信州生坂村「山紫水明 食と文化癒しの郷!」

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長野県治水砂防協会犀川支部視察研修&日岐周辺からの風景

2024年10月03日 | 私の活動報告
 10月3日(木)は雲に覆われた空で、午後は雨が降り出し、一日を通して過ごしやすい体感でした。
 午前7時30分に家を出て、8時に犀川砂防事務所に集合し、木曽郡方面へ長野県治水砂防協会犀川支部の視察研修を行いました。

 最初に、木曽町日義の尻平沢の工事現場に行き、木曽建設事務所の片桐所長はじめ職員各位から説明をしていただきました。

 流域の状況は、流域面積 A=1.56㎢、計画流出土砂量 46,500㎥ 整備率49%→125% 保全対象 人家37戸(内レッドゾーン21戸)、国道19号、県道、鉄道(中央西線)、グループホーム1棟、公民館1棟とのことです。

 事業概要は、尻平沢上流部では大規模な斜面崩壊が発生し、また、流域内には不安定な堆積土砂等が多く土石流発生の恐れがあるため、堰堤新設及び既存堰堤の補強・嵩上げにより下流域の保全を図る事業です。

 当工事現場では、3号の既設堰堤改築(部分透過型)工事が、(H=14.0m L=78.0m V=1,660㎥)(効果量:14,700→24,300㎥)で令和2年度に竣工しました。
 1号の既設堰堤改築(部分透過型)(H=7.70m L=62.0m V=1,155㎥)(効果量:6,900→10,900㎥)は、令和4年度に竣工していました。

 現在は、2号堰堤の新設 JSウォール(透過型)(H=10.0m L=95.0m V=4,778㎥)(効果量:14,700→24,300㎥)で、地盤改良工(固結工)V=828㎥、地盤改良工(置換工)V=1,026㎥の工事を行っていました。

 2号堰堤の堤体はINSEM工法転圧タイプで、発生土を再利用して行っており、基礎処理は、5m掘りその下5mまでを地盤改良するために、エルニード工法により施工位置で中層混合をしていました。


 次に、上松町寝覚の田代沢の工事現場に行き説明を聞きました。
 ここの流域の状況は、流域面積 A=0.07㎢、計画流出土砂量 3,870㎥ 整備率0%→102% 保全対象 指定避難所(上松中学校) 人家50戸(内レッドゾーン6戸)とのことでした。

 砂防堰堤1基(透過型)平成30年度から令和6年度の工事期間で、コンクリートの透過型でH=11.0m L=52.1m V=2,716㎥、スリットタイプ:B型スリット 鋼重20.5t(効果量:3,600㎥)と渓流保全工 L=36mの工事を行っていました。


 こちらも堤体一部はINSEM工法転圧タイプで、発生土を再利用して行っており、現場が急傾斜と狭隘で工事車両の通行などに苦慮されていて、とても大変な工事に感じました。
 また、立派な堰堤の前に並び皆で記念撮影をしました。


 昼食後は、木曽川右岸道路を走りながら当道路の説明を聞き、次の梨子沢土石流災害復旧工事の視察に向かいました。


 梨子沢土石流災害は、2014年(平成26年)7月9日に台風8号の影響で南木曽町読書地区の梨子沢(木曽川支流)で発生しました。豪雨による被害は町内全域にわたり、道路の法面崩落や農地への土砂流入などが発生しました。
 また、死者1名、負傷者3名、家屋全壊10戸や国道19号への土砂流出、JR 中央本線不通などの被害をもたらしました。

 被災した施設の復旧工事や再度災害防止のための緊急工事(堰堤の新設)等を国土交通省、林野庁、長野県、南木曽町が調整・連携しながら進められました。
 国土交通省と長野県は、土石流が発生した梨子沢では、治山ダムや砂防堰堤の新設工事を進めているほか、国交省や県の砂防堰堤でも土砂の除去作業なども実施して、流路工と床固め工事は完成していました。

 梨子沢土石流災害から3年後の2017年、南木曽町は土石流にのまれた家屋があった場所周辺を広場にして芝生を植え、災害を記憶にとどめておくための石碑「平成じゃぬけの碑」を建立しました。

 続いて「桃介橋」に行きました。「桃介橋」は別名「桃の橋」と呼ばれ、電力王と称された福沢桃介が、水力発電開発のために架けた吊橋で大正11年9月に完成した全長247mの日本でも最大級の木橋です。


 昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていましたが、昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていましたが、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元したものです。平成6年(1994年)には国の重要文化財に指定されました。

 次に「悲しめる乙女の像」(蛇ぬけの碑)は、昭和28年(1953)7月20日、伊勢小屋沢で「蛇抜け」(土石流)が発生し、死者・行方不明者合せて3名の犠牲者が出ました。

 碑には「白い雨が降るとぬける」「長雨後谷の水が急に止まったらぬける」「蛇ぬけの前はきな臭い匂いがする」など、この災害によって得られた6つの教訓が刻まれていました。

 山の歴史観(県宝)は、明治33年、旧妻籠宿本陣跡地に「御料局名古屋支庁妻籠出張所庁舎」、つまり皇室直属の施設として建造されました。

 戦後は個人に払い下げられ、移築されたが、国道工事により、立ち退きとなり、町に寄付されました。その後、この地に再度移築され、山の歴史館として、木曽の山林資料展示をメインに公開されていました。

 福沢桃介記念館は、木曽川の発電所開発を行っていた桃介が、別荘として大正8年に建てた別荘で、戦後は教員住宅として使用していたが、昭和28年の裏山土石流で一部被害を受け、昭和35年の火災では二階を焼失してしまいました。

 その後、平屋のまま記念館として公開していたが、平成9年に二階部分の復元を行い、現存の一階部分は、あまり説明板などを置かず、二階に多く置かれているのは好印象でした。

 帰りは、木曽路の国道19号の渋滞にあった後、伊那木曽連絡道路も車内で説明を聞きながら通過し、岡谷ジャンクションの工事でまた渋滞にはまり、予定より30分ほど遅れて犀川砂防事務所に無事に着きました。

 木曽建設事務所の片桐所長はじめ関係の皆さんには、何かとお忙しい中、詳細に分かりやすく説明をしていただくなど、我々の視察に対し丁寧にご対応くださいまして心から感謝申し上げますとともに、犀川支部構成の市町村の皆さんには、引き続きのご理解とご支援をお願いいたします。
日岐周辺からの風景


△▽ 毎朝出勤前恒例の撮影は、犀川対岸から雲が多めの上空から日岐と生坂ダム湖などの風景を撮影しました。


 本日生坂村では、小学校で音楽会特別時間割開始、中学校で3年標津町中学生見送り、上土ふれあい新鮮市などが行われました。



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