よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「嘉川~四辻」6日目

2013-01-15 09:12:44 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月12日~13日と泊りがけで旧山陽道を歩きました。
12日、朝6時半ごろ車で福岡を出て新山口駅に着いたのが9時半。新山口に車を置き電車で前回ゴール地
「JR嘉川駅」に移動しました。
嘉川は古代律令時代では、「賀宝」という駅でした。
町を歩くと旧家が残っています。
  
更に歩くと山陽道の碑の横に顕彰碑が建っています。「本間源三郎顕彰碑」
本間家は江戸期に地域の庄屋職を歴任し、明治期の当主である「本間源三郎」は初代嘉川村村長、
県会議員、衆議院議員を歴任された方です。また本間家の書物を山口大学に寄贈されました。
  
宇部線の線路を横断し少し坂道に差し掛かります。
また宇部線を通ると小郡宿に入ります。小郡は吉敷郡小郡町でしたが2005年山口市と合併し山口市になりました。
また、JR小郡駅は2003年「新山口駅」と改称され山口市の玄関口としての役割をしています。
   
旧山陽道は、9号線に合流します。
駅に通じる信号を渡ると粟島神社があります。
  
この辺りに小郡宿本陣の「三原屋跡」があるはずなんですが、探しても見つかりません。
何人かの方に聞いたら「西中国信用金庫」の所と教えていただき、すぐそちらに行きました。
  
三原屋本陣は、歴史的な事件「三原屋事件」の舞台です。
 長州藩は文久3年(1863)5月10日赤間関(下関)で全国に先駆け攘夷を決行したのでこれを中止する詰問使者として
 幕府使番中根市之丞等が艦船朝陽丸で現地に来て協議するも話し合いがつかず藩侯毛利敬親に目通りのため
 本陣三原屋に入った。この時たまたま藩侯が病気のため快癒を三原屋で待っていた。
 8月19日壮士数人が三原屋を襲い幕府目付鈴木八五郎他長谷川勇助、須原栄の3名が暗殺され
 中根市之丞は難を逃れ脱出したが翌々日帰る途中防府市中ノ関沖の船上で暗殺された。
 これを「三原屋事件」という。

この辺りが「津市」という所、つきあたりの道を右折すると「新丁」です。
曲がったところに「道標」がありました。
   
「右、京都、江戸 」「左、萩、山口、石見(島根)」小郡は萩や石見に向かう交通の要所だったのでしょう。
また、一面には「牛馬を繋いではいけない」とも書かれています。

その新丁の町には旧家が立ち並んでいます。
そのうちの金物屋さんに入って話を伺うとこの金物屋さんで130年、元乾物屋さんも140年ぐらい、布団屋さんもその位の
歴史を持っているそうです。
  

金物屋さんの所を左に曲がると「御茶屋跡、勘場跡」です。
御茶屋とは、藩の公的な宿泊施設であってもともと藩主の参勤交代や国内巡行の便宜のため藩内各地に設けられました。
勘場とは、萩から出張してくる代官の勤務する役所で御茶屋に隣接し建物が105坪、付近には物品蔵などの
建物が3軒あった。勘場には大庄屋が毎日出勤し算用師などの勘場地下役人を指図して行政を取り仕切っていた。
  
ここの楠も金物屋さんの祖先が植えられたそうで3本あったのが枯れて1本になったそうです。

山口線の踏切を抜けると椹野川に差し掛かります。ここが東津橋。渡るとすぐ右へ
新幹線のガードの手前に一里塚があります。

ガードを渡ると陶(すえ)に入ります。
陶という地名も珍しいなと思っているとこんな看板がありました。
   
艫綱(ともづな)の森
  陶市のはずれの高台に石碑や石祠などが並んであり、「艫綱の森」と呼ばれている。
百済の皇子琳聖太子が推古天皇19年(611)にこの地に上陸されたと伝えられており、
寄宮神社として祀られてきた。以前は200m南の国道の傍にあったが、
国道工事のため、この地に移設された。太子は陶の土がやきものに適しているのに
気付き村人に土器の製法を教えられたといわれている。



陶小学校の「陶めぐり歌」には陶の歴史を折り込んだ歌です。
1 陶(すえ)のむかしをたずねれば りんしょうたいしの上陸で
  ともづなの森 すえの土器 国のたからのかまのあと

2 陶のたからはゆたかです じけのあと地としょうご寺に
  県下さいこのぶつぞうと 陶のやかたがしのばれる

3 大内(おおうち) 陶がおこりの地 守(まも)りぼとけのぶつぞうは
  かむらさきから すえがだけ 今はロンドンはくぶつかん

4 むかしのかいどう一里塚(いちりづか) ここで休んで山口へ
  一本松のささやきで むかしの旅がしのばれる

5 かすがやしろのえまを見て むかしの陶がまのあたり
  第一鳥居(だいいちとりい)のあるばしょに ふしぎな石で立石(たていし)と

6 歴史のあとのこあざには 陶のむかしがよみがえる
  せんこ ついじ いせんぼう かじやばたこに とくせんびら

7 陶は南にひろがって ながずま せはらと陸になり
  つづくけいあん げんろくと 陶の歴史はたからです

8 水をひくことはかすこと 水でくるしむ今むかし
  おどろくほどのため池と 百谷(ももたに) 刎田(はねだ)と綾木川(あやぎがわ)

9 力あわせて はたらけど かんしゃの気持ちをわするなと
  母校の石にきざまれた むかしの人のねがいあり     
(山口市立陶小学校HPより)

陶(すえ)には上市と下市があり、このあたりは下市になります。
下市には恵比寿社がありました。

橋を渡ると上市になります。
こちらにも恵比寿社があります。下市の恵比寿と違い赤い祠になっています。

春日神社の鳥居を通るとその先に石が建っています。
  
説明文では「昔から平石、平岩、建石、立石などと呼ばれているがいつごろ誰が何のためにたてたのか
解らない。ただ阡陌(せんぱく)の方向に建てられているから東西南北の目印にしたのではないか」と書かれています。
橋本川を渡ります。面白いことにこの橋は「橋本橋」向こうの広い道の方には「四辻橋」となっています。
  
鋳銭司(すぜんじ)に入ってきました。
先ず行ったのが四辻駅裏にある「大村益次郎生誕地」。
  
この碑は山県有朋の書です。
大村益次郎ですぐ頭に浮かぶのはNHK大河ドラマ「花神」。あれは1977年の作品ですのでもう36年前ですね。
あの時はドラマと並行して司馬遼太郎原作の「花神」も読みました。

大村益次郎生誕地から鋳銭司跡に行ってみます。
  
この周防鋳銭司ができたのが825年、日本では平安時代初期です。ここで造ったお金をどうやって都に運んだか
また管理はどうだったかいろいろ考えてみると古代の人は私たちが考えているよりもっと凄かったかもしれません。

鋳銭司跡を見てついでに鋳銭司郷土館を見ようとまた歩き出します。
大村神社、鋳銭司郷土館は長沢池の所から入ります。
約10分ぐらいで大村神社に到着。
  
大村神社の横には鋳銭司郷土館があります。
入場料100円を払い館内へ。
ここでは第一展示室が大村益次郎関係、第二展示室が鋳銭司関係です。
  
  

時間も4時を廻りました。本日はここまでとし本日のホテルに行くために四辻駅に戻りました。


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