兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫、2005年)
『平家物語』のパロディ、あるいは宋学的名分論の体現の場としての南北朝時代から『太平記』の枠組みに規定される江戸幕府、そして水戸藩による『大日本史』の編纂に至るまで、「物語が現実をつくる」さまを描き出すというのが本書のテーマですが、この「物語」という言葉には「もうそう」「ファンタジー」「イデオロギー」等々、いろんなふりがなをつけることが可能だと思います(^^;)
実はこの本、初読ではなく再読なのですが、改めて読み返してみても「南北朝時代とは、かならずしも事実として存在したのではない。」とか「名分論の思弁がまずあって、しだいにそれに対応する現実がつくられたのが、このすぐれてイデオロジカルな時代の特徴である。」といった文章はなかなか心にくるものがありますね。
特に本書で扱われている由井正雪の乱の顛末はあまりに厨二すぎて読んでいて胸が痛くなってきますが、そもそも『太平記』自体が日本人の厨二な部分を必要以上に刺激する危険な書ということなのかもしれません……
『平家物語』のパロディ、あるいは宋学的名分論の体現の場としての南北朝時代から『太平記』の枠組みに規定される江戸幕府、そして水戸藩による『大日本史』の編纂に至るまで、「物語が現実をつくる」さまを描き出すというのが本書のテーマですが、この「物語」という言葉には「もうそう」「ファンタジー」「イデオロギー」等々、いろんなふりがなをつけることが可能だと思います(^^;)
実はこの本、初読ではなく再読なのですが、改めて読み返してみても「南北朝時代とは、かならずしも事実として存在したのではない。」とか「名分論の思弁がまずあって、しだいにそれに対応する現実がつくられたのが、このすぐれてイデオロジカルな時代の特徴である。」といった文章はなかなか心にくるものがありますね。
特に本書で扱われている由井正雪の乱の顛末はあまりに厨二すぎて読んでいて胸が痛くなってきますが、そもそも『太平記』自体が日本人の厨二な部分を必要以上に刺激する危険な書ということなのかもしれません……