小野田寛郎さんが逝去されました。3年前にお会いした時、凛として朗らかなお姿に感激したのが昨日のようです。小野田さんは海南市の私の自宅近くの出身。ルバン島から帰還されてすぐ、同じ海南市出身の父から『闘った、生きた、ルバン島30年』という本をプレゼントされて何度も読んだこともあり、その生き方にはずっと注目してきました。
小野田さんは16歳の時ビジネスで成功しようと単身満州に渡った人。陸軍中野学校でスパイとして教育を受けたことと相まって、柔軟な発想力を持っている人だったことがルバン島で30年を闘い、生き抜く上での一番のポイントだったのでしょう。
中野学校で受けた教育は、日本はまずは負けることは織り込み。しかし、その後は反撃し、最終的には必ず勝つと信じ、そのためのゲリラ戦を続けたのが、小野田さんの30年でした。朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦闘機が飛来すると、日本が反撃をしていると確信。何か事件があるとジャングルの中の日本兵がやったとされ、130回以上派遣されたフィリピン軍の討伐隊と何度も銃撃戦を続けました、最後まで残った2人の仲間を殺され、多くの敵も殺害。日本から捜索チームがやって来た時も敵の謀略と判断して姿を見せず、任務解除の命令が上官から直接下されない限り闘いを続けることを決意したとのことです。命令を受けた時は、処刑されることを覚悟し、胸を張って銃殺されようと覚悟を決めて出て行ったとのこと、軍人精神のすさまじさには震撼します。
帰国後、それまでの生き方には制約されないひとりの人間として自立した生活を送ろうと決意。わずか1年後の翌75年、ブラジルに移住し、原野を開拓して牧場をつくり成功を収めます。子どもが金属バットで両親を殺害した事件を知り、健やかな青少年育成のために「小野田自然塾」を福島県に開設。キャンプ生活を通して自然の大切さや、目的を持ってたくましく生きることなど人間の本質を教えました。この生き方にも、人間としての強さ、そして進取の精神を感じます。
私自身がカンボジアやモザンビークで山岳少数民族の村で平和維持活動をしていた時、周辺には地雷が埋設され、戦闘に巻き込まれる危険も常にありました。目的は違いましたが、子どもの頃に読んだ小野田さんのサバイバル術と折れない心の偉大さを改めて実感したのも感慨深く思い出されます。
心からご冥福をお祈り申し上げます。