赤い椅子

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眉刷毛万年青(まゆはけおもと)

2008-10-28 20:11:26 | ノンジャンル
もうひとつ、我が家に嬉しい花が咲きました。
去年、ひみこさんにお聞きして欲しくて買ってきた眉刷毛万年青・・・
やはり今年の夏で少し参っていたようで心配でしたが咲いてくれました。
これもたった1本ですが・・・



彼岸花科で南アフリカ地方原産。 明治初期に渡来した球根植物。

葉っぱは多肉質で、ぶっとい。「万年青(おもと)」の葉に似ており、
そこから花の形状と合わせて「眉刷毛万年青(まゆはけおもと)」と
名付けられたそうです。

買い物や駅に行くのに毎日通る道端のおうちに、見事な眉刷毛万年青があり
どうして育てているのかお聞きしたいと思いながら通っていましたが、 
今朝偶然おうちの方が表にいらしたのでお話をさせてもらいました。

70歳を過ぎた優しい奥様で、「何にも手入れなんかしていないのですよ」と
笑っていましたが、1本の花から15年くらい経つそうです。
去年から私は気になっていたのですが・・・
葉が肉厚なのでサボテンの種類だと思っていたそうで、彼岸花科で
名前は「眉刷毛万年青」と言うこともご存じなかったそうです。

了解を得て写真を撮らせてもらってきました。


















こんな立派になるまでこちらの命が持つかしら・・・?



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紀伊上臈杜鵑草(きいじょうろうほととぎす

2008-10-25 17:25:23 | ノンジャンル
なんだかだんだん元気のなくなっていく紀伊上臈ほととぎす。
今年は花を諦めていたのに、たった1輪だけですがつぼみを発見!
咲いてくれる日を待ちかねていました。
咲きました!今日!
育てにくい花、植物園以外では余り見られない花として聞いていますが
この間テレビでは、和歌山の古座川の辺りで咲いているのを上映していました。
やっぱり紀伊と名前がつくからには和歌山らしいです。



表はつやつやとした黄色なのに、花の中側はホトトギスのような斑点が
あり、上臈と名がつくほどですからとても上品な花です(*^。^*)
来年はもっと咲くように、大事に世話をしたいと思います。
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松茸

2008-10-21 19:53:34 | ノンジャンル



松茸をいただきました。外食では2度ほど少しだけ口にしましたが、
我が家では今年の初物です(*^。^*)
いっぱい松茸を入れてご飯を炊きました。
もう1本はまた後日、土瓶蒸しをしようと残しました。

多分アメリカ産だと思います。香りはよかったですが食感が少し・・・
足の部分が松茸というよりむしろエリンギに近かったような気がします。
そんな贅沢なことを言ってはいけませんね~

日本産の松茸が取れなくなったのは、山の掃除が行き届かないからだそうです。
昔は焚き付けに松の落ち葉などを拾いに行き、山がきれいでしたね。
松の足元がきれいだと松から松茸は養分を貰い、松茸からは松に必要なものを
貰うそうです。
落ち葉がいっぱいあると松は松茸から貰わなくても落ち葉で間に合うそうです。
それと赤松が松食い虫にやられることも大きい要素だそうですが・・・

傘の大きく開いたものなどが安く手に入り、ご飯にも一杯入りましたよね~
人工栽培の研究もすっすんでいるそうですが、まだらしいですね。
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堺祭り

2008-10-20 20:27:52 | ノンジャンル
堺の近くに住んで長いのに、まだ一度も「堺祭り」を見たことがなかった。

「ものの始まりみな堺・・・」と言われる堺市。
安土桃山時代、堺は日本一の鉄砲の生産地であったという。
そして、明治時代には、鉄砲の銃身を造る技術を自転車のハンドル造りへと
変化させ、自転車の町、そして刃物の町などとして栄えている。
千利休、今井宗久、与謝野晶子などの有名人の出身地でもある。
そんな堺で19日(日)南蛮行列などがあり、一度みたいと思って行ってみた。

日本各地、岩国、彦根、根来などの鉄砲隊の祝砲、火縄銃保存会などの
祝砲が時々あり、幼い子供が怖がって親にしがみつくのが見える。



中世の南蛮衣装行列や時代衣装行列















ポルトガル大航海船



自転車の町らしく1輪車のパレード
















途中で孫たちと合流したが、一人は風邪気味で熱があるので早くに帰るが、
姉の方は一緒に布団太鼓も見る。



10台の布団太鼓が右へ左へと担がれて練り歩くたびに、
「ベーらベーらべらしょっしょ」と房が揺れる。
子供の時、地元はだんじり祭りだったが、南海線を隔てた浜側、感田神社が
布団太鼓であったので、よく祖父や親に連れられて見に行った思い出があり
懐かしかった。だんじりとはまた違う勇壮さがよい。





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熊野古道 伊勢路Ⅵ

2008-10-16 21:19:56 | ノンジャンル
10月15日、昨日は一日中降った冷たい雨が嘘みたいに晴れた
爽やかな朝だ。
いつもの集合時間、集合場所に急いで行ったが、どういうわけか
10分を過ぎても、15分を過ぎてもバスが来ない。
幸いナンバから乗る人が4人いたので、心細いが心丈夫だ(?)

何とかバスが来ていつもの道、伊勢道を走り勢和多気インターで降り、
9月の終着点、栃原、日進公民館へ到着、11時20分出発。
伊勢茶の産地として茶畑が広がり、街道沿いの大きな家には立派な蔵があり
その蔵が白壁ではなく、黒い焼き板の蔵なのが珍しい。



途中文化2年(1805年)創業と言う酒造店があり、立ち寄る。
日本3大清流のひとつと言われる宮川の伏流水を使った伝統の酒造りを
していると言う。お酒の好きな何人かが買った瓶を下げて出てくる。
出発から1時間半ぐらい歩いて柳原観音千福寺着。ここで昼食をとる。



このお寺の裏から眺める宮川の清流がよい。

境内のホトトギスが秋の風情。
















深谷地区に入り、古道の通行人の安全を祈って建てられた深谷地蔵の
赤いよだれかけが可愛い。



明治初期の寺小屋の建物が残っていたりして歴史の古さを感じる地区だ。

宮川にかかる深谷橋を渡ると小高いところに五輪塔がある。
伝染病に苦しむ村人たちのために、自ら生き埋めになり仏の救いを祈ったと
いう浄保法師の供養塔だそうだ。



新しくバイパスの道があるが、古道の方を行くと地蔵さんや古い道標がある。

「右くまの道、左さんぐう道」と書かれている。
















伊勢自動車道のしたのトンネルを越え、いよいよ伊勢路最後の峠、
女鬼(めき)峠に差し掛かる。
標高120Mと高くはないが、昼なお暗いような峠であった。
江戸時代には祢(ね)き峠とも呼ばれ、峠ののぼり口辺りに
「南無阿弥陀仏」の名号碑と如意輪観音像が残されている。



峠辺りは千枚岩を掘削して開いた切り通しになっており、荒々しい風景。
昔の人が荷車を曳いて越えたわだちの跡などが石の道にも残り、
苦労して峠を超えた昔の人たちのことを思いながら30分ほどで峠を越える。
















峠を越え里山に入ると、たわわに実る柿畑が連なるのどかな景色になる。



3時半頃、伏見稲荷の千本鳥居のような石の鳥居が連なる外城田神社に着く。
















休憩のあと伊勢多気線の歩道を歩く。喉が渇いたので水を買いたいと思うが
自動販売機が行けども行けども見当たらない。
大阪の町との違いをつくづく感じながら歩くと左向こうに
石垣の城跡が見える。これから行く田丸城跡だ。日が少し暮れかかってきた。

右さんぐう道、左紀州街道という道標を曲がり、田丸城跡の中に入っていく。
三の丸跡に建つ玉城中学校の最終下校時間に出会い、帰宅する生徒たちが
元気な声で挨拶をしてくれるので気持ちが和む。



田丸城天守台跡の写真はネットからお借りしました。

玉丸城の歴史は、1336年(延元元)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと
京から伊勢に下った北畠親房がこの丘陵(玉丸山)に砦を築き、
南朝方の南勢地方の拠点としたのが始まりとされる。
1342年(康永元)、北朝を援護する足利尊氏に攻められ落城する。
室町時代には、伊勢国司となり、霧山城(三重県美杉村)に館を構えた
北畠氏の支城として再建され、北畠一族が居城、田丸御所となった。

室町時代末期、織田信長の伊勢侵攻を受けた北畠具教は、信長の二男信雄を
伊勢国司北畠氏の養子に入れることで和睦した。
天正4年、信雄に家督を譲り隠居していた具教は、信長の命で送り込まれた
旧家臣達の手により謀殺され、伊勢の名門北畠氏は滅亡した。

1575年(天正3)、信雄は大河内城(三重県松坂市)から田丸城に移った。
この時、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、
本丸に三層の天守閣を築き、現在見られる規模を整えた。
しかし、僅か5年後に、天守その他が火災により焼失してしまい、
信雄は松ケ島城(松坂市松ケ島町)を築いて移る。

・・・などなどの歴史があるが 1619年(元和5)、田丸城は
徳川御三家・紀州和歌山藩・徳川頼宣の所領するところとなり、
家老久野宗成が田丸城に入り、代々久野氏が城代として明治まで続き、
明治2年廃城となった。 (伊勢田丸城ご案内より)

入日の近い天守台の上に立つと、広大ではないが、この城が段々に石垣で
積まれた城郭であることを実感でき、また、本丸跡には、高木・樹木が
少ないことも手伝って、四方の展望が開け、眼下に城下町玉城の町並みを望め、
田園地帯の奥に南勢の景観を一望できる。

天守台に立ち、局岳の辺りに沈む夕日とその刻々と変わる空のグラデーションを
楽しみながら、幾多の戦乱に明け暮れた激しい攻防の話を、語り部さんが
語ってくれるのを聞きながら、自然のなせる偉大なショーを堪能しました。




































すっかり沈んだあとの山の景色を見ながらストレッチをし、城を降りようとすると
玉城中学校の校舎の上に十七夜の大きな月が昇り始めていた。



夕日と月の裏表の天体ショーに感動をして帰路のバスに乗る。





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