よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道「西国街道」を歩く(厚狭~厚東)4日目

2013-01-09 20:46:50 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月5日9時50分前回ゴールの厚狭駅に到着
今日は厚狭から厚東(ことう)駅まで歩きます。
厚狭駅前では寝太郎像の他に「献眼をたたえる碑」が平成24年6月に建てられていました。
山陽小野田市は献眼を推進していて「ほんとうにありがとう」という碑文は
日本で最初に献眼を受けた方の詩を元に作られました。
  

駅前を右に歩き前回のゴール地「祐念寺」に向かいます。

祐念寺は弥生時代の古墳がある所としても知られています。

鴨神社、雑賀神社を経て、ここで街道とは異なる厚狭高校南校舎に行ってきます。
この厚狭高校の前身は明治6年毛利勅子が日本で3番目になる「船木女児小学」です。
校舎には古くて貫録のある「同窓会館」がありました。


再び街道に戻ります。
埴生田堤、庚申塚を通り2号線に合流しました。
  
ここが西見峠といってここから「宇部市」に入ります。この街道歩きも下関市に始まって山陽小野田市と3つ目の市です。


街道は逢坂の信号から左に入ります。
街道は山道でどこまで続くのかと思いましたが100mぐらいの距離でした。
そこには地区のボランティアの方が建てられたのでしょうか、街道の碑がありました。
  
この横には「逢坂観音堂」があります。船木に住んでいた千林尼が堂主を務めていた観音様です。
行ったときちょうど地区の方が中で作業されていましたので許可を得入りました。
木造十一面観音菩薩立像は八月のお盆に公開されているそうで見ることはできませんでしたが
写真がありましたのでそれを写しました。
     

また千林尼は、山陽小野田市のHPによると
 船木逢坂の観音堂に住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、
 自ら托鉢をして浄財を集め、敷いた石畳道の一つで、文久2年(1862年)8月に完成した。
 現存の石畳道はその一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mである。
 市指定文化財。(平成6年12月14日指定)

この観音堂の下にも一部残っていました。

街道は国道2号線に沿っています。小野川を渡り先に進みますと銭ケ原の手前で旧道になっていますが、
入り道がわからずそのまままっすぐに進みます。
しばらく歩くと船木の町が見えてきました。歩道橋を渡ると「船木宿」です。
  
まず見えてきたのが「大木森住吉神社」
   
その横にはお地蔵様があります。
先に進みますと船木の旧家が残っています。
   
   
街道の交差点の所には「旅人荷付場跡」が。横には船木宿の説明看板が建っています。
   
船木宿は旧楠町の中心地で江戸時代は山陽道の要所としての地位を確立していました。
然し1900年に山陽本線が開通し、隣町の厚狭に駅ができたため、町の中心が厚狭に移りました。
そのためかまだ昔の面影が残っています。
平成17年宇部市と合併し「宇部市」に編入されました。
また、1913年ごろは宇部駅との間に船木軽便鉄道が敷設されていました。(1961廃止)
その名残でしょうか、このあたりの路線バスは「SENTETU」です。
 ※宇部市楠支所:この辺りに御茶屋、宰判勘場がありました。
※脇本陣があったとされる。
 ※明治初期には願正寺に寺子屋がありました。
願正寺の横には高札所跡。
岡崎八幡宮は船木の氏神様。全国で4社しかない清酒醸造許可を持っています。
岡崎八幡宮の先には一里塚があります。安芸国まで27里(108km)、赤間関まで9里(36km)となっています。
赤間(下関)からもう36kmも歩いてきたんですね。

先を行くと宇部興産専用道路があります。その手前には「六地蔵」が建っています。
宇部興産専用道路のガードをくぐると2号線に出てきます。
この2号線車の通行が多くおまけに歩道がありません。
スピードを上げてカーブを曲がっていく車に気を付けながら歩いていきます。
  
新幹線のガードを抜けると厚東の町に入ってきます。

すぐ目につくのが正覚寺。表から見ると学校みたいな建物です。
  
正覚寺先の信号を右に行くと本日のゴール地「厚東駅(ことう)」です。時間は午後2時。

駅前には厚東の観光案内版が建てられていました。厚東という地名は中世長門国守護であった厚東氏からとられています。


本日のGPSです。