山陽道(西国街道)歩き15日目
朝、徳山のホテルを出発し昨日ゴール地JR玖波駅へ。9:30ウオーキング開始。
天気予報は北部九州は雨とのことですが、ここ大竹では午後3時ぐらいから雨との予報。
今日は3時ぐらいまで歩こうと思っています。
玖波駅を出て海岸側に出ると玖波宿に入ります。
玖波宿本陣跡は、JAの向かい側にありました。
玖波宿は、町内を23丁30間(約2,6km)に渡っていました。
寛永12年(1635)に参勤交代制度が確立されると本陣は幕史や大名の宿泊にあてられました。
慶応2年(1866)征長の役では、激戦地となり民家423軒焼失、1688人罹災しました。
そのため防火袖壁(うだつ)を備えた家が多くなりました。
現在の街並みは明治になってからです。
この本陣跡の並びには「起こり(むくり)屋根」と呼ばれる屋根の中ほどが盛り上がる形式の旧家があります。
玖波宿の街並みです。「うだつ」のある家が見られます。
町並みを抜けるとトンネルがあります。ここから海岸線に出てきます。さて、街道は???
近くで草刈り作業されている方に聞くと途中まで案内してくれるということです。
民家と民家の間を抜け(これも街道です)、土手を上ります。
見ると草茫々です。ひょっとして「マムシ?」が出るのでは・・・・一瞬私の脳裏にそれがかすみました。
私がそう思ったのを察知されたのか、野菜支柱用の「イボ竹」をくださいました。
そのイボ竹をたたきながら山道を歩きます。
5分ぐらい歩くと山陽本線トンネルの上を歩くようになっています。道幅50cmぐらいでしょうか?
このフェンスからはみ出たら・・・などと余計なことを考えたりします。
それから約5分ぐらいで「鳴川の石畳」に出てきました。なんとかこの峠越せたようです。
地元の方には大変お世話になりました。
一旦平地に出て次は「残念社」を目指します。
残念社と何か珍しい社ですが、これは
「慶応2年(1866)7月9日四十八坂を単騎で西に向かって馳せやる幕府軍の武士がいた。
これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして狙撃してしまった。その武士は「残念」といって倒れた。
この武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で軍使として長州軍営に赴く途中であったことがわかり長州軍は
遺憾の意を表した。残念社は村人が伴蔵の戦死を悼んで祭った。」
命を奉じて単騎敵営に向かう哀心願う所は只和平
惜しいかな涙を呑んで中道に斃る幕畔長に留る残念の声
地元の方は「残念さん」と呼んでいるそうです。
その残念社の横に「吉田松陰腰掛の石」があります。
ここは、三県一望の地と詠んでいますが、現在は木が茂り見えません。
雨がポツリポツリと降ってきましたがまだ傘をさすぐらいではありません。街道は「宮浜温泉」を過ぎました。
この西国街道には、応安4年九州探題に任ぜられた今川貞世(了俊)が下るときに歌を残しています。
「古代山陽道の道」という案内板の所を行ってみると昔の石畳が残されています。
その先には今川貞世の歌碑があります。近くの民家の庭先には珍しいお花がさいていました。「フェイジョア」というそうです。
浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たき火なりけり
12:14JR大野浦駅に着きました。
駅の横には一里塚と今川貞世の歌碑があります。
おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ
「大野浦」の地名はこの歌からとったそうです。
雨は小雨ですが身体に感じるぐらいになりました。このまま駅から電車に乗って帰ろうか、いや折角来たのだから傘をさしても今日の目的地まで
行こうかと家内と相談しましたが、折角来たのだから行こうという結論に達しました。これからは傘をさしてのウオーキングです。
大野浦駅から1kmぐらい歩いたところに「道標」が建っています。
見てみると「右 宮島・広島 左 宮内 妹背滝道?」
JR山陽本線もここからは海沿いに宮島方向へ、西国街道は山陽自動車道沿いの山側になります。
滝の下の信号を左に入ると前面に大きな鳥居があります。
新幹線、高速のガードを潜ると「大頭(おおがしら)神社」があります。
大頭神社は、厳島神社の攝社として推古天皇の11年(603)に創建されたものです。
平清盛が安芸の守であった当時から毛利・福島・浅野の三家を経て廃藩にいたるまで社領米を付せられていた。
ここには「妹背(いもせ)の滝」があります。
雄滝と雌滝の夫婦滝で雄滝は、高さ30m、雌滝は、高さ50mです。
このところ雨が少なく滝量も減っているように見られます。
再び滝の下の信号に戻り西教寺の所から新幹線沿いに歩きます。しばらく行くと山手の方に行きます。
征長の役の「陣馬跡」、大野で一番古い「高畑溜池」を通ります。
この高畑には貝塚など史跡が多く昔はこの辺りまで海だったのでしょうか?
孝子久蔵の碑があります。
久蔵は江戸末期の人で高畑に住み孝子の誉が四隣に高かった。特に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物を求め常に母を背負うて
寺院に参詣する等 母の喜びを以って己が喜びとした。
寛政5年七月藩主が米三俵を贈り孝子の鑑みとして之を賞した。
この地区には大頭神社縁起書に「大野次郎伝説」があります。
それによると
推古天皇(593~628)の時代 勅命で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野町に降り、
田畑を開いて農業を始めました。
総領の次郎は土井、兄の太郎は鳴川、弟三郎は原、四郎は中山、十郎は鯛の原を夫々開墾したと伝えられています。
太郎峠、十郎峠という地名が現存しています。
次郎を祀ったお宮が「新宮神社」です。地元では「新宮さん」と呼ばれているそうです。
更に先に進むと街道は山手の方に向かいます。
すぐ横を高速道路が通っています。
今までこの街道を歩いて感じたのですが、どうもこの山陽自動車道は旧街道を走っているように思えます。
ここには「三槍社(みやりしゃ)」がありました。
三槍社は、大頭神社の攝社の一つで祭神は葉山祇尊。西北の山麓に三つの谷があり、槍状の谷間から命名されたそうです。
一里塚を過ぎ高速の方を見ると大きな建物があります。
何だろうと思うと看板に「海の見える杜美術館」と書いてあります。
中山という地区にも今川貞世の歌碑がありました。
雨は小雨ですが本降りになってきました。地図を見ると宮内駅まではあと少しです。
廿日市JCTのガードを越え畑口の信号の所に「道標」があります。
この道標は古くて読めませんが、津和野街道分岐点だろうと思います。
宮内交番の交差点に「専念寺」があります。昔はここにお茶屋さんがあったそうです。その向かい側には一里塚です。
この一里塚昭和57年に建てられました。
15:12JR宮内串戸駅にゴール。
今日のGPSです。次回は広島市内に入ります。
朝、徳山のホテルを出発し昨日ゴール地JR玖波駅へ。9:30ウオーキング開始。
天気予報は北部九州は雨とのことですが、ここ大竹では午後3時ぐらいから雨との予報。
今日は3時ぐらいまで歩こうと思っています。
玖波駅を出て海岸側に出ると玖波宿に入ります。
玖波宿本陣跡は、JAの向かい側にありました。
玖波宿は、町内を23丁30間(約2,6km)に渡っていました。
寛永12年(1635)に参勤交代制度が確立されると本陣は幕史や大名の宿泊にあてられました。
慶応2年(1866)征長の役では、激戦地となり民家423軒焼失、1688人罹災しました。
そのため防火袖壁(うだつ)を備えた家が多くなりました。
現在の街並みは明治になってからです。
この本陣跡の並びには「起こり(むくり)屋根」と呼ばれる屋根の中ほどが盛り上がる形式の旧家があります。
玖波宿の街並みです。「うだつ」のある家が見られます。
町並みを抜けるとトンネルがあります。ここから海岸線に出てきます。さて、街道は???
近くで草刈り作業されている方に聞くと途中まで案内してくれるということです。
民家と民家の間を抜け(これも街道です)、土手を上ります。
見ると草茫々です。ひょっとして「マムシ?」が出るのでは・・・・一瞬私の脳裏にそれがかすみました。
私がそう思ったのを察知されたのか、野菜支柱用の「イボ竹」をくださいました。
そのイボ竹をたたきながら山道を歩きます。
5分ぐらい歩くと山陽本線トンネルの上を歩くようになっています。道幅50cmぐらいでしょうか?
このフェンスからはみ出たら・・・などと余計なことを考えたりします。
それから約5分ぐらいで「鳴川の石畳」に出てきました。なんとかこの峠越せたようです。
地元の方には大変お世話になりました。
一旦平地に出て次は「残念社」を目指します。
残念社と何か珍しい社ですが、これは
「慶応2年(1866)7月9日四十八坂を単騎で西に向かって馳せやる幕府軍の武士がいた。
これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして狙撃してしまった。その武士は「残念」といって倒れた。
この武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で軍使として長州軍営に赴く途中であったことがわかり長州軍は
遺憾の意を表した。残念社は村人が伴蔵の戦死を悼んで祭った。」
命を奉じて単騎敵営に向かう哀心願う所は只和平
惜しいかな涙を呑んで中道に斃る幕畔長に留る残念の声
地元の方は「残念さん」と呼んでいるそうです。
その残念社の横に「吉田松陰腰掛の石」があります。
ここは、三県一望の地と詠んでいますが、現在は木が茂り見えません。
雨がポツリポツリと降ってきましたがまだ傘をさすぐらいではありません。街道は「宮浜温泉」を過ぎました。
この西国街道には、応安4年九州探題に任ぜられた今川貞世(了俊)が下るときに歌を残しています。
「古代山陽道の道」という案内板の所を行ってみると昔の石畳が残されています。
その先には今川貞世の歌碑があります。近くの民家の庭先には珍しいお花がさいていました。「フェイジョア」というそうです。
浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たき火なりけり
12:14JR大野浦駅に着きました。
駅の横には一里塚と今川貞世の歌碑があります。
おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ
「大野浦」の地名はこの歌からとったそうです。
雨は小雨ですが身体に感じるぐらいになりました。このまま駅から電車に乗って帰ろうか、いや折角来たのだから傘をさしても今日の目的地まで
行こうかと家内と相談しましたが、折角来たのだから行こうという結論に達しました。これからは傘をさしてのウオーキングです。
大野浦駅から1kmぐらい歩いたところに「道標」が建っています。
見てみると「右 宮島・広島 左 宮内 妹背滝道?」
JR山陽本線もここからは海沿いに宮島方向へ、西国街道は山陽自動車道沿いの山側になります。
滝の下の信号を左に入ると前面に大きな鳥居があります。
新幹線、高速のガードを潜ると「大頭(おおがしら)神社」があります。
大頭神社は、厳島神社の攝社として推古天皇の11年(603)に創建されたものです。
平清盛が安芸の守であった当時から毛利・福島・浅野の三家を経て廃藩にいたるまで社領米を付せられていた。
ここには「妹背(いもせ)の滝」があります。
雄滝と雌滝の夫婦滝で雄滝は、高さ30m、雌滝は、高さ50mです。
このところ雨が少なく滝量も減っているように見られます。
再び滝の下の信号に戻り西教寺の所から新幹線沿いに歩きます。しばらく行くと山手の方に行きます。
征長の役の「陣馬跡」、大野で一番古い「高畑溜池」を通ります。
この高畑には貝塚など史跡が多く昔はこの辺りまで海だったのでしょうか?
孝子久蔵の碑があります。
久蔵は江戸末期の人で高畑に住み孝子の誉が四隣に高かった。特に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物を求め常に母を背負うて
寺院に参詣する等 母の喜びを以って己が喜びとした。
寛政5年七月藩主が米三俵を贈り孝子の鑑みとして之を賞した。
この地区には大頭神社縁起書に「大野次郎伝説」があります。
それによると
推古天皇(593~628)の時代 勅命で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野町に降り、
田畑を開いて農業を始めました。
総領の次郎は土井、兄の太郎は鳴川、弟三郎は原、四郎は中山、十郎は鯛の原を夫々開墾したと伝えられています。
太郎峠、十郎峠という地名が現存しています。
次郎を祀ったお宮が「新宮神社」です。地元では「新宮さん」と呼ばれているそうです。
更に先に進むと街道は山手の方に向かいます。
すぐ横を高速道路が通っています。
今までこの街道を歩いて感じたのですが、どうもこの山陽自動車道は旧街道を走っているように思えます。
ここには「三槍社(みやりしゃ)」がありました。
三槍社は、大頭神社の攝社の一つで祭神は葉山祇尊。西北の山麓に三つの谷があり、槍状の谷間から命名されたそうです。
一里塚を過ぎ高速の方を見ると大きな建物があります。
何だろうと思うと看板に「海の見える杜美術館」と書いてあります。
中山という地区にも今川貞世の歌碑がありました。
雨は小雨ですが本降りになってきました。地図を見ると宮内駅まではあと少しです。
廿日市JCTのガードを越え畑口の信号の所に「道標」があります。
この道標は古くて読めませんが、津和野街道分岐点だろうと思います。
宮内交番の交差点に「専念寺」があります。昔はここにお茶屋さんがあったそうです。その向かい側には一里塚です。
この一里塚昭和57年に建てられました。
15:12JR宮内串戸駅にゴール。
今日のGPSです。次回は広島市内に入ります。