あちこち探した結果、出てきました。
平成の大改修の画像が…。どうなったのか説明はできませんが、やれやれです。
大改修のための調査で瓦をめくったところです。
屋根の上に詰まれた土、瓦などで屋根全体の重さは350トンだとか…
(でも正確には覚えていません)
外された瓦です。寺の名前の入ったものや、巴がわらです。
製造した瓦屋の名前も入っていたようです。貝塚市内の瓦屋さんだそうです。
大屋根をこの角度から取れることはまず無いでしょう。
大屋根のてっぺんです。
そばにいたおじさんが「子供のころにこの屋根に雷が落ちた」と話していました。道理で鬼瓦の部分が比較的新しく、補修の後が見えます。
避雷針もありました。
横に並べられた瓦の高さだけでも、普通の塀の高さはありそうです。
めったに撮れない場所からの記念撮影があちこちで…
工事用足場を登って、大屋根のてっぺんへ…
さすが申年…!登りましたよ。おばさんでは一人かも…
「手挟み(たばさみ)」というものです。
一所だけ外されて展示していました。天女の舞です。
竹生島と同じものだそうです。
ほとんどがケヤキで作られているのに、この部分だけはヒノキだそうです。
木目がきれいに出ていました。
もとは彩色があったようで、ところどころにそれらしき跡がありました。
本堂の内部です。
いま仏様は京都の仏師のところで修理中だそうです。
本堂の天井絵です。相当傷んでいました。
…天文14年(1545)、無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりが始められた。 石山本願寺から寺内町にとり立てられた後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、町は焦土と化した。
その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)7月から同13年8月に大坂天満に移るまでの2年間、紀州鷺ノ森より「顕如上人」を迎えて本願寺御堂となった。
江戸時代には、町は寺領とされ、住職の卜半家の支配の下に置かれた。…
ぼっかんさんと親しく呼ばれているのは、住職の卜半家からきているらしい。
その卜半家17代目住職、まだ若い住職でした。
住職にお茶室の事を聞いてみました。
まだあどけなさの残る12歳ころのmamaGONが、真剣にお点前をした茶室です。
その茶室が今度重要文化財になるそうです。
願泉寺のある寺内町は、まだ昔の門前町の雰囲気の残るいい町並みでした。
この辺りに小学校の担任の先生のお住まいがあったはずだと、少し散策をしました。ありました。その姓のおうちが・・・
でも様子が違っていました。無理もありません半世紀前のことです。
どうしていらっしゃるかと懐かしく思いながら、その場を離れました。
珍しいもの、懐かしいもの、めったに体験できないこと、まず触れないものに触れられたなどいろいろ楽しめた半日でした。
いろんな勉強もさせてもらいました。
ちなみに今回の大改修の完成は7年後です。
改修にかかる費用は17億円、重要文化財なのでそのうちの8割は国から出るそうです。
順次工事の進み具合を見せてくれるそうです。また機会があれば行きたいです。