阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

真央VSヨナ-悔しい敗戦こそ最高の贈り物

2010年02月28日 02時53分03秒 | スポーツ
 今日は一日中、地元で会合でした。どこの場所でも昨日のフィギュアスケートの話題で持ち切りでした。ま、私がいるせいかもしれませんが、19歳のふたりの対決に多くの人が心を動かされたのだと思います。

 私は正直、昨日の午後は茫然自失でしたが、スポーツは真剣勝負だからこそ本当に多くのことを教えてくれるように思います。

 真央ちゃん、本当に本当に残念でしたが、本来は一番難しい技に挑戦し、決めた選手が最高の評価を受けるべきだと思います。でも、現代の採点方法に合わせて構成や演出を考え、余裕を持って演じきったキム・ヨナ選手が金メダル。スポーツでありアートでもあるフィギィアスケートだけに何だかとても複雑でした。

 私はリスクを負ってでもチャレンジする生き方の方が好きですけど、勝負はまた別。キム・ヨナ選手の精神力と大人の表現力も見事としか言い様がありませんね。国を挙げて勝つための戦略・準備を後押しし続けた韓国の執着心とスポーツ政策に負けた気もします。選挙にも通じる戦略論としても感じることが多かったです。


 私はキム・ヨナ選手も天才なら真央ちゃんはその上を行く素質の持ち主だと思います。しかし、自分のできること、できないことを見極めて自分の強みを最大化する強さがヨナ選手、そしておそらくチーム・ヨナにはあったのですね。その点、チーム真央は、純粋に高みを求めた真央ちゃんをトップに導く哲学、そして戦略に欠けていたように思います。本当にもったいない。でも韓国という国家は、日本、中国、ロシアなどの大国に囲まれ、北朝鮮を抱えているわけですから、生半可な戦略ではサバイバルできません。そんな政治状況から学んだ厳しさ、したたかさがチーム・ヨナにはあったように思います。「鐘」の選曲も、妖艶な大人っぽさを演じるヨナ選手を意識していたと思うけど、真央ちゃんは真央ちゃんらしく透明感のある明るい曲で勝負して欲しかった。しかし、長いスパンでみると、今回の選曲、そして敗戦が、彼女をとてつもない高みに引き上げる可能性があるとも思います。

 悔しい敗戦こそ最高の贈り物なのです。きっと!


 リンクの外での二人の発言や表情も印象的でした。

 キム・ヨナ選手の強さを予感させたのは、彼女の下記のような言葉です。

 「ずっとオリンピックを観てきたけれど、最高と言われる選手がオリンピックで最高の結果を出すとは限らない。だから自分の演技に集中しますが、結果が夢見ていたものと違っても受け入れる準備はできている」

 そして、昨日は涙が止まらなかった真央ちゃんが、今日は清々しい笑顔を見せていたことにも救われました。全力を尽くした爽快感があったのでしょうね。ソチ・オリンピックの時は23歳。4年の長さは衆議院選挙で落選した私には理解できますが、新たな真央レジェンドを一緒につくっていきたいものです。

 オリンピックはゴールであると同時に出発点。人生最高の舞台ではあっても、この後も人生は長く続きます。あの時があったから今がある! 今回はいつかそんなふうに思える舞台になれば…と、強く感じました。


 写真:ラオス議連の設立総会にて(本文には全く関係ありません)


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予算委員会で伝えたこと、伝えたかったこと

2010年02月26日 12時16分33秒 | 政治

 今日は女子フィギュアのフリー演技ですね。食事が喉を通らないぐらい緊張しています。オリンピックという最高の舞台でベストの演技をして、何としても浅田真央選手に勝ってもらいたいと、今日もその時間だけは事務所のスタッフ&インターン全員で熱烈応援します。浅田真央VSキム・ヨナ。ふたりの19歳による史上最高のレベルでの金メダル争いをライブで観れること、幸せに思います。

 昨日の質疑は、グローバル経済の負の側面がもたらす部分、そして人々に対し、政治に何ができるのか?が、大きなテーマでした。過疎が進む日本の農村地域、そして、世界から注目されることもないバングラデシュの先住民族への人権侵害に対し、それぞれ日本政府に何ができるのか、政権交代を経て生まれた新しい政権の意志と政策を問いました。

 できる限り自分の言葉で訴えたいと思ったので、ペーパーには頼らずに質問しようと思いました。落ち着いて、答弁者の目を見て質疑をすることができたと思います。エキサイティングな時間でした。

 さて、私の質問内容を簡単に紹介したいと思います。

 
 1.果樹農業に関する新政権のビジョン

 農業関連予算において「米の戸別所得補償に関するモデル対策」が設置されるなど、米作農家への支援が充実する半面、果樹農業への政策的支援が明確に示されていないと感じている方が多いようです。果樹農業地域は、多くが中山間地域の傾斜地であり、機械化は遅れている。後継者不足、高齢化によって過疎化が進む地域でもあります。農村はバイオマスなど自然エネルギーの消費地から供給起点にしていく可能性もあると思いますが、また、農村風景や生活文化を味わっていただく農村観光を開発できる可能性もありますが、それらの基盤として、まず果樹農業が存続、活性化することが不可欠です。政府としてどのようなビジョンで果樹農業を発展させるのか質問しました。

 その上で、下記の点について具体的に聞きました。

 2.果物の販路拡大のための輸出戦略

 3.特に中国に対する輸出品目増加戦略

 4.中国向け輸出を増やす上での検疫対策

 5.国際競争力をつける上での果樹の植え換え支援策について

 6.果物の国内需要を増やすための「食育」について


 このブログでも何度も書いたバングラデシュについても質問しました。チッタゴン丘陵地帯における先住民とベンガル人の紛争には、将来紛争の引き金要因になる要因があります。世界の片隅のもっとも弱い存在としての先住民族、少数民族の人権問題に対しても配慮と関心、問題解決への意思を示すべきではないでしょうか?

 今月19日から、私が訪れたチッタゴン丘陵地帯ではベンガル人と先住民族の間で大規模な衝突が再発しています。日本はバングラデシュ政府の最大のODA拠出国ですから、このような問題解決の意志を政府に強く求める権利があるはずです。


 7.この点についてはどのような把握をしているか、また、情報収集の手段としてどのようなルートを持っているのか、

 8.ODA大綱に基づき、人権配慮の視点で「調査・報告を要求する。必要なら行動する」という強いメッセージを送るべきだと思うが、如何か?

 このような質問を行いました。


 政治の目的は日本中の、いや世界中の「弱い立場」の方々にいかに希望を与えるか、ということに尽きると思っています。そんな立場の方々に勇気を与えるような政策の実現が私の使命と任じ、今後も質問をしたいと思います。

 まもなく運命の瞬間ですね。心臓が止まりそうなぐらいドキドキします!

 (質問の様子は予算委員会の第三分科会の中で見て頂けます)

 http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php


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予算委員会分科会で初めての質問

2010年02月25日 21時57分46秒 | 政治
 たった今、予算委員会での質問を終えました。私にとっては初めての国会での質問だったので、特別な感慨がありました。

 果樹農業の活性化、特に輸出の促進について。そしてバングラデシュを例に日本政府の新しい外交姿勢について質問をしました。詳しくは明日、報告します。

 これから少し取材を受けます。

 質問の様子は予算委員会の第三分科会の中で見て頂けると思います。

 http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php


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外務委員会は延期。予算委員会で質問します。

2010年02月24日 00時26分56秒 | 政治
 外務委員会が延期になり、岡田外務大臣への代表質問は来週になりそうです。

 一方、予算委員会の分科会で25日か26日に質問することになり、今日は途中から質問内容を切り替えて準備していました。こちらは果樹農業の振興や、地場産業の活性化など、和歌山を元気にするための政策を中心に質問する予定です。

 最近は議員会館で深夜まで過ごすことが習慣になってしまいました。暖房がないので、この時間になるとすっかり冷え込みます。明日は早いので少し筋トレをして帰りましょう!


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18年ぶりに岡田大臣と-外務委員会での代表質問

2010年02月23日 00時09分16秒 | 政治
 2月24日、外務委員会で代表質問をさせて頂くことになりました。臨時国会では、私たち与党は外務委員会では一般質疑を行う機会もありませんでした。思っていたより国会で質問する機会は遠いのかなと思っていたら、何と初めての国会質問が岡田外務大臣への代表質問という大舞台になりました。

 岡田外務大臣と私は不思議な縁で結ばれているように思います。18年前、国連ボランティアだった私は、「日本の国際貢献の在り方」について、視察でカンボジアを訪れていた岡田克也議員と議論したことがあります。当時は自民党の新人議員でした。そして私の隣にいたのは中田厚仁さんでした。(彼は、翌年の4月8日、任務遂行中に射殺されました)私たちは、現場の声を伝えたい一心でした。形通りの「面会」では、満足できなかったため、私が手紙を書き、もう一度時間を取ってくれるようにお願いしたところ、岡田大臣など数人は忙しい中、時間を作り応えてくれたのでした。携帯などない時代でしたから、こちらが「指定」した時間に予定をキャンセルして来て下さった岡田大臣の誠意には感謝する他ありません。

 全く同じテーマで、18年の時を超えて国会で議論できるのですから、この貴重な機会の価値を最大化しなくてはなりません。

 また、予算委員会の分科会でも質問できる可能性が高く、外交に加え、農業、そして地域産業の活性化について質問準備をしているところです。

 そんなわけで、先週の木曜日から、質疑に備えて役所へのヒアリングを続けています。外務省や防衛省、内閣府、さらに経済産業省、消費者庁、農林水産省などの担当者とディスカッションをしています。外務省は複数の部署に来て頂いたので、もう、延べ10以上の部署からヒアリングをしました。もちろん、NGOや地元の団体や事業者の声も聞いています。国会で質問することの重さ、責任を実感します。今日はヒューマンライツウォッチの土井香苗さんに人権についてのヒアリングをしました。私は常々人権を日本外交の柱のひとつにすべきと思っているので、そのためにどうするか、助言を頂きつつ作戦会議をしました。ふたりの意見交換の様子は、土井さんを取材しているNHKがずっと撮影していました。(5月2日に放送予定だそうです)

 http://hrw.asablo.jp/blog/2010/02/22/4898652(ヒューマンライツウォッチ・ブログ)


 外務委員会の様子は衆議院のインターネット放送で見て頂くことができるので、是非、アクセスください。

 http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php(衆議院テレビ放送)

 
 24日の予定ですが、時間が決まればこのブログ上でもお知らせします。


 写真:岡田外務大臣と18年前に(カンボジアで撮ったものです。白いポロシャツが私、岡田大臣はその左側、黒いジャケットを着た方です。前にも紹介した写真ですが・・・)


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カレン民族難民のビルマへの送還問題

2010年02月22日 23時38分25秒 | 政治
 タイのビルマ国境で聞きとり調査を行っている秋元由紀さんからのレポートが再び届きました。忙しい中、寝る時間も惜しんで現地の様子を届けてくださる秋元さんには本当に感謝です。

 カレン民族難民のビルマへの送還問題(1)

 タイのビルマ(ミャンマー)国境沿いには、前回紹介したメラ難民キャンプを始めとした公式のキャンプのほかに、非公式の避難所のようなキャンプもあります。今回の調査訪問では、そのような非公式キャンプの一つにも入って、住民から話を聞いてきました(注)。

 非公式キャンプにも国際NGOなどから食糧などの援助が一応届き、学校もあります。しかし、非公式キャンプはあくまでも「一時的な避難所である」、つまり、難民をそこにいつまでも住まわせておくつもりはない、という位置づけをタイ当局がしていることもあり、援助の充実度は公式の難民キャンプよりも低く、そこでの生活も、公式の難民キャンプでのものよりさらに不安定で、それが住民の不安につながっています。

 今回、私たちが非公式キャンプに入ろうとしたのには、特別の理由がありました。数週間前から、私たちが入った非公式キャンプ(現地では「ノンブア・キャンプ」と呼ばれています)では、住民が(キャンプを直接管轄する)タイ軍から、「もうこのキャンプは閉鎖する。早くビルマ側に帰れ。帰らないと入管警察を呼んで逮捕させるぞ」などと強い圧力をかけられていたからです。この圧力のかけ方は相当だったようで、私たちも難民から以下のような話を聞きました。

・「自主的にビルマ側に戻らなければ、トラックにのせて連れて行くぞ」と脅された。(タイ軍兵士が)ピストルを持ってくることもある。怖い声を出す。(キャンプ内の学校の先生、男性)

・タイ軍はいつも昼間に来るので、対応するために授業を中断しなければならない。(同上)

・タイ軍が毎日のように「帰れ」と言いにくるが、家族を支えることもできないしどうしろというのか。(昨年6月、地雷を踏んで両脚を失い、まだ傷口が完治せず、妻と5人の子どもを抱える男性、35才)

・(キャンプのある)土地の所有者が「土地を貸すのは6か月の約束だった。これ以上は貸せない、出て行ってほしいと言っている」、とタイ軍に言われた。(女性、40才)

 このほか、話を聞いた人は皆、一日おきくらいにタイ軍が「帰れ」と言って回っていたと話していました。また、キャンプを閉じる意思を明確に示すためか、タイ軍は一部の家屋の取り壊しを始め、キャンプ内の学校の壁も取り払ってしまったとのこと。実際、骨組みだけになった家や、壁のない学校の建物を私も見てきました。

 しかし難民はそう言われても、帰る先がない。そもそも安心して生活ができる場所に帰れる状況なのだったら、タイ軍に言われるまでもなく帰っていたでしょう。ノンブア・キャンプに住んでいる人たちは皆カレン民族で、元々は対岸のビルマ側にあった国内避難民キャンプに住んでいましたが、昨年6月にこの国内避難民キャンプが(ビルマ国軍と同盟している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)からの砲撃を受けたため、川を渡ってタイ側に避難してきました。タイに渡って以来、ビルマ側にある元いたキャンプの周りには地雷がたくさん埋設され、毎月のように地雷による死傷者が出るようになっていました。このため、カレン民族の支援団体や国際NGOなどからタイ政府に対し、難民を無理に送還をしないよう求める声が高まっていたところでした(下記参照)。

【参考】
2010年2月2日、カレン女性機構(KWO)は、タイ政府にカレン民族難民の強制送還の中止を求める緊急要請書を発表。要請書の日本語訳はこちら。
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=503

 それでも「帰れ」との圧力がかかり続け、私たちがキャンプに入る直前の2月5日には、とうとう女性や子どもばかりの3家族が川を渡って「帰国」。しかし数日後にタイ側に戻ってくるという事件がありました。

 私たちはこの3家族のうちの2家族に会って、ビルマ側に渡ったときの状況や、なぜタイ側に戻ってきたのか、直接聞くことができました。また、ノンブア・キャンプにも入って、キャンプの様子を見、住民から生活の様子について話を聞いてきました。<続く>

(注)ここでは詳しい理由は省きますが、厳密には、メラなどの公式キャンプも正式名称は「難民キャンプ」ではなく、「一時避難所」です。


【背景】

カレン女性機構(KWO)
1949年から活動を始めた。タイ・ビルマ国境のにいる難民と、ビルマ国内にいる避難民を支援する。また、女性の人権に対する認識を高め、女性の政治プロセスへの参加を促進するため、識字率向上や職業訓練、リーダーシップ教育も行っている。
http://www.karenwomen.org

カレン民族難民のビルマへの送還問題(2)

<前回からの続き>

 ノンブア・キャンプはビルマ・タイ国境を流れる川沿いの村の一角にあります。川幅は狭いし、そんなに深くもないので、村からは対岸(ビルマ側)がすぐそばに見えます。

 調査中に何度か、大きな破裂音のような爆発音のようなのも何度か聞こえてびっくりしました。初めて聞いたとき、銃声や砲撃とは異なる音なので、案内してくれた人の方を向くとすぐ、「あれは地雷が爆発する音だ」と。必ずしも誰かが踏んだわけではないのですが、あまりに音が近いのもあり、ぞっとしました。キャンプ内には、地雷による負傷者も数人いて、そのうち1人から詳しい話を聞きました。

・2009年6月の早朝、住んでいた村の近くで地雷を踏んだ。野菜を摘んでいるところだった。幸い一緒にいた友人2人が運んでくれ、その日のうちに(タイの)メーソットの病院に行けた。

・両脚を切断(右脚はひざから上、左脚はひざから下)。インタビュー時、まだ痛みとかゆみがあるとのこと。義足をもらったが、痛くてつけられないとのこと。

・入院や通院をしている間に、妻と、5人の子どもがノンブア・キャンプに入ったので、自分も4か月前に合流した。しかし自分は難民として登録されていないので、食糧など援助物資の配給が受けられない。

・ビルマに住んでいた頃、ビルマ軍に頻繁に無償で荷物運搬(ポーター)をさせられた。荷物は重く、食べ物の支給はないか、あってもとても少ない。長いときは一週間も拘束され、ビルマ軍と一緒に歩かされた。

・同い年のいとこが2009年4月に地雷を踏んで、亡くなった。

・国際社会に伝えたいこと: 今は家族を養うことができないのがつらい。子どもが学校でおやつを買うお金もやれないのが情けない。2本の脚があった頃にはできたことが今はできない。ビルマにいた頃も、今も、何かに追われてばかりいる。これが僕の人生であるようだ。

 切断したところを無意識にかしきりに触りながら話をするこの男性からは、働き盛りに両脚を失った無念さと、先がまったく見えないことへの不安がとても強く伝わってきました。

 さて2月5日に起きた、カレン民族難民のビルマ側への「送還」あるいは「帰国」ですが、実際に帰国した難民の話や、現地の事情に詳しい援助団体(カレン女性機構、カレン人権グループ、タイ・ビルマ国境支援協会など)の話を総合すると、次のような経緯だったようです。

 それまでの数週間の間、ノンブア・キャンプに住む難民に対し、タイ軍が「ビルマ側に帰れ」と強い圧力をかけていたことは前回のレポートで詳しく書きました。2月5日には、3家族の10人あまりが車でキャンプから国境の川まで連れて行かれ、ボートで川を渡ってビルマ側に入りました。このとき、国際NGOなどが懸念していたような、暴力を振るわれたり、(力ずくでボートに乗せられたなど)物理的に強制されたという事実はなかったようです。

 タイ軍は、あくまでも難民が自主的に帰国した、という演出をしたかったようです。「帰国」したうちの一人(女性、40才)はこう話しました。

・(ビルマ側には)地雷がたくさんあるので帰りたくなかった。しかしタイ軍兵士の顔が怖かった。あまりにも「帰れ」「帰れ」と言われるので耐え切れなくなった。

・ビルマ側に渡る直前、タイ軍にインタビューされ、その模様をビデオで撮影された。ビルマ側に自主的に戻るのか、と質問されて、「ちがう」と答えたら、「その答えではだめだ」と言われた。

 私たちの調査では、ノンブア・キャンプに住む数百人の中からなぜこの3家族が選ばれたのか、最後までわかりませんでした。限られた情報の中で推察されるのは、全員が女性か子どもで、「ノン・ルフールマン」などの保護原則のことや、送還に反対している国際NGOの存在も知らないので、強い圧力をかけられて言い返す、圧力をはねかえす力がなかったのが要因となったかもしれないことです。

 渡った先には(ビルマ国軍と同盟し、現在その地域を支配している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)が待っていて、3家族はその後数日間、DKBAの監視下で過ごしました。4日後、今度は突然DKBAにタイ側に戻るように言われ、タイ側に戻ってきたとのことです。この一見おかしな事の運びの裏には、現地の複雑な利害関係が働いているのでしょう。

 ビルマ側で過ごした数日間について、上記の女性は次のように語りました。

・(集落の)学校だった建物で寝泊りした。地雷が怖くて外を歩き回れなかった。学校の周りの家屋にDKBA兵士が2人ずつ泊まり、常に監視されていた。

・夜は、DKBA兵士に乱暴されるかもしれないと思って怖くて眠れなかった。

 カレン女性機構(KWO)の発表では、「3家族はビルマ側で身の危険を感じ、タイ側に戻った」とされていましたが、実際には(当然恐怖も感じていたが)常にDKBAに監視され、タイ側に戻りたくても戻れない状態にあり、最終的には何らかの事情でDKBAにタイ側に送り返された、ということのようです。

 タイ側に戻ってきた後も、生活は楽ではありません。公式記録上はノンブア・キャンプを出たことになっている(難民としての登録が抹消されている)ので、キャンプには戻れず、国際NGOなどが支給する食料などの配給が受けられないのです。タイ当局に見つかれば逮捕されるかもしれません。3家族は、キャンプの外の知人の家などに身を寄せ、タイ軍に見つからないようにしているとのことでした。

 ノンブア・キャンプを訪れた後、メーソットで、現地の状況を監視するカレン女性機構(KWO)やカレン人権グループ(KHRG)にも会って話を聞きました。両団体は、「難民がビルマ側に帰りたいと思っているのではなく、タイ軍の方が、難民にキャンプを出たいと思わせるような(居心地の悪い)状況を作り出している」とし、日本政府を含む国際社会やメディアに対し、この問題への注目を続けてほしいと話していました。また、「ビルマ側への送還を行う場合には、難民本人の意見を取り入れ、国際的な基準に沿って行うことが必要」というもっともな指摘もしていました。

 タイ当局が難民をビルマ側に戻そうとしている背景には、タイが既に十数万人ものビルマ難民を受け入れ、相当な負担を負っているという事情もあります。従って、タイ側の負担を減らすことも、最終的には難民への圧力を軽減することにつながるでしょう。日本は今年から、メラ難民キャンプに住む難民を受け入れることが決まっていますが、この受け入れを継続・拡大することも助けになると思います。また、状況が許すようになったらですが、ビルマ側での地雷除去を助けることも視野に入れておいてほしいと思います。

 ノンブア・キャンプでの調査を通じて、力のある利害関係者の思惑に力のない難民が振り回されていることへの挫折感と、他方で、現地の状況に国際NGOが都合の良い解釈を加えて世界に発信してしまうことの怖さとを、改めて感じました。この怖さをよくふまえて、これからも、自由でない人たちの代わりに声を上げることにつながる調査・報告活動をしていきたいと思う次第です。


【参考】

カレン人権グループ(KHRG)

1992年に設立。タイ・ビルマ国境やビルマ国内で、カレン州での強制労働、農村破壊、強制移住、拷問、収奪、レイプ等の人権侵害を調査・記録する活動を行い、ウェブサイトなどを通じて世界に発信している。
http://www.khrg.org/

カレン民族難民のビルマへの送還についてのページ(難民へのインタビュー記録あり)(英語)
http://khrg.org/khrg2010/khrg10b4.html


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タイ国境からのビルマ難民レポートⅡ

2010年02月17日 23時55分13秒 | 政治

 今日はラオス共産党の青年幹部、そして、インドネシアの国会議員と交流する機会がありました。インドネシアでは、ガジャマダ大学の大学院で教えたり、スマトラ島・アチェの津波被災地で救援活動、紛争地域であるマルク諸島で平和構築活動を行った経験があります。マルクやアチェ選出議員も参加されていて、話が弾みました。

 タイのビルマ(ミャンマー)難民キャンプで聞きとり調査を行っている秋元由紀さんからの現地レポートが届きました。是非、お読みください。


 タイのメーソット(メソト)という町から近い、メラ難民キャンプに行ってきました。比較的最近、同キャンプに到着した人たちに、どのような事情でタイに来たのか、話を聞くことができました。

 前回、書きました通り、国境の向こう側、ビルマ(ミャンマー)東部地域は、少数民族の武装勢力と、ビルマ国軍の勢力とが対立する紛争地域です。メラキャンプにいる人の多くはカレン民族で、ビルマ軍勢力による攻撃や人権侵害を逃れてきました。この紛争地域で調査活動をするのは容易ではないので、ビルマ情報ネットワークを始めとした外部の団体などがこの地域での人権侵害状況を調べるには、ビルマ側からタイ側に渡ってきた人たちから話を聞くことが、有効な手段のひとつとなっています。

 今回の聞き取り調査(インタビュー)でも、衝撃的な証言がいくつも出てきました。一部をご紹介します。なお、証言内容(特に出来事の日時や、人の年齢、距離などの数字)をなるべく正確に記録するには、本来は何度か聞き取りを繰り返して確認を重ねる作業が必要なのですが、今日のレポートではひとまず、今回聞いた通りのことを書きます。また、実際には名前や出身の村なども聞いていますが、ここでは省きます。

メラ難民キャンプでのインタビュー

その1~カレン民族の男性(80代)

・義理の息子(娘の一人の夫)がビルマ軍に撃たれて死亡。

・住んでいた村が焼き討ちにあい、家が燃やされたことが2回ある。

・ビルマ軍兵士にひどく殴られ、しばらく片目が見えなくなったこともあった。

その2~カレン民族の男性(40代)

・子どものとき、両親がビルマ軍に撃たれて死に、孤児となった。

・結婚して子どもが1人できたが、妻と子どもがビルマ軍に撃たれて死んだ。

・今年の1月にメラキャンプに来たが、難民としての登録ができていないので食糧の配給が受けられない。布団も服もまだない。再婚した妻との間に9人の子どもがいるが、食べ物がないので、キャンプ内の知り合いの家などに行って食べさせてもらっている。

・心はまったく穏やかではない。なぜこんな人生になったのか、わからない。

その3~カレン民族の女性(40代)

・2008年12月頃、夫と、7人いる息子のうち年上の3人(合わせて4人)とが、農作業中にビルマ軍に拘束され、どこかに連れて行かれた。自分はその場にいなかったが、村の住民が見ていて、伝えてくれた。

・それまでにも、夫や息子がビルマ軍に強制労働を命じられ、数日間家を空けることが何度もあった。しかし今回はいくら待っても帰ってこなかった。(結局、残った4人の息子とタイに渡り、2009年2月にメラキャンプに着いた)。

・自分は村の学校で教師として働いていた。教師は全部で6人いて、全員がほぼ毎週、強制労働を命じられた(道路づくり、整地など)。教師がいないと授業ができないので、学校では進度が遅れて困った。

・国際社会に言いたいこと:弾圧されて今も苦しんでいる人がいることを忘れないでほしい。

もう2人からの証言を、次回のレポートでご紹介します。

 最後に写真を一枚(ぼけてしまい、すみません)。ビルマでのとてもつらい体験を話してくれた後、写真を取らせてくださいと頼んだら、カメラを向ける私の隣にいた人の真似をしてペコちゃんのポーズ(?)を取って、自分でもおかしくなって大笑いする女性です。話を聞いた方の私たちは笑いながらも、話の内容とのギャップに、とても謙虚なというか、恐れ多い気持ちになりました。聞き取り調査では、こうした瞬間がよくあります。<続く>


【背景】メラ難民キャンプ

タイのターク県にある、タイ・ビルマ国境最大の難民キャンプ(2009年12月現在、約4万人が暮らす)。2005年から第三国定住事業が始まり、1万人以上がアメリカなどへ移住している。日本政府も今年、メラ難民キャンプから30人の難民を受入れる予定で、現在、移住候補者との面接などを進めている。

タイ・ビルマ国境支援協会(TBBC)による概要はこちら(英語)
http://www.tbbc.org/camps/mst.htm#ml



その4~カレン民族の男性(50代)

・20年前に住んでいた村が焼き討ちにあって以来、ずっとビルマ軍に苦しめられてきた。毎月のように強制労働を命じられ、何度も移住もさせられた。なぜタイに来たのか? まだ死にたくない。もっと生きたい。これまでよりも意味のある人生を送りたい。

その5~カレン民族の女性(50代)

・夫は強制労働(ビルマ軍のための荷物運搬)をしたときに死んでしまった。お金がなく子どもを学校にやれなかった。

・自分も頻繁に強制労働を命じられた。その際、食べ物は支給されないので自分で用意する。

・あるとき、女性ばかり5人がビルマ軍に捕まって、ビルマ軍の一行の先導をさせられた。中身はわからないが、大変重い荷物も背負わされた。ビルマ軍が女性に先導させたのは、そうすれば、ビルマ軍の敵であるカレン民族同盟(KNU)による攻撃が防げると考えたからだと思う。5人のうち1人が、自分の目の前でビルマ軍兵士に射殺された。

・住んでいた村では、昔から男性が村長を務めていた。しかしビルマ軍が村に来るようになってから、任期中に言いがかりをつけられて殺される村長が相次ぎ、男性は誰も村長を引き受けなくなった。このため、月ごとに女性の住民2人ずつが交代で村長の役割を果たすことになった。

このほかにも数人から話を聞きましたが、ほぼ全員が、ビルマ軍にあまりに頻繁に強制労働を命じられるので自分の生業を営むのに支障が出ていたことを話していました。ただ、それだけが理由でタイに渡ったのではなく、日常的に強制労働を命じられ、移転を繰り返しながらもぎりぎりまでビルマに暮らしていたが、「どうしても、これ以上ビルマにいられない」と思う原因となった事件や出来事があったことが、話をしてくれた人たちの間で共通していました。



【ビルマ情報ネットワーク 今日のおすすめページ】

「ビルマ問題って? はじめての方々への解説」
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=0&articleid=436

ビルマやミャンマー、アウンサンスーチーという言葉はよく耳にするが、予備知識がないからよく分からないという方のためのビルマ問題入門。根本敬・上智大学外国語学部教授による、わかりやすい解説です。




秋元由紀さん(ビルマ情報ネットワーク)の現地レポートⅠ

2010年02月16日 00時16分22秒 | 政治

 私の10年来の友人で「ビルマ情報ネットワーク」の秋元由紀さんが、現在、タイ・ビルマ(ミャンマー)国境で人権や環境の問題を中心にリサーチをしています。今日から、数回にわたり、彼女の現地レポートを私のブログで紹介することにします。


 初めまして、秋元由紀と申します。「ビルマ情報ネットワーク」というNGO(非政府団体)を運営しています。ビルマ情報ネットワークは、ビルマ(ミャンマー)の民主化改革や、同国で起きている環境破壊や人権侵害など様々な問題について調査し、色々なチャンネルを通じて日本の皆さんに知らせる活動を行っています。ビルマについて、新聞やテレビからは得られない詳しい情報を提供できることや、長年の経験や広い情報網に基づく的確な情勢分析力が強みです。

 普段は東京で仕事をしていますが、この一週間ほどは出張で、タイ・ビルマ(ミャンマー)国境に来ています。出張中は毎日たくさんの出会いや発見、学びがあり、充実度の高い日々です。このたび、私が見たり聞いたりしたことまとめたレポートを、以前からお世話になっている阪口さんがブログに掲載してくださることになり、大変光栄でうれしく思っています。

 というわけで、これから数日間、現地から日記風のレポートをお送りします。一日目の今日は、「なぜタイ・ビルマ国境にいるのか」、今回の出張の背景を簡単に説明させてください。

 国境の向こう側、ビルマ東部地域(北からシャン州、カレンニー(カヤー)州、カレン(カイン)州)では、少数民族の武装勢力と、ビルマ国軍とが対立する紛争地域です。1984年から、戦闘や、ビルマ軍による人権侵害を逃れ、少数民族住民が国境を越えてタイに入ってくるようになりました。1996年以来、3500の村や集落がビルマ国軍の攻撃により破壊され、2008年8月から2009年7月までの1年間だけで7万5000人が家を追われたことがわかっています(以上、数字はタイ・ビルマ国境支援協会による)。

詳しくはこちらをご覧ください。

「ビルマ東部の情勢不安定化」(タイ・ビルマ国境支援協会プレスリリース、2009年10月29日)*日本語訳です。

http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=497

 現在、タイ・ビルマ国境には9つの難民キャンプがあり、約14万人が暮らしています。日本政府は今年、この中から30人の難民の「第三国定住」を受け入れる予定で、先日、候補者を選ぶ面接が行われたことが報道されていたのをご覧になった方も多いことでしょう。

 ビルマ東部にはこのほか、戦闘などを逃れて住んでいた村を出ざるを得なくなったが、タイには渡っていない国内避難民(IDP)が、約50万人いると推定されています。

 タイ・ビルマ国境では、難民へのインタビュー(聞き取り)や救援団体との会合を通じ、ビルマ東部の紛争地域の状況についての最新情報を直接、得ることができます。また、ビルマ側で起きている人権侵害などについて、被害者から証言を聞くこともあります。ビルマで今年予定の総選挙の成否がかかっているとも言われるほど深刻な民族問題の、ひとつの側面を世界に伝えるために不可欠な作業が、タイ・ビルマ国境で行われるのです。

 というわけで、今日ももうすぐ宿を出て、とある現場に向かいます(現在朝の6時!)。次回からはもっと日記風のレポートをお届けしますので、どうぞよろしくお願いします。



 ◎ビルマ情報ネットワークディレクター秋元由紀氏プロフィール◎
 
上智大学法学部、ジョージ・ワシントン大学ロースクール卒業。ニューヨーク州の弁
護士資格を取得し、ワシントンDCで、海外での営業活動を通じて起きた人権侵害につ
いて企業の責任を問うユノカル(現シェブロン)訴訟などの原告弁護団に参加。日本
帰国後、ビルマ情報ネットワークのディレクター(共同)として活躍中。

主な著書など:

・「軍政が『政府』になった国」(ヒューマンライツ・ナウ編、『人権で世界を変え
る30の方法』第1章05、合同出版、2009年)

・Post-Nargis Analysis: The Other Side of the Story (Burma Medical
Association et al., 2008)

・Opportunities and Pitfalls: Preparing for Burma’s Economic Transitions
(Open Society Institute, 2006)

・「ビルマ(ミャンマー)の開発と人権・環境問題」(季刊「公共研究」第2巻第1
号、2005年)

 このほか、「ウォールストリート・ジャーナル」、「週刊金曜日」、「オルタ」など
の紙誌への寄稿多数。



ビルマ(ミャンマー)の民主化支援

2010年02月15日 23時25分01秒 | 政治
 今日は、ビルマ連邦国民評議会のマウン・マウン書記長、そしてアラカン民主連盟亡命組織のカイ・アウン・ウィン名誉会長を囲んでの勉強会を行いました。

 ビルマでは、今年の秋にも総選挙が行われる予定です。1990年の選挙では、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟が485議席中、392議席を獲得したにもかかわらず軍事政権が政権に居座り続けています。また、軍事政権の支配が深刻な人権侵害を生み出しているため、国際社会はビルマに対する本格的な支援を行うことができず、東南アジアにおける最貧国の地位に甘んじています。

 私自身も、1996年以降、この国の視覚障害者に対する支援などビルマでの活動を行っていました。世界でももっとも親切な人々であると同時に、政府によってもっとも抑圧された人々であることを感じることの連続でした。

 欧州議会は現在の軍事政権の状況では、自由で民主的な選挙になるとは考えられないと主張しています。残念ながら、私自身が見聞きした限りでは、今のまま選挙が実施されても民政移管とはとても言えない状況です。

 できる限り国際社会が認める選挙を実施することは軍事政権にとってもメリットがあるはずですが、国民民主連盟のアウンサンスーチー書記長は未だ自宅軟禁が続いています。ノーベル平和賞受賞者で人気の高いスーチー氏の解放は、軍事政権にとっては大きな脅威であることは間違いありません。スーチー氏を解放する前に総選挙を終えてしまおうとする選択肢も念頭に置いているといわれています。

 外務省によると、現在のポイントは下記の5つだそうです。

 1.選挙に関する法律の公表と内容(自由で公正な選挙を担保できるか)

 2.選挙の実施時期

 3.スーチー氏の解放のタイミング

 4.少数民族との和解と自決権の確保

 5.国際民主連盟(NLD)の参加の可否

 ビルマの民主化、そして人権条件の改善は、日本の外交にとても大きなテーマです。政治家として、また、私自身がANFREL(Asian Network for Free Elections=自由な選挙のためのアジアネットワーク)の一員であることを念頭に置き寄与したいと考えています。

 状況が許せば、また、私たちの活動に一定の自由が認められるなら、ANFRELと連携し、インターバンドとして選挙監視チームを派遣することも検討したいと思っています。

 写真:自宅前で対話集会を行うアウンサンスーチー氏(1996年3月に撮影しました)




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バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯勉強会-政治に何ができるか

2010年02月10日 19時57分04秒 | 政治
 今日はチッタゴン丘陵地帯の人権問題について、勉強会を行いました。深刻な人権蹂躙がありながらほとんど知られていない問題ですので人が集まってくれるかどうか不安でしたが、17人の議員の方々を始め、会場が満席になるほど大勢の参加者がありました。皆さんのご協力に感謝します。また、30人を超える国会議員が和平推進を求める署名活動に協力してくれました。国会議員の署名の重さを考えると、本当にありがたいことだと思います。

 電車が遅れて羽田空港到着から出発まで10分しかありません。いつものことですが、空港でもダッシュです!


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フィンランド議員団との昼食会

2010年02月08日 22時35分17秒 | 政治
 今日は、予算委員会の応援の後、政策会議やNGОの勉強会をハシゴする一日でした。

 さて、お昼には、参議院議長公邸で来日しているフィンランドの議員団との昼食会がありました。ずっと前からお世話になっているツルネン・マルテイ議員にお誘い頂いたこともあり、張り切って参加しました。10人の議員のうち7人が女性議員だったことに驚きました。

 2008年にノーベル平和賞を受賞したマルティ・アハティサーリ氏はフィンランドの元大統領です。スマトラ島大津波で最大の被害を受けたアチェ自治区とインドネシア政府の和平を実現させた仲介役を務めました。私も現地に復興支援に行きましたが、人類史上最悪レベルの災害を長年の紛争解決につなげた手腕に感服しました。小さな国だけど、和平の調停役として大きな存在感を示すフィンランドの外交は、私の研究テーマのひとつでもあります。

 フィンランドと言えば、充実した福祉、ノキアなどのIT企業や環境技術が有名です。そして、それを支えているのが世界一とも言われる教育レベルです。また、このような政治の方向性を決める上で、女性が議会の半数以上を占める政治が果たしている役割の大きさを実感しました。日本が参考にすべき政治や社会の在り方について、学ぶことが多い国です。政治家として、是非、訪問したいと思いました。


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劣化ウラン兵器の禁止に向けて-この非人道性をほってはおけない!

2010年02月06日 02時47分27秒 | 政治
 今日は、長崎知事選の応援から国会に戻り、「劣化ウラン兵器禁止」に関する勉強会を実施しました。

 講師として「ウラン兵器禁止を求める国際連合」の嘉指信雄氏、振津かつみ氏、「日本・イラク医療支援ネットワーク」の佐藤真紀氏にお話を頂きました。専門家として、また現場の活動家として、大変説得力のある内容だったと思います。党派を超えて参加した議員の方々と、予定の時間を過ぎても議論は続きました。

 私自身が紛争地域での活動を行っていましたので、戦闘状態が「終結」した後も長く続く本当の平和への長い道のり、そして、その中で、現地の人々の生命を脅かす武器-地雷やクラスター爆弾とともに、劣化ウラン弾の非人道性については、大きな怒りを抱いていました。従って、民主党の近藤昭一議員から、この問題に関する呼び掛け人、そして事務局として後継者としてお誘い頂いた時は、本当に、ひとつ返事で引き受けました。
 
 劣化ウラン弾は、米軍によってイラク戦争などで使用されました。戦車などの固い標的に当たると高熱を発して燃え上がり、装甲を貫通します。破壊力に比してコストが安いのが特徴です。しかし、爆発によって、劣化ウランは細かい粒子となって散らばり、周辺の環境を汚染します。そして、この微粒子を身体に取り込むと、体内から被曝してしまいます。また、微粒子は、風に乗って周辺国まで広がり、静かな大量破壊兵器として、人々を長く激しく苦しめることになります。

 イラク戦争に参加した米軍兵士の健康状態にも、その影響が表れています。爆撃により生活圏が汚染された人々の人体への影響はより激烈で、発がん率、そして奇形児が生まれる率も際立って高くなっています。内部から体が崩壊していく子どもたちの姿は、直視できないほど凄惨なものでした。

 今年は秋の国連総会で2年ぶりに「ウラン兵器問題」が議論されます。国連決議の要請に応え、日本政府がどのような見解を示すのか問われています。

 自民党政権下では、劣化ウラン弾がもたらした惨禍を直視し、解決を目指す姿勢は示されませんでした。劣化ウラン兵器の非人道性を深刻に受けとめ、被害調査・被害者支援、そして規制と禁止に向けて、国際社会でリーダーシップを発揮して積極的に取り組むことは、「被爆国」日本として当然の国際的責務ですし、政権交代が実現した今こそ、国際社会に支持される新しい見解を示すチャンスです。

 私の政策秘書の相原清氏は、読売新聞の記者としてイラク特派員を務め、劣化ウラン弾の被災地でも取材活動を行いました。(イラクについて「サダムの時代」などの著書もあります)。また、同じく秘書の瀬戸利一氏は、医者&歯医者であると同時に、元陸上自衛隊の中隊長を務めたことがあり、武器に関してもエキスパートです。(7段を持つ極真空手の上席師範でもあります!)ウラン兵器について一緒に研究するスタッフに、これほど恵まれた事務所もないでしょう。この問題については、オール阪口直人事務所で取り組んでいく決意です。


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鳩山由紀夫総理の施政方針演説(続き)

2010年02月02日 23時40分54秒 | 政治
 今日は夜、会合があって出かけていましたが、今、議員会館に帰ってきました。

 鳩山総理の施政方針演説についてのコメント、途中になっていたので、続きを書きたいと思います。 

 私がNGOや国連の仕事で海外の現場にいた時、グローバル経済の負の部分に苦しむ人々、紛争や、紛争がもたらした貧困に苦しむ人々を目の前にしながら、それらを打開するためにも政治が変わって欲しいと願っていました。同時に、永田町を見ていると、そんなことはあり得ないとも感じていました。ところが、自分たちの力で政権交代が実現し、自分が政治に求めていた通りの価値観が、私たちの総理から発信されることを目の当たりにして、政治そのものが変わったことを実感したのでした。

 海外の現場で活動していた時、永田町は、自分たちとは対極の価値観の方々が住む世界に見えましたが、今、自分たちこそ、この場に必要とされる存在であると強く感じました。

 私たち新人議員は「小泉チルドレン」と比較されますが、最大の違いは、我々の大半は、数万軒を歩き、地域の方々と対話を続けてきたことです。さまざまな現場で育んだ問題意識と使命感を発揮する方向性が、鳩山総理の演説によってはっきり示された高揚感が、私のまわりにあふれていたように感じました。


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