半月ほど前に、東京に住む小学校の同窓生3人が、震災後ようやく気分的に
落ち着いたので揃って菖蒲を見に行ってきました…とメールをくれました。
葛飾の「堀切菖蒲園」だそうです。
その後、帝釈天の辺りをブラブラしました…と言うことだったので、
あの辺りなら亡き兄に2~3回「川甚」と言う川魚の料亭に連れてもらった
懐かしい所だ…というメールを送り返しました。
大きな風格のある「川甚」のビルがあったよ!とまた返事をくれました。
多くの文学者がひいきにした店だ…と兄が自慢げに連れてくれたことでした。
あの時のマッチを夫が長く取っていたように思ったので、今回探したが
見つかりませんでした(^_-)-☆ もう20年近く前だものね~
それから先日、『子規、最後の八年』終章を読んでいたら、
明治44年、子規没後9年の8月に、子規旧知の者たちが親睦を兼ねて
「子規庵」の維持や子規の家族のことなどを相談するために集まったとある。
そこが東京郊外葛飾、江戸川に面した料亭「川甚」であったらしい(*^_^*)
寒川鼠骨、内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、河東碧梧桐、高浜虚子など
子規と親しかった8名。
子規没後も正岡家には「ホトトギス」から月10円の援助が続けられていた
様だが、日露戦争後の社会はなかなか暮らしにくく、妹、律がこれ以上
子規庵の維持をしかねるから東京をたたんで松山に帰ろうとか思うと相談が
あったらしい。
そんな相談をした場所が「川甚」で、その集まりのおかげで今も
「子規庵」が保存されていると思うととても大事な場所だったことになる。
いろんなことが重なり「川甚」を真ん中に亡き兄を思い、子規のことを思い
感慨にふけった数日だった。
他にも夏目 漱石 「彼岸過迄」より
…敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの
帆かけ舟だのを見廻した。……二人は柴又の帝釈天の傍まで来て
「川甚」という家に這入って飯を食った。
幸田 露伴 「付焼刃」より
…汀の芦萩は未枯れ果てゝいるが堤の雑草など猶、地を飾っている。
水に臨んでいる「川甚」の座敷は……。
田山 花袋 「東京の郊外」より
…藍のような水に白帆がいくつとなく通っていくそこには、「川甚」という
川魚料理店がある。
谷崎 潤一郎 「羹」より
…巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に川甚と
記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。
尾崎 士郎 「人生劇場」より
…道が二つに分れて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の川甚)の
門へ続く曲り角まで来ると吹岡は立ちどまった。
林 芙美子 「晩菊」より
…晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んでくる。
こっとんこっとん水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。
松本 清張 「風の視線」より
…車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍らしいしゃれた玄関の
前庭にはいった「川甚」という料亭だった。
などなど兄が言っていた文学者が続々「川甚」を訪ね文章に残している。
あの頃もっと興味を持って話を聞いて喜んであげたら、兄ももっと連れて
行き甲斐があったというものだったろうに…今さら悔やんでもね~(^_-)-☆
あの寅さんの銅像はまだあの頃なかったみたい…