博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

絵本楊家将 第6章 楊継業殉国(前編)

2012年01月28日 | 絵本楊家将
第6章 楊継業殉国(前編)

遼兵が邠陽で宋軍を大敗させた後、蕭太后は気分が晴れ晴れとし、口を開いたかと思うと、なんと宋の太宗に領地の割譲を要求しました。太宗皇帝は大いに怒り、自ら馬を駆って親征し、邠陽で包囲された恥辱を晴らそうとしました。大臣たちが一生懸命に諫止したので、太宗はようやく怒りを収め、潘仁美に兵を率いて遼を討伐に赴かせることにしました。

潘仁美の軍事的手腕は平々凡々であるものの、太宗が大将をあてがってくれる様子も無く、心の中は不安でいっぱいでしたが、その時妙案が浮かび、楊継業を呼び寄せて先鋒とするよう太宗に求め、太宗は承諾しました。潘仁美はこれは死んだ息子の潘虎の仇を討ついい機会だと思うと、喜ばずにはいられません。

佘太君はこのことを知ると、これが潘仁美の仕掛けた罠であると察知し、にわかに居ても立ってもいられなくなります。六郎の嫁の柴郡主は義母が気をもんでいるのを見ると、彼女を連れて太宗皇帝に謁見に行き、言いました。「どうか徳望の高い大臣にお義父さまを守らせてくださいませ。」太宗は承諾し、呼延賛を監軍に任命して、楊継業とともに出征させるとともに、楊継業には先に雄州に赴かせて兵馬を徴集させることにしました。

宋・遼両軍が黄龍隘で布陣すると、呼延賛は先陣を切り、陣営を飛び出し、激しく罵倒して言うには、「遼の将兵よ、よく聞け!命が惜しければさっさと退却するのだ。さもないと生きては帰れないぞ!」遼将の蕭撻覧が刀を突き出して遼の陣営を飛び出すと、両人が砂塵の舞い上がるほど激しく打ち合いましたが、八十合あまり打ち合っても勝負が着きません。突然、耶律斜軫が兵を率いて側面から突撃してきましたので、呼延賛は前後に敵に挟まれることになってしまいました。

まさに危機一髪という時、東の方で天を揺るがすような怒声が響きました。楊継業が援軍を率いてやって来たのです。呼延賛は大喜びし、二人の猛将は力を合わせて包囲を突破し、あっという間に遼軍をこてんぱんに倒してしまいました。楊継業と呼延賛は兵を率いて意気揚々と軍営に戻ります。

潘仁美はもともとまず呼延賛を始末してから楊継業を罪に落とそうと思っていたのですが、思いがけず思惑が外れてしまいました。潘仁美は思わず怒りの炎が噴き出て、怒鳴りつけて言いますには、「兵を救うは火より救うが如しと言うが、お前は先鋒の身でありながら、どうして戦機を誤ったのだ?」楊継業は弁解して言いました。「陛下が私を雄州に派遣して兵馬を徴集させておりましたので、駆けつけるのが遅れたのでございます。」

潘仁美がどうして彼の弁解を聞き入れたりするものでしょうか。高らかに罵って言いますには、「お前は軍令を遅延させておきながら、更に陛下を持ち出して言い逃れしようとは。」彼は左右の者に命令を出しました。「誰かある、こいつを引きずり出して斬ってしまえ!」兵士が駆けつけて楊継業を轅門へと連行します。

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絵本楊家将 第5章 浴血邠陽(後編)

2012年01月25日 | 絵本楊家将
第5章 浴血邠陽(後編)

潘仁美が言うには、「陛下、ご心配には及びません。楊継業がここからほど近い代州におりますので、救援に駆けつけさせればよろしいかと。」太宗はこれを聞くと、慌てて楊延平に包囲網を突破させ、代州に援軍を求めに行かせました。楊令公は消息を聞くと、息子たちとともに援軍を率い、すみやかに邠陽まで駆けつけます。

遼兵は楊家の父子の凄さを熟知しているので、まず援軍を入城させ、彼らを無惨にも城内に閉じ込めてしまおうとしました。楊継業は敵が戦わずに自ら退いたのを見て、策略が仕掛けられているのを察知しました。しかし皇帝をお救いせねばという気持ちが強いあまり、充分に考えが及ばないまま、兵を引き連れて城内に入ってしまいました。

太宗に謁見して言いますには、「陛下、ここに長く留まっているわけにはまいりませんが、城の外は敵兵に取り囲まれてしまっております。こうなってしまったからには、陛下をお救いするにはひとつしか手がありません。誰かを陛下の偽物に仕立て上げて前門より出て投降するふりをさせるのです。私は陛下をお守りして後門から脱出するようにいたします。」太宗はうなずきました。

この時、大郎楊延平が笑って言いました。「今陛下に危機が迫っておりますれば、私が命を捨ててお救いしたいと思います。」太宗は楊延平が引き受けると必ず命を落とすものとわかっていましたが、他にどうしようもなく、ただ承知するほかありませんでした。

二日目の朝、宋軍が白旗を掲げ、楊延平が太宗に扮し、衆人が取り囲む中で、ゆっくりと西門を出て投降するふりをします。遼国の軍隊は旗を倒して太鼓を鳴らすのをやめ、続々と宋朝皇帝の姿を見にやって来ました。

まさにこの時、楊延平が馬車から飛び出し、雷のように大声で叫び、鏢を飛ばして遼将耶律尚の喉に命中させました。遼兵はこれを見ると突撃してきて、混戦の中で楊延平は韓延寿に槍で突き殺されてしまいました。

楊継業は皇帝を護送して東門までやって来たところ、西の方で怒声が沸き起こるのを聞きました。大郎が生きているのか死んでいるのかわからず、心中忍びがたいものがありましたが、主君が側に控えていますので、ただ悲しみをこらえ、馬に鞭を加えて前進させるほかありません。

五十里ほど進むと、後方で砂ぼこりが飛び散り、遼兵が追いついて来ました。楊継業は即座に決断を下し、息子たちをその場に留めて遼兵を遮らせ、自分自身は太宗と八賢王を守りながら、逃走を続けます。楊家の息子は勇猛果敢に敵を殺し、二郎楊延定と三郎楊延輝は乱戦の中で死んでしまいました。四郎楊延朗は遼軍に生け捕りにされてしまいました。五郎楊延徳は失踪してしまいます。楊家の父子は大宋の君臣を救うため、重い代償を支払うことになったのでした。

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絵本楊家将 第5章 浴血邠陽(前編)

2012年01月24日 | 絵本楊家将
第5章 浴血邠陽(前編)

ある日、太宗皇帝はふと思い立って、五台山にお参りに行きたくなりました。八賢王が言うには、「五台山は遼国の国境と近く、今行かれるのは危険でございます。やはり何年かしてから行かれた方がよいでしょう。」太宗は忠告を聞き入れず、楊継業の子の楊延平を護駕大将軍に任命し、二万の禁軍を引き連れて五台山へと向かいました。

この時はまさに秋空が高く空気が爽やかな頃合いで、一行が五台山までやって来ると、住持の智聡方丈が既に僧侶たちを引き連れて山の外で出迎えに来ていました。太宗皇帝が仏殿に至り、読経が終わると、元和宮で精進料理がふるまわれて宿泊しました。

二日目、大臣たちが太宗皇帝に都に戻るように奏上しました。しかし皇帝は日頃皇宮に籠もりっきりで、外に出る機会が滅多にないものですから、どうしてたやすく戻ることを承知したりするでしょうか。大臣たちは太宗とともに物見遊山をするほかありませんでした。

太宗が山頂に上ると、数え切れないほどの美しい峰々が目に入ります。彼は野草が地の果てまで連なる所を指さして群臣に尋ねました。「あれはどこだ?」潘仁美が言うには、「あれこそが幽州で、風景がたいへん美しうございます。」太宗はこれを聞くと、幽州に遊覧に行きたいという考えがおこり、「さようか、ならば文武百官は朕とともに幽州を遊覧せよ。」と言いました。八賢王は慌てて諫めて言いました。「断じてなりません!幽州は遼主蕭太后の縄張りでございます。陛下が行かれるのは、自分から罠に飛び込むようなものですぞ。」

太宗はそうは考えずに言いました。「朕には千軍万馬の護衛がおる。蕭太后が何をしようと恐れることはない!」大臣たちはもう諫めようとはせず、太宗とともに幽州へと出発するばかりです。一行は幽州からほど近い邠陽までやって来ましたが、前方には砂ぼこりが飛び散るのが見えるのみ。そこへ遼将の耶律奇が兵を率いて行く手を阻みます。楊延平が槍を突き出し馬を鞭打って突進すると、数合も槍を交えないうちに馬首を巡らせて逃走してしまいました。楊延平は太宗を邠陽城まで護送します。

蕭太后は太宗皇帝がやって来たと聞くと、冷笑して言いました。「いい度胸だ!もともとこちらが出兵してやつを討伐しようと思っていたのに、自分からこちらにやって来てくれるとは!」言い終わると、天慶王耶律尚に一万の精兵を率いて邠陽に向かい、宋の太宗を生け捕りにするよう命令を下しました。

耶律尚は兵を引き連れて邠陽城下までやって来ると、水も漏らさぬほど厳重に城を取り囲んでしまいます。太宗はその様子を見てたいへん後悔しました。

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絵本楊家将 第4章 太宗征遼

2012年01月22日 | 絵本楊家将
第4章 太宗征遼

宋の太宗は太原を攻め落とし、北漢を滅ぼした後、また自ら宋軍を率いて幽州に出兵し、大遼を討伐することにしました。太宗は大軍を率いて長駆して突き進み、無人の野を進むように、一気に遼国の都の幽州に攻め込みます。

蕭太后は宋の軍兵が城下に迫っていると聞くと、たちまち驚いて顔色が真っ青となり、ただちに将官を招集して対策を協議しました。彼女は最後に丞相の蕭天佑の意見を受け入れ、耶律奚底と耶律沙をそれぞれ正・副の先鋒に任じ、五万の精兵を率いさせ、城を出て応戦させることにします。宋軍の大本営では、呼延賛が奮い立って自ら先陣をつとめることを志願し、高懐徳が後援となりました。潘仁美は彼らに八千の軍馬を与え、二人は命令を受けると、兵を率いて出陣します。

朝から昼頃までずっと混戦が続き、勝負が着かないというのに、双方の軍馬が持ちこたえられなくなり、それぞれ兵を引き上げ、二日目の再戦を待つほかありませんでした。呼延賛と高懐徳は大本営に戻り、太宗に「遼の耶律沙と耶律奚底は誠に猛将でございますぞ!」と報告しました。太宗は勝利を焦り、二日目は自ら出征することに決めました。

二日目、夜が明けたかと思うと、遼兵は宋軍が大挙して突撃してくるのを目にすることになったのでした。呼延賛は最前線で進撃し、大声で「遼軍の将兵よ、早く掛かって来い!」と叫びました。遼将の耶律沙が出撃し、呼延賛と一騎打ちとなりました。この時、突然宋軍の後方で砲声が響きました。実は、遼軍の将帥耶律学古が精兵を率いて宋軍の後方を攻めて来ており、宋軍はにわかに浮き足だってしまいます。

太宗は情勢が思わしくないのを見て逃走するものの、耶律休哥の部将兀環奴が後方から猛追していきます。宋の軍営の中で楊継業は太宗が危ういのを目にすると、楊延昭に急いで太宗を救援に行かせました。楊延昭は馬を疾走させて兀環奴に追いつき、交戦して二合にもならないうちに槍を胸に命中させ、彼を突き刺して落馬させました。

この時七郎楊延嗣も駆けつけ、急いで太宗を馬に乗せます。六郎は前方で命がけで突撃し、太宗はその後を追い、まさに危機一髪という時に、楊継業・高懐徳・呼延賛が相次いで駆けつけて合流し、ついに包囲網を打ち破り、太宗を護送して無事に定州まで逃れさせたのでした。

太宗が定州に戻って営舎を設けると、諸将がやって来て太宗に拝謁しました。太宗は言いました。「この度はもし楊家の父子がおらねば、朕は危うく命を失うところであった。」そこで彼は命令を下して楊継業を代州兵馬元帥に封じ、また御妹の柴郡主を六郎の妻として婚約させることにしました。そして全軍の将士には鋭気を養い、雪辱を晴らす機会を待つように命令したのでした。

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絵本楊家将 第3章 楊継業帰宋(後編)

2012年01月19日 | 絵本楊家将
第3章 楊継業帰宋(後編)

太宗が軍営に戻ると、八賢王趙徳芳は皇帝の心中を察して言いました。「楊家の父子を投降させることで悩む必要はございません。私が思いますに、間者を河東に忍び込ませ、反間の計を用いれば、楊家の父子を我が大宋に仕えさせることができましょう。」

太宗は喜んでこれを聞き入れました。八賢王はまた太宗に楊光美を推薦し、河東に潜入させて反間の計を実施させることにしました。楊光美は劉鈞の大臣の趙遂が欲深いのを知ると、彼に多くの金銀財宝、絹や錦の反物を贈りました。趙遂ははなから劉鈞が楊家の父子を寵愛するのに嫉妬していたうえに、更に金銭の誘惑もあったので、劉鈞の面前に赴いて讒言をまくしたてました。「楊継業は以前に殿の指示を仰がずに、勝手に宋朝と講和をしましたが、実はやつはその時既に宋朝と私通していたのです。只今宋の軍兵が城下に臨んでおりますが、やつの反逆心は誰もが知るところです。殿はくれぐれも用心をなさるべきです。」

劉鈞は趙遂の讒言を真に受け、しきりに楊継業に出陣するよう促して、楊継業が北漢に対して忠実であるかどうか試そうとしました。しかし楊継業が城を出て戦いを挑もうとし、喉が破裂しそうなぐらいに大声で叫んでも、宋軍からは誰も挑戦に応じようとはしません。楊継業はどうしようもなく、兵を城に引き上げさせるほかありません。はからずも宮殿の前まで来ると、数人の衛兵に捕らえられてしまいました。楊継業はその原因がわからず、大声で驚き叫びました。「私めに罪はございませんのに、どうして捕らえられるのでしょうか?」劉鈞は怒ってわめき立てました。「お前は密かに反逆を企んでおったであろう、私が知らないとでも思ったのか?それなのにまだ罪が無いなどと言いおって、つまみ出して斬ってしまえ!」しかし丞相以下の老臣がみな跪いて楊継業の赦免を求めたので、劉鈞はようやく怒りを収めました。

太宗は劉鈞が楊継業を殺そうとしたと聞くと、楊光美を楊継業のもとに遣わします。彼に対して言うには、「大宋の天下統一は、既に大勢の趨くところとなっています。漢主の劉鈞は凡庸で無能、かつ讒言を真に受け、もう少しで英雄の命を失わせてしまうところでした。貴殿は天朝に帰順し、暗君を捨てて明君に身を投じられた方がよろしいかと。」

それから数日の間、劉鈞は使者を派遣して督戦させるものの、楊家軍には糧秣を与えませんでした。楊家軍は上下で議論が沸き起こり、兵士もやる気を無くしてしまい、少しの闘志も無くなってしまいました。太宗はまた楊光美を代州に行かせ、楊家の父子は主君の命に反抗して逃亡を図っており、漢主の劉鈞は大遼と連合して楊家軍を討伐しようとしていると、流言を広めさせます。この情報が伝わると、楊家軍は蜂の巣をつついたような騒ぎとなりました。楊継業は不安で居ても立っていられなくなり、七郎・八郎と八姐・九妹はともに楊令公に宋朝に帰順して功績を建てるよう勧めました。

楊令公は天を仰いで長嘆し、王貴と相談して決心すると、部下を宋軍へと遣わし、帰順に応じると伝えさせました。

これにより、楊家軍は大宋に帰順したのでした。楊家軍がいなくなってしまうと、北漢王朝はたちまち滅亡してしまいました。

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絵本楊家将 第3章 楊継業帰宋(前編)

2012年01月18日 | 絵本楊家将
第3章 楊継業帰宋(前編)

潘虎が死んだ後、潘仁美は犯人が北漢の楊令公の子であることをつきとめて激怒し、必ずや楊家一門を皆殺しにして息子の仇を討ってやると誓いを立てました。

西暦976年3月、宋の太祖は自ら10万の大軍を率いて北漢を攻めることにし、潘仁美を監軍に任じました。しかし楊継業の率いる楊家軍が無類の勇猛さを誇っており、宋兵は大敗してしまいます。宋の太祖は軍を帰国させるほかありませんでした。

宋の太祖は戦いに敗れて戻った後に病に倒れ、ほどなく亡くなってしまいました。臨終の前に、宋の太祖は皇位を弟の趙光義に譲りました。これこそが歴史上有名な宋の太宗です。宋の太宗は即位した後も、兄の太祖皇帝の遺志を忘れず、この年の春に二十万の兵馬を動員し、兵を三路に分け、呼延賛を先鋒官とし、怒濤のごとく晋陽へと進撃させました。

宋軍の出兵は突然であったので、大軍が晋陽城下に押し寄せて来て、北漢の主劉鈞はようやく宋軍がやって来たことを知ったのでした。彼はたちまち驚きのあまり顔が土気色になり、慌てふためいて文武百官を招集して敵を退けさせる対策を討議させました。文武百官は周章狼狽し、ただ丁貴のみが落ち着きはらい、劉鈞をなだめて言いました。「こうなってしまったからには、命がけで戦うほかありません。陛下はすぐに楊令公を援軍に呼び寄せてください。私めは兵を率いて城を出、宋軍に命を賭して決戦を挑みたいと思います。」

二日目、両軍の前線で、宋軍からは呼延賛が出撃し、北漢の側からは丁貴が自ら出陣して迎え撃ちます。二人は三十合あまり打ち合いましたが、丁貴は次第に力が尽きてしまいました。呼延賛はなんとか丁貴を生け捕りにしようと思うものの、本領を発揮できないでいるうちに、丁貴が隙を突いて馬を走らせ逃げ出してしまいます。宋軍は勢いに乗じて襲撃をかけ、北漢の兵士の大半が死傷者となってしまいました。

まさにその時、楊令公が五郎楊延徳と六郎楊延昭を引き連れ、兵を率いて駆けつけました。五郎は手に大斧を持ち、大声で叫びました。「宋将よ早く退却するのだ、さもなくば自ら身を滅ぼすことになるぞ!」呼延賛は駆けつけたのが誰だかわからず、思わず激怒し、鞭を振るって馬を走らせ、楊延徳に勝負を挑みます。二人は四十合あまり打ち合いましたが、それでも勝負が着きません。呼延賛は心の中で密かに舌を巻き、もう一度戦おうとしましたが、二人の馬はどちらも持ちこたえられなくなってきていたので、両人とも兵を収めて軍営に戻るほかありませんでした。

三日目の朝、両軍の陣に戦鼓が鳴り響きました。楊令公は刀を横たえて馬を止め、五郎と六郎が左右に控えます。宋の太宗は陣前で観戦し、楊家の父子が威風堂々としているのを見て、にわかに惚れ惚れとして才能を惜しむ気持ちとなり、誤って彼らを傷つけるのを恐れて軍を引き上げるよう命令を下しました。

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絵本楊家将 第2章 七郎殺潘虎(後編)

2012年01月15日 | 絵本楊家将
第2章 七郎殺潘虎(後編)

この時突然台上から悲鳴が聞こえましたが、なんと尤天保に潘虎の暗器が命中しているではありませんか。悪辣な潘虎は尤天保が倒れるのを見るや、すぐさま駆け寄って蹴りを十数発食らわし、そうして彼をつかんで演武台から放り投げたのでした。六郎と七郎は期せずしてともに台へと押し寄せ、手を伸ばして触れてみましたが、尤天保は既に息が絶えていました。

この時、潘虎はまた台上で雄叫びをあげました。七郎は居ても立ってもおられず、両足を地面につけ、サッと放たれた矢のように演武台に飛び上りますと、台の下の観客たちは声を揃えて喝采をおくります。七郎は大声を張り上げて言いました。「私は姓は木易、排行は七番目、死んだ好漢のために仇討ちに来てやったぞ!」言い終わると、猛虎が獲物を捕らえようとするがごとく、潘虎へと飛びかかりました。

潘虎は攻撃を避けようとしましたが、七郎が足払いをかけ、潘虎はどうしようもなくドサッと台上につまずき倒れました。潘虎はすぐさま恥ずかしさのあまり真っ赤になり、またもや暗器で七郎を傷つけようとしますが、七郎はとっくに用心をしており、身をかわして潘虎のかかとをつかんで引っ張り上げ、潘虎の靴をつかみ取ります。潘虎は仰向けになって台上に倒れてしまいました。

七郎が靴を引き裂いて見てみると、驚いたことに、靴の先端に鉄の刃物がはめ込まれているのが見えました。七郎は靴を持ち上げ、台の下に向けて大声で叫びました。「観客のみなさん見て下さい、これこそが潘家の若様のやり口です。数十人の好漢の命がこのようにしてこいつの手によって失われてしまったとは、本当に理不尽ではありませんか!」

潘虎はしっぽをつかまれ、恥ずかしさのあまり真っ赤となり、必死に起き上がろうとします。七郎はいっそのこと毒を喰らわば皿までだとばかりに、潘虎の片足を踏みつけ、もう片方の足を肩まで担ぎ上げ、全身にピンと力を込めました。悲鳴があがると、潘虎は既に真っ二つになっていました。

怒りが収まりきらない七郎はまたもや台前にやって来て左右の鉄拳を伸ばし、二本の木の柱を両断してしまい、柱に掛かっていた対聯も音を上げて地面に落下します。この時六郎が馬に乗って駆けつけ、七郎が馬に跳び乗り、台下の観客たちの騒ぎが収まらないうちに、二人は馬を走らせて北へと飛ぶように去って行きました。

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絵本楊家将 第2章 七郎殺潘虎(前編)

2012年01月15日 | 絵本楊家将
第2章 七郎殺潘虎(前編)

冬が去って春が到来し、花が満開となってそろそろ散ってしまうという頃、六郎楊延昭と七郎楊延嗣は武当山で武芸を学んで三年となっていました。彼らは師匠に別れを告げ、代州の我が家へと急ぎます。

二人が何日か進むと、河南洛陽の境までたどり着きました。やんちゃな楊七郎は、大宋の都の汴梁城が非常ににぎやかであると聞いており、見てみたいと思いました。楊六郎もそう思っていましたが、以前に宋の軍と戦ったことがあり、人に見られるのを恐れていました。二人は相談のうえ、城内に入って人に尋ねられたら、自分たちが木易六・木易七であると名乗ることにしました。相談がまとまると、嬉しそうに汴梁城へと駆けて行きます。

汴梁城に入ると、二人は城門の前にお触れ書きがあるのが目に入りました。お触れ書きにはこう書いてあります。「我が大宋の神威を昂揚させ、楊家将を打ち破るため、特に潘虎に命じて酸棗門の外に演武台を設け、武芸を磨き、天下の英雄を募集させることにした。ともに大宋の天下が永久に続くように守っていこうではないか。」

七郎はこれを見ると、怒りで肺が破れそうになりました。六郎は弟がもめ事を起こすのではないかと不安になり、向きを変えて去っていきます。七郎は急いで兄を追いました。二人は街を通り抜けて食堂にたどり着きました。店員はおしゃべりで、二人が潘虎について尋ねると、こう答えました。「あいつですか、あの有名な潘太師潘仁美の二番目の若様で、少林寺での修業から戻ったばかりです。父親の方は朝廷で我が物顔で、息子の方はその虎の威を借りる狐、都でやりたい放題にやってますよ。最近皇帝陛下があいつに演武台を設けさせましたが、あいつは悪辣で、口では武芸を磨くと言いながら、既に何十人もの好漢があいつの手で殺されているんですよ。」言い終わるとぶんぶんと首を振ります。

七郎はこの話を聞くや、顔を真っ赤にして、六郎に対してこう言いました。「オレはあの野郎を引き裂かないと、気持ちが収まらないぞ!」二日目の朝、六郎と七郎は人の流れに着いて行って酸棗門までたどり着くと、演武台の両脇に対聯が掛かっているのが見えました。上の句は「芸は天下に冠たりて敵手無し」、下の句は「功は寰宇を蓋いて威名有り」で、「奉旨会武」という扁額があります。七郎は「あの野郎がこんな大ぼらを吹くとは、よくも舌が回るものだ。」とこっそり罵りました。六郎は弟の怒りが収まらないのではと思い、そっと彼の袖を引っ張り、演武台の北側の人気が少ない場所へと連れ出しました。

しばらくすると、潘虎は殺気をみなぎらせて台へと上り、「命が惜しくないやつはいくらでも上ってこい!」と叫びました。声が消えないうちに、一人の男がさっと演武台に跳び乗って言うには、「拙者は尤点保。わざわざお前のような無頼者を懲らしめに来てやったぞ!」彼がまだ言い終わらないうちに、潘虎は足を揚げて尤点保の急所を蹴りつけます。尤点保は落ち着いて受け流し、二人は五十数合打ち合いましたが、勝負が着きません。

六郎は注意深い人間なので、とっくに潘虎の足に仕掛けがあるのを見破っていました。彼は七郎に言いました。「七弟、私が見たところこの潘虎の脚力は平凡なものなのに、ずっと蹴りを用いている。奴は靴の中に暗器を隠しているに違いない。お前が台に上って腕比べをするならば、奴の両足に気をつけなければいけないぞ!」七郎はうんうんとうなずきました。

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絵本楊家将 第1章 楊門将帥

2012年01月14日 | 絵本楊家将
第1章 楊門将帥

唐朝が滅亡した後の五代十国の時期に、我が国の北方で契丹と呼ばれる少数民族が勃興し、大遼国を築きました。彼らは中原での連年の混戦に乗じて、しばしば南方に侵入し、東は幽州(今の北京市)から西は雲州(今の山西省大同市)に至る十六州の土地を併呑しました。中原で北方の障壁が失われると、契丹人は長駆して直接侵入するようになり、到る所で放火や殺人、略奪が行われ、中原の人々の苦しみは言葉にできないほどでした。この天下大乱の歳月の中で、北漢の国で天下を震わせる抗遼の名将楊継業が現れたのでした。

楊家は代々山西河曲県でくらし、そこでは常に北方の遊牧民族の侵略を受けていました。楊継業は小さい時から父親に着いて抗遼の戦いに参加し、胆力と識見は群を抜き、智勇は人並み優れていました。二十数歳の時、楊継業と妻の佘賽花は雁門関で二万人あまりの遼兵を大敗させ、有名な「雁門関の大勝利」を勝ち取りました。それ以後、楊継業の威名は四海に広まりました。楊継業のいる北漢の国主劉鈞は人材を大切にし、楊継業を加増して中書令とし、かつ金塗りの大刀を与え、彼の妻佘賽花を鎮国夫人に封じました。人々は楊家を敬愛し、楊継業を「金刀楊令公」と呼びました。

楊令公の武芸は世に抜きん出ており、佘賽花の女傑ぶりは男性にも劣りませんでした。俗に虎の父に犬の子はいないと言いますが、楊令公夫婦の子供たちもそれぞれが百人に一人いるかないないかというほどの、衆に抜きん出た才能を持っていました。夫婦からは全部で七男二女が生まれました。大郎楊延平、二郎楊延定、三郎楊延輝、四郎楊延朗、五郎楊延徳、六郎楊延昭、七郎楊延嗣、八姐楊延、九妹楊延瑛に、義子として引き取られた八郎楊延順を加え、楊家は多士済々であると言えましょう。子供たちが成年になると、楊令公夫婦はまた彼らにそれぞれ結婚させましたが、娶ったのはすべて武門の娘で、八姐・九妹を含めて、楊門女将はみな戦争に慣れていました。楊令公夫婦は楊家将を率いて北方の鋼鉄の長城とも言うべき雁門関を鎮守しました。

西暦960年、後周の大将趙匡胤がクーデタをおこし、皇位を奪い取って、宋朝を築きました。彼こそが歴史上有名な宋の太祖です。宋の太祖は雄才大略を具えた皇帝で、即位するや、東西への征討を開始し、分裂して五十年あまりとなる国土を統一しようとしました。十五年の征討を経て、宋の太祖は次々と中原の小国を滅亡させていきましたが、ただ北漢のみは楊家将が鎮守しているので、進軍するたびに大敗を喫して帰還していました。

そして北方の大遼では、実権が野心満々の女傑の手中に落ちていました。彼女こそが12歳の皇帝耶律隆緒の母親の蕭太后蕭綽です。この女性は武芸こそできませんが、知恵は人より優れていて、手腕は巧みで、世にも稀な女中の豪傑です。彼女は自分の弟である蕭天佐と蕭天佑を抜擢してそれぞれ左右の元帥とし、また武芸に巧みな韓徳昌を丞相として、三軍を統率させ、絶えず大宋を滅ぼして中原の主となる準備をさせていました。

千古より伝えられる楊家将の物語はこのような時代に発生したのです。

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絵本楊家将 はじめに

2012年01月14日 | 絵本楊家将
先日twitterで、「最近『楊家将伝記』(原題『少年楊家将』)など『楊家将』ドラマの日本語版が出ている割には、原典の内容を詳しく紹介した本が無い。北方謙三が『楊家将』の小説を出しているが、あれは話の筋からテーマに至るまですべてが別物だし……」という話題が出まして、原典の翻訳は私の手にあまるものの、子供向けの『楊家将』とかなら何とかなるんじゃね?と思い立ち、「そういや中国に留学してた時に『楊家将』の絵本を買ってたわ。これを訳してみるか」と思い立った次第です。

底本にするのは雲南教育出版社が2009年に出版した世界経典文学名著シリーズのひとつで趙蘭輝・申哲宇の改筆による『楊家将』。



このシリーズは全30作中20作がアンデルセン童話・グリム童話など西洋の童話・名作が占めていますが、残り10作は『三国演義』『西遊記』など中国の古典小説が占めており、その中に『楊家将』が紛れ込んでいるというわけです。本の中身は以下の画像のような感じです。



画像ではわかりにくいと思いますが、文章にピンインのフリガナがついています。対象年齢はたぶん幼稚園から小学校低学年までといったところでしょう。子供向けということで、適当にいいように話がまとめられていたり、描写がマイルドになっていたり、原典とは違って「めでたし、めでたし」で話が終わっていたりしますが、大体の話の流れと有名なエピソードを把握する分にはこれでも充分ではないかと思います。

ということでこれを少しずつ訳していくことにするわけですが、本書は全24章から成っており、各章の分量が割とバラバラということで、各章を1~3回ぐらいに分けてアップしていく形になると思います。あと、言うまでもなく更新ペースは不定期です。イヤになったらやめます。と、予防線を張ったところで早速「第1章 楊門将帥」へとゴー!
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