博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『日本政治思想史[十七~十九世紀]』

2011年10月22日 | 日本史書籍
渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』(東京大学出版会、2010年)

江戸時代から明治にかけての日本の政治思想史をまとめた本ですが、著者の専攻が中国思想史の方面にも関わっているということで、類書とはかなり趣の違った内容になっており、なかな面白い指摘が多いです。例えば科挙制度導入の可能性がない江戸時代の日本で儒学が広まるのは実は危険なことだったとか、中国で「公用」とは、誰でも使える、誰もが使うという意味であるとか…… 以下、例によって面白いトピックを挙げておきます。

日本人と儒学
江戸時代の儒学者は、日本では儒学の「聖人の道」が広まっていないにも関わらず、どうして天下太平を保っているのかということについて真剣に思い悩んでいた。それに対する服部南郭の結論は……「それは……日本人が中国人より優れているからなんだよっ!」「な、なんだってーーーー!!」

黙ってても年貢が入ってくるのってやっぱり異常じゃね?
そして本書でも農民がどうして従順に年貢を納め続けたのかが問題に。(この項については「黙ってても年貢が入ってくるのって異常じゃね?」を参照。)著者の推測によると、おそらく農民自身が過酷な処罰を恐れていたから、あるいはは百姓とはそういうものだと信じていたから。……やっぱり怖い人にボコボコにされるから、もしくは昔からの習慣なので何となくということじゃないかっ!w 

日本は小国か?
18世紀の日本は3000万を越える人口を擁しており、世界的には巨大であると言える。にも関わらず自らを小国と見なしていたのは、大国としての比較の対象がカラと天竺だったからである。

このあたりの根拠のない小国意識は今でも変わりませんね。考えてみれば人口1億人を越える国家や、日本より人口の多い国家が世界でどれだけあるというんでしょうか。いわゆる先進国に限っても、西欧諸国など日本より人口が少ない国が多数を占めるんじゃないかと思うのですが。にも関わらず、今の日本が何となく小国であるというイメージが流布しているのは、比較対象がアメリカ・中国・ロシアあたりに限定されているからじゃないかなあと。

蘭学者と「支那」
学ぶ対象を「中華」から西洋に切り替えた蘭学者たちは、もはや大陸のことを「中華」、すなわち世界の中心とは呼べなくなり、オランダ語からインド由来の「支那」という呼び方を取り入れた。これは同時期に使われ始めた「皇国」という自称と対をなした。

これは前に読んだ『江戸の思想史』でも同様のことが指摘されていましたが、蘭学のダークサイドを見てしまった気分になります……

幕末の尊王攘夷と現代中国の反日
明治維新は当時の社会にあって最も鬱屈を抱えていた下級武士による革命だった。で、彼らが信奉した尊王攘夷の思想だが、これは西洋人や西洋文明に対する反発というよりも、当時の政府(すなわち江戸幕府)に対する抗議の表明であり、彼らは政府を苦しめ、打倒するための手段として攘夷思想を利用した。

この構図って、現代中国における反日と似てますよね。反日暴動も政府や官憲に対する不満の表明、あるいは嫌がらせとしての側面が見られますし。自らの存在意義にも関わる問題なので政府が表立って反日を否定できないというのも、江戸幕府と攘夷思想との関係に似てるなあと。

以下は本書401~402頁からの引用。「『ご威光』でいかめしく輝いていた『幕府』を『尊王』を掲げて罵れば、溜飲が下がったであろう。『攘夷』のできない臆病で『不忠』な『幕吏』を脅迫し、『天誅』を下すのは、快感だっただろう。『公論』に従えと叫んで、家中の『門閥』をやりこめ、さらには『藩主』までをも操作するのは、小気味よかったことであろう。『志士』たちの居丈高な姿勢と往々サディスティックな暴力の背後には、ルサンチマンと『正義』の結合があったのであろう。」

読んでて何だか泣けてきた(;´д⊂) 尊王攘夷派の志士だけでなく、新選組の隊士たちの心性もこれと似たり寄ったりだったのだろうなと。
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『河内源氏』 日本の歴史に残るDQNたち

2011年09月30日 | 日本史書籍
元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年9月)

河内源氏というのは清和源氏の一派で、大江山の鬼退治で知られる源頼光の弟頼信の子孫を指し、源義家や頼朝・義経などもこの系統に属します。この河内源氏について概括したのが本書ということですが、例によって武士=DQNという印象を更に強める結果に…… 以下、本書で印象に残った部分について挙げておきます。

「この当時、武士と貴族の境界はきわめて曖昧なものであった。」(本書19頁)
貴族のDQNな部分が強調されたのが武士というわけですね、わかりますw このあたりは以前に読んだ繁田信一『殴り合う貴族たち』とも内容的にリンクしますね。

「東国は実力がものをいう自力救済の世界」(本書22頁)
もはや武士の世界は修羅の国であるとしか…… 著者は「やっぱり武士がやくざと一緒、などという短絡的な議論」などと言ってますが、どう見てもやくざと一緒です。イヤ、やくざの方がまだ文明的だと思います……

八幡太郎義家の評価
源義家の死の直後、藤原宗忠は『中右記』において「武威は天下に満ち、誠にこれ大将軍に足る者なり」と褒め称えた。ところが2年後、義家の子義親が反乱をおこして討ち取られると「義家朝臣、年来武士の長者として多く罪なき人を殺す。積悪の余、ついに子孫に及ぶか。」と、評価は一変。人を持ち上げておいていきなり落とすというのは日本人の昔からのお家芸だったんですね(^^;)

恐怖の義親伝説
その源義親ですが、平正盛(清盛の祖父ですね)によって追討されてからも、20年以上にわたって各地で「我こそは義親である」と自称する偽物が何度も出現したとのこと。……死んでからも脅威を与え続けるとは、源義親というのは恐怖の大魔王か何かなのでしょうか。で、京の都に自称義親が出没した時に生前の妻や関係者を集めて首実検が行われ、多くの人が「義親ではない」と証言する中、本物の義親だと証言する人もいたというのが何とも……

源氏の棟梁
しかし河内源氏でDQNであったのはこの義親だけではなく、と言うより河内源氏そのものがDQN一族であったと言った方が適切なありさま。いやもう、河内源氏の面々がDQNすぎて読み進めるのが辛い(^^;) このDQN一族同士が源氏の棟梁の座をめぐってまさに血で血を洗う抗争を繰り広げ、最終的に頼朝の父義朝の手によって長年にわたる一族の内紛が克服され、嫡流の地位が確立されていくわけですが、この時代、嫡流だから偉いのではなく、偉いから嫡流なのだということが本書を読んでよく分かりました。
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黙ってても年貢が入ってくるのって異常じゃね?

2011年09月25日 | 日本史書籍
タイトルを見て何かと思われたでしょうが、新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社学術文庫、2009年)の話です。

本書の中で「中世の人々がなぜ領主に毎年年貢を支払ったのか、その理由は本当のところ判っていない。」という一文があるのに思わず笑ってしまったわけです。

本書では一応有力な解釈として、領主が農業再生産の条件を整える見返りとして農民が年貢を納めるという契約的な関係として発生し、それが慣習として制度化していったという説を紹介してますが、どうにも煮え切らないものを感じます。年貢を払わなかったら怖い人たちが押しかけてきてボコボコにされるからという理由じゃダメなんでしょうか(^^;)

そして後文でも、ヨーロッパ中世の封建諸侯が年貢の確保のためにエラい苦労をしたのに対し、日本の荘園領主が所領から遠く離れた畿内に暮らし、かつ自前の組織的な軍事力を持っていないにも関わらず、遠隔地の所領からちゃんと年貢を確保できていたのが何故なのか実はよく判らないとコメントしています。

著者はその理由を解明する鍵として、人々が特に疑問に思うわけでなく年々繰り返されるパターンを前提として動くという「予期可能性」が挙げられるかもしれないとしていますが、これって要するに昔からの慣習なので何となく年貢を納めているということですよね(^^;) 日本人が当たり前のことを当たり前のこととして疑わないというのは昔からのことなんだなあと思ったり……
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『太平記〈よみ〉の可能性』

2011年09月21日 | 日本史書籍
兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫、2005年)

『平家物語』のパロディ、あるいは宋学的名分論の体現の場としての南北朝時代から『太平記』の枠組みに規定される江戸幕府、そして水戸藩による『大日本史』の編纂に至るまで、「物語が現実をつくる」さまを描き出すというのが本書のテーマですが、この「物語」という言葉には「もうそう」「ファンタジー」「イデオロギー」等々、いろんなふりがなをつけることが可能だと思います(^^;)

実はこの本、初読ではなく再読なのですが、改めて読み返してみても「南北朝時代とは、かならずしも事実として存在したのではない。」とか「名分論の思弁がまずあって、しだいにそれに対応する現実がつくられたのが、このすぐれてイデオロジカルな時代の特徴である。」といった文章はなかなか心にくるものがありますね。

特に本書で扱われている由井正雪の乱の顛末はあまりに厨二すぎて読んでいて胸が痛くなってきますが、そもそも『太平記』自体が日本人の厨二な部分を必要以上に刺激する危険な書ということなのかもしれません……
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『日本の歴史00 「日本」とは何か』

2011年09月13日 | 日本史書籍
網野善彦『日本の歴史00 「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年11月)

講談社が2000年頃に刊行した『日本の歴史』の文庫版ですが、いつの間にかこのシリーズ、文庫化されていたんですね。本書は特に網野氏の研究の集大成的な内容になってます。ネタ的にも面白い話がいくつか見られたので、ここでは特にその中から2つ紹介してみます。

ネタその1

「日出ずる国」という意味の「日本」という国号が中国の側から我が国を指す呼び方であり、そのことから「日本」という国号が大嫌いだという江戸後期の会津の国家神道家佐藤忠満の意見を紹介する網野氏。そしてNHKの番組で、一部の支配者が決めた「日本」という国号は国民の総意で変えることができると発言。それに対して視聴者から「日本が嫌いなら日本から出て行け」というお叱りを頂戴しますが、それに対する網野氏の反応は……

「こうした立場に立つあなた方こそ、この国家神道家の意志を継承して『日本』という国号が大嫌いだと言うべきであり、また中国側に視点を置いた『日本』という国号の変更運動をおこされるべき。」……一応理屈は通っているのですが、通っているだけに腹がよじれるほど笑ってしまいました(^^;) しかし同時に、世界の国の中で一部の支配者が決めたものではない国号が果たしてどれだけ存在するのかという疑問も浮かんでくるわけですが……

また、本書では平安時代の貴族紀淑光の、「『日本』が『日の出るところ』という意味であるとすると、我が国は確かに唐の国から見ると太陽が昇ってくる東の方角に位置するわけだが、この国にいて見ると、太陽は国の中からは出ないではないか。それなのになぜ『日出づる国』ということになるのか」と、「日本という国号はよく考えるとおかしいんじゃね?」という疑問を述べていることを紹介しています。『日本』という国号に関する議論というか疑問は割と古くから存在したわけですね。

ネタその2

江戸時代の「日本国」に対する認識として、春画の文章や川柳まで史料として引用する執念には脱帽です。しかし「男性の快美の絶頂」の表現として「日本国がひとつになって、身うちが解けて、煮こごりになるようだ」とか「逆鉾の先々へ日本の寄る如し」なんて文章を引用しているのを見ると、余裕で腹筋崩壊できるのですがwww でもこういうのを見ると、割りとマジな意味で歴史学の可能性を感じてしまいますね(^^;)
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『戦国時代の足利将軍』

2011年09月07日 | 日本史書籍
山田康弘『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2011年7月)

戦国時代の足利将軍は有名無実の存在などではなく、大名に対してなお相応の影響力を発揮しており、大名の側も領国での在地化を進めながらも、なお足利将軍の権威を必要としていたというのが本書の主旨。

日本の戦国時代を語るのに「国連」とか「国際政治」、「リベラリズム」や「コスモポリタニズム」といったキーワードがポンポン出て来るあたり、かなり異色ですが、従来の戦国時代史は「分裂」や「群雄割拠」という側面を強調しすぎていたという主張には賛同できます。室町幕府という前提があってはじめて江戸幕府や「徳川の平和」が生まれてくるという発想はごく自然なものであると思います。 

また一口に乱世とは言っても、南北朝時代なんかと比べると戦国時代にはまだ秩序への志向のようなものが感じられるのも事実。戦国時代はやっぱり近世への入り口だったんだろうなと思うわけです。

更に日本に限らず、中国の東周期、特に春秋時代の周王も戦国時代の足利将軍と同じような役割を担っていたのではないかとか、本書を読みつつ色々なことを考えさせられました。
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『古代国家はいつ成立したか』/『江戸将軍が見た地球』

2011年09月04日 | 日本史書籍

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書、2011年8月)

本書のテーマとなっている古代国家というのは日本の古代国家のことですが、本書を読んで文献史学と考古学の両立ってて一体何なんだろうなと、何となく思いました。個人的には、本書に引用されている石川日出志氏の、文献史学と考古学が現時点で同一の解釈にあるよりも、異なる意見を持ちながら議論を戦わすことが今後の発展に導くという意見に強く賛同します。要するに考古学の成果を文献の知見にムリに擦り合わせる必要は無いと。

本書の場合は著者が考古学の専家ということで、どちらかというと考古学の成果をメインに据えて話を展開させており、文献・考古のバランスが割と取れている方ではないかと思いますが、それでももっと文献の比重を軽くしてもいいんじゃない?という気がしないでもないです。

あと、朝鮮半島の前方後円墳は時代的に見て日本から伝わったもんじゃない?というツッコミには(的確なツッコミだなあという意味で)思わず笑ってしまいました(^^;) 朝鮮半島のものが6世紀のものであるのに対し、日本のは3世紀から存在するので、どう見ても日本のが先だろうという話なんですが……

岩下哲典『江戸将軍が見た地球』(メディアファクトリー新書、2011年8月)

江戸幕府の歴代将軍が海外情勢に関する情報をどう受け取ったかという本なんですが、書中で紹介されている不干斎ハビアンの生涯がカオスすぎます……

不干斎ハビアンは戦国期から江戸初期にかけての人で、元々は臨済宗の寺で修行していましたが、18歳の時にイエズス会に入信し、22歳で日本人イルマン(修道士)となります。以後、キリシタンのイデオローグとして仏僧や儒者の林羅山らと討論したりし、評判となりますが、ある時に突如としてイエズス会から出奔して行方をくらまします。失踪の原因については女性信者と恋に落ちたためだとか、イエズス会の内情に嫌気が指したからだとか諸説あるようですが……

そして失踪から11年後。彼は反イエズス会論者として世に舞い戻り、今度はキリシタン弾圧を進める幕府側のイデオローグとして活躍することになります。で、ハビアンは『破提宇子(デウス)』を著述するのですが、本書ではこの本について、「反キリシタンのお手本となった共に、信者を棄教させるうえで格好の脱洗脳マニュアルとして使用された」と説明しているのですが、「脱洗脳」という表現に笑ってしまいました。要するに日本でのイエズス会宣教師の布教活動とは洗脳にほかならなかったということでしょうか(^^;)
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『昭和史 戦後篇1945-1989』

2011年07月27日 | 日本史書籍
半藤一利『昭和史 戦後篇1945-1989』(平凡社ライブラリー、2009年6月)

同じシリーズの『戦前篇』に続いてこちらも読んでみることに。ただ、ネタとしては『戦前篇』の方が面白かったなあと。タイトルに『戦後篇1945-1989』と銘打ってありますが、実際は昭和47年(1972年)の沖縄返還のあたりまでの話が中心です。以下、本書で面白かったネタ。

1 日本国憲法制定
1945年10月にマッカーサーと会見した近衛文麿。この時にマッカーサーが近衛に憲法の改正を要求したとされますが、実は「constitution」(ここでは(政府の閣僚などの)構成という意味。Constitutionと大文字にすると憲法の意味となる)という言葉の通訳上の取り違いにより、憲法の改正など全く考えていなかったマッカーサーが会談中に改正の必要性に思い至り、また近衛が自分がマッカーサーから憲法改正の仕事を委任されたと思い込んだという説があるそうな……

で、近衛は京大出身の憲法学者佐々木惣一を起用し、松本委員会案などと比べてかなりしっかりした憲法草案を作らせたということですが、この近衛がA級戦犯に指定されるに及んでGHQが「あんたに憲法改正を任せた覚えはない」とぶっちゃけ、佐々木案も闇に葬られることに。その後はご存知のように近衛は東京裁判でA級戦犯として裁かれることを苦にして自殺…… 憲法改正をめぐる話を読んでると、カオスすぎてもう何が何だかという気がしてきます(;´д⊂)

2 東京裁判
その東京裁判ですが、連合国側は当初ナチス・ドイツに対するニュルンベルク裁判と同じような感じで裁判を行おうとしたのですが、ヒトラーをはじめとして責任の所在が極めて明確であったドイツと比べて、日本の場合は首相・閣僚・軍事指導者がコロコロ変わっており、戦争責任の所在が極めて不明確。しかも諸事情により昭和天皇は戦犯として扱わないというのが規定の方針であったので、誰にどの責任を押っつけるかで色々難儀したとか…… 指導者がコロコロ変わって責任の所在が不明確……今と大して変わってませんね。

しかも2年半ほどかけて長々と裁判を行っている間に、米ソの対立が深まるなど世界情勢が緊迫してきて仲良く裁判で検事をやっている場合ではなくなり、A級戦犯を28人裁いたところで、後に首相となる岸信介ら残るA級戦犯容疑者はみな無罪放免ということにし、裁判を強制終了。A級戦犯として処刑された人々と生き残った人々との差は紙一重だったんだなという気が……

3 昭和天皇とマッカーサー
昭和天皇は昭和20年9月から26年4月まで11回にわたってマッカーサーと会談を行い、この会談の内容が随分と占領政策や戦後の体制づくりに影響したということで、本書では戦後日本の占領期間は昭和天皇とマッカーサーの合作であると評価しています。ちなみにこの会談の内容は双方が秘密にするという約束を交わしており、昭和天皇は約束を守って終生会談の内容を口外することはなかったということですが、マッカーサーはお喋りで、帰国後にちょこちょこと秘密をバラしていたらしい。……マ、マッカーサーさんっ!!(´;ω;`)

4 おまけ
「この作者の鋭敏げな感覚はジャーナリストや興行者の域を出ていない。決して文学者のものではないと思っている。また、この作品の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。」これは何かというと、石原慎太郎が芥川賞を受賞する時の選考会での佐藤春夫による論評です。当時にあっては佐藤春夫は新しいセンスが分からない頑迷な人物と見られたのではないかと思いますが、今となってはこの評価はいいところを突いていたんじゃないかという気が……
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『昭和史 1926-1945』

2011年07月14日 | 日本史書籍
半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー、2009年)

文字通り昭和史のうち太平洋戦争の終結までの流れを押さえた本ですが、当時の政治家とか軍人のアレッぷりにいしいひさいちの『鏡の国の戦争』を活字で読まされている気分になりました。でもあっちは漫画ですが、この本に書かれているのは現実なんですよね(´・ω・`) で、本書の中で色々と面白いエピソードが取り上げられていたので、以下にそれを紹介しておきます。

1 ゴーストップ事件
昭和8年、大阪で陸軍の一等兵が信号無視をして道路を突っ切ったところ、大阪府警の巡査が捕まえようとして殴り合いとなる。陸軍側は「たかが信号無視ぐらいでガタガタ言うな!誰に向かって口聴いとるんか分かっとんのか、オラ!」とゴリ押しで大阪府警に謝罪させようとしたものの、府警側は屈服せずに「陸軍か何か知らんけど信号ぐらい守れや、ボケ!」とブチ切れ、陸軍・府警双方の幹部や大阪府知事まで巻き込んだ大騒動に発展。事の次第は天皇の耳にまで入り、結局大阪府警や大阪府にはお咎めなしの一方、陸軍側の幹部が待命処分を下され、陸軍側が悪かったという形で事件は終幕。……大阪人、半端ないな。

2 二・二六事件
戦後になって二・二六事件に関わった四名の青年将校の生き残りにインタビューした著者。岡田啓介首相・鈴木貫太郎侍従長ら天皇の側近を殺害しようとした青年将校たちですが、著者は「彼らを何も殺そうとする必要はなかったんじゃないですか?銃剣で脅してどこかに監禁するだけでも充分だったのでは?」と質問したところ、四人そろって「そうなんだよなあ」と返答。……エエエエェェェェ(´Д`)ェェェェエエエエ 今更それはない……

3 中国の農村で
日中戦争の時に河北省無極の郊外東陽村では村人が自警団を組織して日本軍を追っ払おうとしていたが、この時に攻め込んだ日本軍中隊の隊長が人格者で、村人たちと仲良くなってともに共産党の軍を追っ払ったりした。……( ;∀;)イイハナシダナー そしてこの中隊が別の中隊と交替することになったが、新しくやって来た中隊がタチが良くなかったので、今度は村人たちは共産党軍と手を組んで日本軍を追っ払った。……( ;∀;)イイハナシダナー

4 日独伊三国同盟
ドイツから日独伊三国同盟の締結を打診された時、日本側はこの同盟を結ぶべきか否かで大もめに揉め、首相・外務大臣・大蔵大臣・陸軍大臣・海軍大臣による五相会議が七十回以上開かれて話し合いがなされた。そして日本が半年もの間グダグダやっている間に、ドイツは日本が敵国となると見なしていたソ連ととっとと独ソ不可侵条約を結んでしまい、日本側を唖然とさせる。ドイツ側の言い分。「こっちが早く三国同盟を結びたいと言ってるのに、半年もgdgdやってるそっちがワリいんだよっ!」

5 ノモンハン事件
ノモンハン事件は、実は前線での戦闘だけを取りだしてみれば日本側の大敗というわけでもなく、かなり善戦していた。ただしこれは指揮官の指導が拙劣なのにも関わらず、一線の兵隊が頑張った結果によるものである。指揮官がヘボだけど前線の戦闘員は優秀……今もあんまり変わってませんね。そして当時の軍部のお偉方の意識は「起きると困るようなことは起きないことにする」……やっぱり今と変わってない。
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『『古事記』神話の謎を解く』/『古典を読む 太平記』

2011年05月29日 | 日本史書籍
西條勉『『古事記』神話の謎を解く かくされた裏面』(中公新書、2011年2月)

『古事記』はあちこちから神話の断片を寄せ集めて作られたもので、個々のパーツは古いものも含まれるが、全体としては「日本」という国家の創世神話として新しく作られたものである。『古事記』は民間の神話をそのまま採録した素朴な書物ではなく、全体が一続きの物語となった極めて合理的な書物である。これが本書の主張です。個々の論については「?」と思う所も無いではないですが、全体の主張としては大体オッケーじゃないかと思います。

『古事記』では民間で古くから親しまれていた要素をネガティブに扱っており、例えばアマテラスの権威を高めるという全体の構想の必要上から、常に二柱で行動するとされていたオオナムチとスクナヒコナのコンビを敢えて解消し、オオナムチをオオクニヌシと位置づけ直して単独で行動する神として物語を編成し直したとか、伝統的には死者の国は山の中にあり、生者の国と水平に位置すると考えられていたのが、『古事記』では死者の国を中国風に地下の黄泉の国であるという設定を取り入れてあるといった具合に、『古事記』神話は日本の古い神話や世界観をそのまま継承しているわけではないという主張はある程度頷けると思います。

あとは本書で天孫降臨神話の中のアマテラス・オシホミミ・ホノニニギのモデルがそれぞれ持統天皇・草壁皇子・文武天皇であるとする説をキッパリ否定しているところが気になりますね。神話では天武天皇にあたる存在が見られないという主張はその通りなんですが……

永積安明『古典を読む 太平記』(岩波書店同時代ライブラリー、1998年)

『太平記』は細川頼之が四国から上洛して三代将軍義満の管領に就任するところで天下太平となったということで終了するわけですが、現実にはこれ以後も乱世が続くわけで、物語の結末としてはいかにも取って付けた感じが否めません。

これについて本書では、南北朝の動乱の同時代人である作者が、終わりが見えない動乱の様相に絶望し、また物語としてのオチの付け所に困った結果、投げやり気味に取り敢えずこれで終わりだということにしたためであった(私が読み取った大意)としています。……どんだけカオスな時代だったんだという気がしてきますが…… 

思えば『太平記』は鎌倉時代から室町時代への狭間の時期として、DQN要素とカオス要素が同時に楽しめるかなりお得な物語かもしれません。
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