17日、今朝も空気がピンとするほどよく冷え込んだ。
部屋の窓を開け放してみる明石大橋の全景が、朝日の反射された曙の空に
きらきら光る。7時45分宿舎出発。
バスで善通寺市まで戻り8時30分ころ、76番札所金倉寺へ到着。
大師の甥(智証大師)が先祖の菩提を弔う為、唐の青龍寺を模して
伽藍を造営し、薬師如来を刻んで本尊として安置したという寺。
明治31年から約3年間、乃木希典将軍が善通寺第十一師団長を勤めた頃、
金倉寺の客殿に仮住居にしていたそうだ。
さすが立派な本堂だ。鎌倉様式で木造の入母屋造り、
向拝の付いた新しい建物で、この様式の本堂としては、「四国随一」らしい。
数珠繰りが出来る。願いを込めて回す。マニグルマと同じかな~
乃木将軍が住まいした当時はこの寺は女人禁制だったそうで、はるばる
東京から訪ねてきた静子夫人を面会せず直ぐに帰京すべきと厳命され、
夫人は途方に暮れ松の木の下で永らく佇み後に引き返したという。
乃木将軍妻返しの松
9時10分、多度津町の別格18番、海岸寺へ。
瀬戸内海に面した屏風ヶ浦海岸に位置する。寺院は本坊と奥の院からなり、
本坊と奥の院との間にさぬき浜街道とJR予讃線が通っている。
昔はそんなに広い境内だったということだろう。
大師の誕生所が第75番善通寺で産屋が海岸寺となっているらしい。
山門には仁王さまでなく日本で唯一、実際に昭和期の大戦後に活躍した
地元出身力士の琴ヶ浜と大豪の像が左右に立っている。
奥の院には山門、大師堂、弘法大師産湯の井戸、大塔、文殊堂などがあり、
ゆっくり1時間位境内を散策した。
浜風も昨日の様には冷たくなく、穏やかだ。奥の院で残る紅葉を見た。
しばらく歩いて11時過ぎ、同じ多度津の77番札所道隆寺へ
広い境内を本堂に近づくと、参道の両側には観音様がずらりと並んでいる。
参拝者は観音様に見守られながら、お参りに進んでいくことになる。
大師と大師の前にひざまづいて、両手を大師に捧げている衛門三郎の石像も
あった。衛門三郎…何時か詳しく聞いた名前だな~
本堂入り口は金網で覆われていた。これは百羽ほどいる鳩が、本堂に侵入
するのを防ぐためだという。
この日も冬の穏やかな日を浴びて、本堂の屋根に鳩が並んで日向ぼっこを
しているのを見た。気持ちよさそうだったよ!
本堂横に目治し薬師様がおられたので、21日から目の手術で入院ををする
夫のことをお願いする(^_-)-☆
次は予定を少し変更して、早めの昼食に行くことに…
道すがら時々丸亀城が高いところに3層の姿を楽しませてくれる。
土器川という大きな川のほとりの、骨付き鳥の一鶴へ
スパイスがよく効いたひな鳥の骨付きモモ肉をカリカリに焼いたものと、
スープ、おにぎり、それにキャベツのちぎったのが食べ放題という豪快さ!
先達のK師のこの素晴らしいかぶりつきぶり(^_-)-☆
これはひな鳥だが親鳥はめちゃくちゃ堅いが美味しいらしい!
次々に駐車場に入ってくる車を横目に我々は次のお参り
78番札所、郷照寺へ。
12時半ころ、バスを降りて少し歩くが、寺のふもとに地蔵餅と言われる
大福の美味しい店があるというので、まだお腹が大きいよな~と言いながらも、
みんなが覗き込む! ま~何と食い意地の張った仲間たちの姿よ…(^_-)-☆
お参りした帰りに…と先達さんが仲間のお接待に
20個の大福を注文をしておいてくれる。
本堂は約400年前、江戸初期に再興されたもの。
屋根の形は、東大寺など奈良の寺院によく見られる奈良様式の造りで、
札所中でも珍しいそうだ。屋根には金の鴟尾も見える。
大師堂は本堂の脇の石段を登った所にある。
建物は大正時代に再建されたものだというので新しい。
お堂の中に入れるよう開放してあるので、大師像を間近で参拝できた。
天井絵も木彫りで色鮮やかだ。
また参道脇には、地下のお掌に3万体の観音像を納めてあるといわれる
万体観音洞がある。
お堂の中を反対回りした先達さんが薄暗がりの中を回ってきた仲間に
「ワッ!」と飛び出して驚かせる!
なんというお参りの団体だろう(^_-)-☆
庭園は京都の寺院かと思うくらい立派で、池を巡って残る紅葉の景色にホッ!
お参りの帰りに買った豆大福を、まだ満腹状態の皆がバスでご馳走になる!
このお遍路の旅は帰宅する度にと体重が増えているはずだよね…(^_-)-☆
1時20分ころ、79番天皇寺へ到着。
保元の乱にやぶれた崇徳上皇は讃岐へ配流され、この地で崩御。
都から葬儀の指示があるまで棺は当寺に安置されたという。
その後、上皇の冥福を祈願して崇徳天皇社が建立され、
当寺はその神宮寺となった。
天皇ゆかりの寺ということで「天皇寺」と呼ばれるようになったという。
その後、3万坪の広大な境内をもつ寺となったが、
天正年間に兵火にあい焼失。
跡地に摩尼珠院筆頭末寺の高照院が移転し、本尊を移して「天皇寺高照院」と
号したらしい。このため地元では「高照院さん」とも呼ばれているという。
天王寺は仁王門がなく、崇徳上皇を慰める為に建立されたと言う同じ敷地内の
白峰神社の赤い鳥居を潜って入る。
鳥居を入ると参道正面に白峰宮、左手に本堂と大師堂が棟続きで、
並んで立っている。讃岐という土地の歴史、悲運の上皇など
いろんな思いでお参りした寺と神社である。
この本殿横を通って抜けると八十場(矢蘇場)の泉(やそばのいずみ)がある。
日本武尊は、悪魚退治のためにこの地にやってきたが、悪魚の毒で
日本武尊は88人の兵とともに倒れてしまったらしい。
そのとき横潮明神が泉の水を持って現れ、その水を飲むと日本武尊と
88人の兵たちは回復し、その後この泉から汲まれた水を人々は、
「八十八の水」「八十場の水」と呼ぶようになり、
今でもコンコンと清水が涌いている。清水を使ったところ天の美味しい店が
あるらしいが冬場のためか休業。
もし開いていても、いくらなんでももう食べれないよね~(^_-)-☆
ここを過ぎて80番札所、国分寺までの7キロを当初は歩く予定だったが、
午前中の海岸寺で時間超過で予定が狂ったということで、途中まで約5キロ
街中の民家の中、舗装道だが歩くことに…
国道沿いのコンビニでバスに拾ってもらい2時半過ぎ国分寺着。
天平13年、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する詔勅を出され、
この寺は行基菩薩が建てた讃岐の国分寺で行基が開基したと言う。
本尊の「十一面千手観世音菩薩像」は行基菩薩の作。
国分寺山門 青銅の瓦ぶきの見事なもの。門の左の松が見事!
この辺りは松の盆栽の産地だということで周りにもそんな畑が多かった。
余談だが、そういえば下水口のふたの模様が盆栽の松だった(^_-)-☆
国分寺本堂は鎌倉時代の再建で重要文化財に指定されている。
橋を渡ると正面に入母屋造りの本堂がある。
昔の建物の礎石が並び、松の木が並ぶ広い境内だ。
大師堂は本堂に向かって右手に多宝塔のような二重塔があり、
塔の部分が大師堂、手前の建物の中が納経所と、線香やみやげもの売場。
大師堂へは納経所の中からおまいりするようになっている。
この門を出るときに掲げられてあった張り紙。耳と胸の痛い言葉がいっぱい!
ちょっとピンボケだが参考のために…(^ム^)
寺の横手に国分寺跡の遺跡があるので見に寄る。
旧国分寺伽藍想像模型…多分10分の1の模型だという説明だったと思う。
僧房跡礎石
建物の中 西安の兵馬傭の遺跡を見た時を思い出す感じに見下ろす。
奈良の平城京を見ているような、当時の壮大な伽藍を想像してはるかな時代に
思いを巡らしたひと時。
いつの時代にも人手、奉納金など地区の人民の負担が大きかったことには
変わりがない…説明のテープはこう結んでいた。
4時前遺跡後を発ち、高松道に乗り帰阪。渋滞もあり8時前梅田到着。
長い長い1日が…いろんなことが見聞できた2日間がおわる。
昨日より今日の寒さが和らいでよかった! 無事に9時帰宅<m(__)m>