紀伊路・大辺路・伊勢路、太平洋を望む紀伊半島の海沿いの熊野古道
390キロを昨年11月に歩き終わって、今年は中辺路に挑戦します。
このツアーはポピュラーな中辺路ではなく、
あまり人の行かない道を連れてくれるそうです。
昨日が一回目、紀伊田辺あたりの古道をあるきました。
古道とはいえ殆ど消滅している道をとぎれとぎれに…街中を歩きました。
来月からの峠道に入るまでの序章というところ…。
平安時代から江戸時代にかけて、多くの参詣者でにぎわったといわれる
熊野古道「紀伊路」は、京都から淀川を下り、大坂窪津から陸路を南下、
和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入り、熊野三山に通じた。
このうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が、
のちに「中辺路」(なかへち)と呼ばれるようになったそうです。
特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した
「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)だったということだ。
その当時の旅は、人影の少ない長く険しい山道を越えるだけでなく、
たとえ寒い早朝であっても水垢離(水浴び)をして心身を浄めながら、
ひたすら熊野の神々や仏の救いを心に念じた山岳修行色が極めて濃厚で、
熊野三山へと歩みを進めるものであった。
中辺路と大辺路の分岐点になる潮垢離浜の記念碑のある小さな
江川児童公園に10時20分ごろ到着。
ここは大辺路のときにも立ち寄った所だが、ここから道が分かれて
中辺路に入っていく。
潮垢離浜跡は今は道路沿いの公園の一隅に崇神天皇が
潮垢離のときに使われたと伝えられる腰掛け石と大きな潮垢離浜の碑が
建立されています。
細い街の中を通り出立王子に…
しばらく王子に合わない熊野古道だったが~車道の坂の途中にある。
「わが背子が 使来むかと出立の この松原を今日か過ぎなむ」と
万葉集に詠われているように、潮垢離浜(しおごりはま)で身体を清め、
熊野の山々へと出発するという意味で、「出立ち」という名が
付けられたと考えられているようだ。
20分余り行き、11時40分ごろ高山寺着。
田辺の市街地を一望できる高台にあり、弘法大師が開創したとされるお寺。
江戸時代建立の美しい多宝塔はじめ、広い境内には諸堂宇が立ち並ぶ。
高山寺境内の台地には貝塚があり、貝殻や鹿の骨、土器等が出土していて、
縄文時代早期の貝塚として知られ、境内の参道には出土した貝が埋められている。
ここで昼食。温かいお茶をポットから入れてホッとする。
高山寺を降り会津川沿いに車の多い県道を歩く。
途中から会津川が2つに分かれ、左会津川、右会津川と名前が変わる。
右会津川に沿って秋津橋を渡り、民家や畑の中を30分ばかり歩くと
秋津王子の碑に出る。
王子名は藤原定家の熊野御幸記に秋津王子の名が初めて登場します。
秋津にあったことは明らかですが、会津川の氾濫で元の場所は消滅して
確定できないようだ。
川から離れ、保育所や小学校のある街の中を通り、今度は左会津川の
橋を渡りしばらく川沿いを歩き30分ほどで中万呂の須佐神社へ到着。
神社を過ぎて大谷橋を渡り再び左会津川に沿って30分、熊野橋がある。
熊野橋を渡ると、万呂王子の説明板が立っている。
その向こう側の梅の畑の中に万呂王子跡が立っている。
趣も何もない柱だが、こんな形にしろ残されていることに感動する。
畑の中の道(古道)を15分ほど歩くと三栖廃寺塔跡。
この寺は白鴎時代の法隆寺様式の伽藍配置と推定されており、
牟婁郡豪族の氏寺だったらしい。
塔跡に石段などが残り、ここに三重の塔が建っていたといわれる。
しばらく行くと小高い所に五郎地蔵寺がある。
ボランティアガイドの話から、偶然ウォーキング仲間の一人が
その寺の住職と同級生だという話になり、その寺を訪ねる。
曹洞宗の寺だが、五郎という人がいわれのない罪を着せられ、
地蔵さまに救われたという謂れから、この名前で呼ばれているそうだ。
お茶でもと言ってくれた住職ご夫妻の見送りを受けて寺を辞す。
今度越える山並みを眺めながら20分ばかり歩くと道の左に
イチョウと鳥居が見え、その奥に大きなクスノキがあるのが珠簾神社。
ここには三栖王子が合祀されているよう。
ここから長尾坂の昇り口までで今日の歩行は終わり。
このあたりは梅の畑が続く。古城梅という梅の産地だそうで
梅を干す広場や梅の工場があり、梅畑の梅が間もなく咲く蕾を
ぎっしり付けて穏やかな冬日に輝いてた。
来月歩くときは梅の花が咲き、花の香を満喫して歩けることだと
楽しみにして待つことにしよう。
3時半ごろ、紀伊田辺の簡保の宿までバスで走り、温泉へ入れる
ツアー会社からのサービスがあった。
身体が温まりほっと一息、太平洋の雄大な海を眺めて入る露天風呂もあり、
ゆったりと大きな気分になって、帰りのバスではうとうと眠ってしまった。