党が全ての議席を独占する状況であり、民主主義は後退していると言わざるを得ません。カンボジアの平和と安定に貢献したフンセン首相の功績は認めつつ、長男のフン・マネット将軍が後継指名された現実を踏まえ、日本として、民主主義陣営として、未来を見据えてどのような関係を構築していくのか意見交換しました。また、日本として国民IDの電子化に寄与したことを、カンボジアの教育や医療の向上にどのようにつなげていくのか、是非、政府としても具体的に検討して欲しいと提案をしました。国会での質疑を通して具体案を明らかにしていきたいと思います。

今回は、旧友と再会する嬉しいひとときもありました。小市琢磨さんは昨年脳出血で倒れ、まさに九死に一生を得る経験をしましたが、すっかり元気になり、今回の本の出版にも全面的に協力を頂きました。また、30年前にラタナキリ州で通訳として活躍してくれたソバーンは、災害対策のエキスパートとして活躍しています。インターバンドの仲間とともに旧交を温めることができ、いつものようにカンボジアの未来についても熱く語り合うことができ、私にとっての心の糧になりました。