23日(金)はサー、ザーと雨が降り風も強く、昼間はヒンヤリと感じられました。
▽ 毎朝恒例の撮影は、視察が続きましたので18日(日)撮影した万平集落上空からの風景です。
万平集落上空からの風景
2日目の視察の夕方に、日本三大夜景にして、世界三大夜景でもある函館山に行きました。
日本三大夜景とは函館山・摩耶山(神戸)・稲佐山(長崎)、世界三大夜景とは函館山、ビクトリアピーク(香港)、ポジリボの丘(ナポリ)です。
標高333mからの眺望は、天気が良かったので、眼下の函館市街はもとより、津軽海峡を挟んで、我々が来た遠く下北半島をも望むことができました。
夜景は、陸繋島のくびれた形の市街に輝く街灯りと漆黒の海の部分のコントラスト、さらにイカ釣り漁船が漁の際に灯すランプ(集魚灯)が織り成す素敵な風景でした。
また、末広がりに伸びる光に、湾のシルエット、そして函館山の反対にある山々が相重なり合って、とても美しい夜景を魅せてもらいました。
視察3日目は朝から風雨が強く傘をさしての視察でした。最初に函館朝市に少し寄ってから、トラピスチヌ修道院に行きました。
トラピスチヌ修道院は函館市街地の東部に位置し、前庭でまず目に入るのが大天使ミカエルの像です。かつてフランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝え、悪魔を滅ぼす最も勇敢な天使として聖ミカエルを日本の保護者と位置付けました。
第二次世界大戦中、修道女たちは守護天使ミカエルに祈りを捧げましたが、それは津軽海峡を航行する船と函館の人々を戦禍からお守りくださいというもの。この祈りが受け入れられたため、戦後の1953年にフランスから送られたミカエル像が設置されました。
聖ミカエル像の次に聖母マリア像が見えてきました。この彫刻はフランスのラ・トラップ修道院マリー・ベルナルド神父の作品です。一般的にマリア様は胸の前で手を合わせる姿やキリストを抱く姿が多いですが、このマリア像は大らかに両手を広げた姿となっています。この像が慈しみのマリア像と呼ばれるのは人々を平等に受け入れる姿に見えるからとのことでした。
前庭を歩くとスロープや階段を上るような場所が現れ、途中にはルルドの洞窟というフランスのカトリック教の巡礼地を表現したところがありました。これは1858年に南フランスのピレネー山脈の麓にあるルルドという小さな集落で発生したとされるマリア様の出現の再現です。
聖母マリアは上に立ち、ベルナデッタという名の少女が下でひざまずいています。ベルナデッタの目の前で計18回のマリア様の出現が起こり、その9回目の出現でお告げの場所を掘ったところきれいな湧水が発生しました。この水がルルドの聖水で、現在でも不治の病を治癒させる奇跡の泉として数多の悩める人々が訪れる巡礼地となっているとのことです。
レンガ色をした修道院施設は一般の人が立ち入り可能な最奥部にあり、小さな柵と塀があるためそれより先には進めません。見える範囲には司祭館や礼拝堂があり、2階部分に見えるのは小さな窓が並ぶ修道女たちの部屋などでした。
また、旗と剣を持つジャンヌダルク像が礼拝堂の外壁に掛けられていて、神のお告げを信じ民衆のために尽力した生涯は修道者たちの鑑となっているとのことでした。
また、敷地内には修道院に関する資料室と売店があり、そこでは修道女の一日の様子などの展示と、手作りしたロザリオ・ブレスレット・焼き菓子などのお土産品を販売していました。トラピスチヌ修道院の名物である「フランスケーキ マダレナ」・クッキー・ホワイトチョコレートなどを購入してきました。
視察の最後は、五稜郭タワーに上りました。ここは、平成18年4月1日にオープンした新タワー(2代目)で、高さ107m(避雷針高)。展望台から見えるはずの函館山や津軽海峡、横津連峰の山並みは、ガスっていて見ることができませんでしたが、特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の眺望は見ることができました。
展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や強化ガラスの床で下が見える「シースルーフロア」、「売店」、「カフェスタンド」などがありました。
新タワーでは建物自体が五稜郭に対するこだわりを表現していて、展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしていました。
徳川幕府の命を受けた蘭学者武田斐三郎が設計を手掛け、1864(元治元)年に完成した、国内初の西洋式城郭が五稜郭です。当初は幕府直轄の役所として、後に、海軍副総裁榎本武揚率いる旧幕府軍と新政府軍が激しい戦闘を繰り広げた箱館戦争の舞台として知られています。
五稜郭公園として一般開放されるようになった1914(大正3)年以降は、春に約1600本のソメイヨシノなどが咲き誇る道南有数のサクラの名所、また、人気の高い観光地、地元市民にとっての憩いの場として、その役割を様変わりさせています。1952(昭和27)年に国の特別史跡に指定されました。
星形の城郭は、防御側の死角が少ないなどの利点があり、中世ヨーロッパを中心に普及していました。幕府は開港に伴う防備強化を図るため、五稜郭築造に着手しましたが、建設途中で財政難に陥り、一部の計画変更を余儀なくされました。人馬が出てくるのが直接見えないようにするための変形した菱形状をした土塁「半月堡または馬出塁」は、5つを設ける予定でしたが、一の橋を渡った右手にある1カ所になったほか、備前御影石を用いるとした石垣は、大部分が函館山から切り出した安山岩で、裏門側には亀田川で集めた石を使用しています。およそ7年を費やして出来上がった五稜郭に、箱館山の麓(現元町公園)にあった奉行所が移転しました。
1867(慶応3)年の大政奉還により、明治新政府が奉行所の業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府にしましたが、江戸開城に納得しない榎本らは、蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げるも、新政府軍の反撃に屈し、明治2年5月に五稜郭を明け渡しました。
今回の視察は、原子力発電所の仕組みから、建設による各種の交付金・補助金を活用した施策、マグロを中心に町おこしをしている取組、歴史のある施設、名所などを視察させていただき、行程を企画していただきました事務局に感謝申し上げます。
▽ 毎朝恒例の写真の万平集落上空からの風景の続きです。
その他生坂村では、保育園で視力検査、小学校でALT・マラソン事前検診(高学年)・職員健康相談、乳児健診、上生坂A班の皆さんの元気塾、ハチクの会役員会などが行われました。