アントニオ猪木さんが逝去されました。難病と闘う、信じられないほど痩せた姿は本当にショックでしたが、絶対に回復すると信じていました。今、悲しみの底に沈んでいます。
私にとっては子どもの頃から絶対的なヒーローだった猪木さん。その猪木さんと北朝鮮、キルギス、そして2度のスリランカと4度にわたって海外での議員外交にご一緒させて頂くなど、人道問題や紛争解決をテーマに行動を共にできたことは本当に幸運でした。
実は今日は御嶽山に登っていました。岐阜県と長野県にご縁を頂いた人間として、8年前の噴火によって亡くなった方々を慰霊する思いもあり、急遽日帰り登山をしていました。山頂まであと5分あまりの場所で訃報を聞きました。山頂では猪木さんのご冥福をお祈りし、共に過ごした貴重な時間を振り返っていました。
議員外交をともにした中で見た人柄とエピソード、そして政治家アントニオ猪木の価値は何だったのか、改めて振り返ってみたいと思います。
子どもの頃から私はアントニオ猪木の大ファンであり、異種格闘技戦を次々に仕掛ける格闘家として、また、政治家としてイラクの人質救出に尽力するなどスケールの大きな生き方に大きな影響を受けました。中学を卒業したら新日本プロレスに入門して鍛えてもらおうと本気で考えていたほどです。
国会議員としてご一緒した印象は、燃える闘魂・アントニオ猪木のイメージとは異なり、徹底して平和主義で本当に心優しい人ということでした。
1.北朝鮮外交-拉致被害者を返しやすい環境作り
「そもそも猪木議員は何しに北朝鮮に行ってるんだ?」という批判の声も多く聞きました。
プロレスラー・アントニオ猪木の師匠である力道山の娘がスポーツ大臣を務めていたこともあり、金日成主席が亡くなった時にはメーデースタジアムで延べ38万人を集めた平和の祭典を実施しました。その姿が北朝鮮では切手にもなっています。だからこそ猪木議員は対話の窓口であり続けていました。
私たちは核開発、レアアースなどの資源開発、スポーツ・文化交流などについて意見交換をしましたが、もっとも大きな関心のひとつはもちろん拉致問題を含む人道問題でした。一日も早い帰国を実現させるなど拉致問題解決の努力を求めるのは当然ですが、1959年に始まった帰国事業で北朝鮮に渡ったものの、現地で筆舌に尽くしがたい苦難を味わっている日本人、あるいは日本人配偶者やその子供たちの存在も決して忘れてはならないと考えていました。
従って、いかに北朝鮮側が拉致被害者を返しやすい環境を作るかを考える方が現実的と考え、拉致被害者と北朝鮮在留日本人の帰国とリンクさせるのが私たちの戦略でした。
猪木氏との訪朝では、姜錫柱(カン•ソクジュ)書記と3回にわたって意見交換をする機会を得ました。姜錫柱書記は元副首相で、その時点でも外交の責任者だった。金日成・カーター会談や、2002年に小泉首相が訪朝した際の金正日総書記との首脳会談に同席するなど金日成主席、金正日総書記、金正恩第一書記と3代の外交を支えてきた重鎮です。私たちは相手のメンツも立てながら、『人道的配慮によって』希望する日本人全体を対象に帰国を認めさせ、結果的にその中に拉致被害者も含まれるストーリーを描いていました。そのためには、徹底して信頼関係を構築する必要があります。政府としては言えないことを議員外交で伝えて可能性を探り、政府と協力して成果を引き出す戦略でした。
日本政府との連携、議員外交との役割分担についてはアントニオ猪木議員は予算委員会などで再三安倍総理に呼びかけていたが、安倍首相は極めて冷淡な反応だったことが残念でなりません。
日本政府の交渉窓口だった宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は党内序列では当時61番目。アントニオ猪木議員は政府の交渉窓口より遥かに力を持った外交担当者と交渉できる唯一の存在だからこそ、「猪木をもっと使ったらいいんだ!」との叫びが心に刺さりました。
湾岸戦争時、イラクでは多くの日本人が人質となりましたが、その際に当時のサダム・フセイン大統領と交渉し、費用も私費で賄って41人を救出したのは外務省でも時の政府でもなく、アントニオ猪木議員でした。
相手政府だけではなく、あらゆるルートを駆使して可能性を探るのが本来の外交の姿です。アントニオ猪木という稀有な存在を失ったこと、日本の外交の可能性を考えても残念でなりません。
2.キルギスーペレストロイカ・ボクサーとの再会
私は20代の頃、協栄ボクシングジムに通っていたことがあります。一緒に練習しながら旧ソ連出身のユーリ・アルバチャコフ、そしてオルズベック・ナザロフが世界チャンピオンに昇り詰める様子をそばで見ていましたが、彼らはアントニオ猪木議員が『ペレストロイカ・ボクサー』として招いたボクサーでした。ソ連が崩壊し、素晴らしい才能を持ったボクサーの活躍の機会がなくなってしまいましたが、彼らにチャンスを与えたのがアントニオ猪木議員でした。
2010年夏、10月に行われる選挙監視活動を効果的に行うためのリサーチでキルギスを訪問した時、私はオルズベック・ナザロフ氏に再会しました。彼はキルギス共和国初の世界チャンピオンとして国民的英雄でした。その彼が「日本に帰ったら是非、猪木さんにお礼の気持ちを伝えて欲しい。あの時チャンスをもらえなかったら今の私はなかった」と切実に訴えてきたのです。
その時は、アントニオ猪木氏と連絡を取る方法を見つけることはできなかったのですが、その後、何と同じ国会議員として議員外交のパートナーになったのでした。
様々な議員外交に取り組む中、意を決してオルズベック・ナザロフ氏のことを猪木議員に伝えたところ、「是非、行きましょう」と即答してくれました。タイミングを図っているうちに私は落選し、衆議院議員ではなくなってしまったのですが、2015年5月、私が実行委員長として第1回大会開催に奔走したキルギス・シルクロード国際マラソンの第4回大会に参加してくれたのでした。貴重なGW期間中、世界中から招待される中、すでに国会議員ではなくなっていた私の求めに応じて、首都ビシュケクからも遠く離れたイシククル湖畔まで来てくれたのは、まさに、人のつながりを大切にする猪木議員らしい判断と行動力だったと思います。
「先生、一緒に議員外交の本を出しましょうよ」首都ビシュケクに戻った時、猪木議員は提案してくれました。「私が本を出せば必ず買う読者がいますから、私で良ければ少しでも先生の力になりますよ」
アントニオ猪木と共著を出せるなんて夢のような話です。私も『苦しみの中から立ち上がれ』などアントニオ猪木の著書のほとんど全てを持っていて、多くを学んだひとりです。企画書を一緒に考えたり、一緒に出版社を当たったりしてくれたのですが、この提案は未だに実現しないまま、天国に行ってしまいました。
猪木さん、安らかにお眠りください。猪木さんに薫陶を受けたひとりとして、仲間とともに、議員外交、民間外交の可能性を切り拓いていきたいと思います。本当にありがとうございました。
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