太秦映画村で開催の金庸シンポジウムにむけて、景気づけのためにアップしておきます。今回は第5集から第8集までを鑑賞。
第5集「金庸小説中的悲劇愛情」
「金庸小説は愛情の百科全書」というコンセプトで胡斐と袁紫衣・程霊素、葉二娘と玄慈、蕭峰と阿朱・阿紫・康敏(馬夫人)との恋愛関係について論じています。あんた、そんなに『天龍八部』と蕭峰が好きかとツッコミたくなってきます(^^;) 蕭峰と康敏(馬夫人)との関係が、『水滸伝』の武松と潘金蓮などと同じく、英雄が悪い兄嫁を殺すという図式に則っているという指摘が面白いです。(ただ、康敏の場合は蕭峰ではなく阿紫に殺されるわけですが)
第6集「伝統武侠小説中的武功」
武侠小説によく見られる武功は、実は20世紀に作られたものが多い。『近代侠義英雄伝』等の著者の平江不肖生は内功と外功の概念を武侠小説に取り入れ、また霍元甲の死因を内功の修練に失敗したため(すなわち内傷を負ったため)としている。趙煥亭は内功を外功の基礎とする武術理論を作り上げ、軽功や暗器を武侠小説に導入し、また「武功」という語を創始した。『蜀山剣侠伝』の著者の還珠楼主は神仙劇の世界観と武侠小説とを融合させ、ファンタジックな武器や武功を作り上げた。
白羽と鄭証因は拳法・掌法・軽功・兵器・暗器などの体系を作り上げた。金庸小説でお馴染みの「弾指神通」・「蝦蟇功」も元々彼らがネーミングした武功である。黒社会的な幇会と武侠小説を結びつけたのも彼らで、「武林」の語は白羽が創始した。
第7集「金庸小説中的武功(上)」
金庸小説の武功は視覚美を重視しており、血腥さを感じさせない。これは残虐な場面を敢えて詳細に記述しないという中国文学や映画などの伝統と一致している。これに対して古龍は敢えて血腥さを感じさせるような描写を取り入れている。また、梅超風の九陰白骨爪、洪七公・郭靖・蕭峰の降龍十八掌など、武功や武器をキャラクターの人格・性格と結びつけているのも金庸小説の特徴である。
武侠小説でよく見られる武器のうち、剣は装飾品としての性格が強く、貴族・知識人・名士の象徴である。梁羽生作品の主人公は剣を得物とすることが多い。これに対して刀は実用品としての性格が強く、平民・下層民、あるいは自由の象徴である。古龍作品のキャラクターがよく得物としている。一方で黒社会のやくざ者などは武器を使うのを潔しとせず、徒手空拳による戦いで決着をつけることを好む傾向がある。
第8集「金庸小説中的武功(下)」
『神雕侠侶』の独孤求敗が弱冠前に宝剣を用い、三十歳前に紫微軟剣を用い、四十歳前に重剣(玄鉄剣)を用い、四十歳以後は木剣を用いたというのは、『論語』の「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず……」といった句を踏まえたものである。武侠小説は畢竟、実戦での戦い方を学ぶものではなく、人生の方法を学ぶものである。その他、『天龍八部』第26回の「蕭峰打虎」(完顔阿骨打が初登場するシーン)が『水滸伝』の武松の虎退治を踏まえたものであることなどを論じる。
第5集と第8集で『水滸伝』と『天龍八部』との類似性について語っていますが、そもそも最初にまず段誉が登場し、段誉が蕭峯と出会うと今度はその蕭峯が主役となり、その後は虚竹が主役となるといった物語の構成自体が『水滸伝』のそれを踏襲したものですし、この両作品の比較はもっと突き詰めてもらいたいところです。
それと孔慶東氏、「愛情」をテーマにするとどうにも話が退屈になるのですが、困ったことに金庸作品の愛情をテーマにした回があと2つも残ってるんですよねえ。どうしたものでしょうか……
第5集「金庸小説中的悲劇愛情」
「金庸小説は愛情の百科全書」というコンセプトで胡斐と袁紫衣・程霊素、葉二娘と玄慈、蕭峰と阿朱・阿紫・康敏(馬夫人)との恋愛関係について論じています。あんた、そんなに『天龍八部』と蕭峰が好きかとツッコミたくなってきます(^^;) 蕭峰と康敏(馬夫人)との関係が、『水滸伝』の武松と潘金蓮などと同じく、英雄が悪い兄嫁を殺すという図式に則っているという指摘が面白いです。(ただ、康敏の場合は蕭峰ではなく阿紫に殺されるわけですが)
第6集「伝統武侠小説中的武功」
武侠小説によく見られる武功は、実は20世紀に作られたものが多い。『近代侠義英雄伝』等の著者の平江不肖生は内功と外功の概念を武侠小説に取り入れ、また霍元甲の死因を内功の修練に失敗したため(すなわち内傷を負ったため)としている。趙煥亭は内功を外功の基礎とする武術理論を作り上げ、軽功や暗器を武侠小説に導入し、また「武功」という語を創始した。『蜀山剣侠伝』の著者の還珠楼主は神仙劇の世界観と武侠小説とを融合させ、ファンタジックな武器や武功を作り上げた。
白羽と鄭証因は拳法・掌法・軽功・兵器・暗器などの体系を作り上げた。金庸小説でお馴染みの「弾指神通」・「蝦蟇功」も元々彼らがネーミングした武功である。黒社会的な幇会と武侠小説を結びつけたのも彼らで、「武林」の語は白羽が創始した。
第7集「金庸小説中的武功(上)」
金庸小説の武功は視覚美を重視しており、血腥さを感じさせない。これは残虐な場面を敢えて詳細に記述しないという中国文学や映画などの伝統と一致している。これに対して古龍は敢えて血腥さを感じさせるような描写を取り入れている。また、梅超風の九陰白骨爪、洪七公・郭靖・蕭峰の降龍十八掌など、武功や武器をキャラクターの人格・性格と結びつけているのも金庸小説の特徴である。
武侠小説でよく見られる武器のうち、剣は装飾品としての性格が強く、貴族・知識人・名士の象徴である。梁羽生作品の主人公は剣を得物とすることが多い。これに対して刀は実用品としての性格が強く、平民・下層民、あるいは自由の象徴である。古龍作品のキャラクターがよく得物としている。一方で黒社会のやくざ者などは武器を使うのを潔しとせず、徒手空拳による戦いで決着をつけることを好む傾向がある。
第8集「金庸小説中的武功(下)」
『神雕侠侶』の独孤求敗が弱冠前に宝剣を用い、三十歳前に紫微軟剣を用い、四十歳前に重剣(玄鉄剣)を用い、四十歳以後は木剣を用いたというのは、『論語』の「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず……」といった句を踏まえたものである。武侠小説は畢竟、実戦での戦い方を学ぶものではなく、人生の方法を学ぶものである。その他、『天龍八部』第26回の「蕭峰打虎」(完顔阿骨打が初登場するシーン)が『水滸伝』の武松の虎退治を踏まえたものであることなどを論じる。
第5集と第8集で『水滸伝』と『天龍八部』との類似性について語っていますが、そもそも最初にまず段誉が登場し、段誉が蕭峯と出会うと今度はその蕭峯が主役となり、その後は虚竹が主役となるといった物語の構成自体が『水滸伝』のそれを踏襲したものですし、この両作品の比較はもっと突き詰めてもらいたいところです。
それと孔慶東氏、「愛情」をテーマにするとどうにも話が退屈になるのですが、困ったことに金庸作品の愛情をテーマにした回があと2つも残ってるんですよねえ。どうしたものでしょうか……