よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№17(その2)「池鯉鮒宿~岡崎宿」(愛知県知立市~岡崎市)

2017-01-15 08:04:29 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

旧道を歩いて御林の交差点で1号線と交差します。右側には大きな松の木が・・・・・・ここが「知立の松並木

知立の松並木は、近年まで牛田~山町まで約1km続いていたのですが、住宅が次々と建てられ、今では、450mほどになりました。戦前まで昼なお暗い程、鬱蒼としていましたが、

昭和34年の伊勢湾台風で60~70%の松が折られたり、根ごと吹き飛ばされていました。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松くい虫の防除に努め、昔の姿を今に留めています。

   

  

広重の53次の浮世絵にも知立の松並木が描かれてています。松並木の側道には、モニュメントも設置されています。

   

また、ここでは、毎年4月末から5月初めまで馬市が催され、近郷近在から人々が集まり賑わったといわれています。広重の池鯉鮒宿には、この馬市が描かれています。

 

松並木の近くの喫茶店でランチを頂き、再び出発。

伊勢物語の「八橋」がどうも気になり、先ほどの喫茶店で場所を聞くとここから歩いて15分ぐらいの所に「無量寿寺」があるというのでそこに行ってみることにしました。

途中、来迎寺小学校信号の先に「来迎寺一里塚」がありました。ここも街道の両側に完全に残されていました。

  

 平安時代に書かれた「伊勢物語」の第9段で在原業平が詠んだという項があります。(学生の頃習いましたが、もう忘れています。(笑))

昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、(かれいひ)食ひけり。

その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め」といひければよめる。 

らころ(唐衣) 

つつなれに 

ましあれ 

るばるきゆ 

びをしおも  

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落として、ほとびにけり。

句の意味は、「馴染んだ唐衣のように馴れ親しんだ妻が都にいますので、はるばるこんな田舎まで旅をして来たものだ、と悲しくなるんです」となります。

句の上の「か・き・つ・ば・た」は、見事に使われていますが、最後の「ふ・る・ば・し・も」も八橋にかけているのでしょうか?

来迎寺町の信号を左折。しばらく行くと「八橋かきつばた園」があります。残念ながらカキツバタは、4月ごろに咲きますので閉まっていました。

   

無量寿寺」です。今は、杜若(かきつばた)のシーズンではないので寺院内はひっそりとしています。寺院内を歩いてみます。

  

  

【芭蕉句碑】

かきつばた 我に発句の おもひあり (芭蕉)  ・麦穂なみよる 潤ひの里 (知足)

芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年貞享2年(1685)4月に鳴海の俳人下里知足の家を訪ね、その時開かれた俳席での作です。

【八橋古碑】碑文は、「八橋紀事并王孫歌」と題され八橋と業平の故事それについての感慨が漢文で書かれていますが、難解なことで有名です。

 

【業平竹】一説には、竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出す為、色男と言われる業平に見立てました。男女竹と称され、縁結びの竹として信仰されました。

【ひともとすすき】謡曲「井筒」の故事にならって植えられました。「八橋の一もとすすき穂にいでてはるばる来ぬる人まねくらん」

このすすきの葉を片手で結ぶと願い事が叶うという言い伝えから縁結びのすすきと言われています。

 

 

杜若供養塔】杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕ってやっとこの八橋の逢妻川で追いつきましたが、業平の心を得ることが出来ず、悲しんで池に身を投げて果てたと

伝えられています。この塔は姫をあわれみ後の世に供養して建てたものです。

  

無量寿寺を出て再び街道に合流します。来迎寺町の信号の所に「元禄元標」があります。これは元禄九年(1696)に在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標として建てられました。

  

猿渡川橋を渡ると「安城市」になります。橋には、東海道松並木がデザインされています。

  

安城市のマンホールは、三河万歳で使われる扇、鼓がデザインされています。三河万歳は、安城市の「別所万歳」、西尾市の「森下万歳」が有名です。

もう一つは、雨水で安城市の七夕まつりがデザインされています。

     

永安寺には、「雲竜の松」があります。幹周り4,4m、樹高4,8m、枝張り東西17,9m、南北24,7m、樹齢約350年。ホント、見事です。

  

熊野神社の所に「尾崎の一里塚」がありました。またここは、「鎌倉街道跡」の案内板もありました。

建久3年(1192)鎌倉幕府が開かれると京都と鎌倉の間に鎌倉幕府が定められ、宿駅63カ所が設置されました。尾崎町では里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していました。

街道はここで右に曲り、南東へ下っていたのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいます。ここより街道は、西別府町を通り、山崎町に出て岡崎市新堀町へ向かい大和町桑子(旧西矢作)へと通じていました。

この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されています。

  

安城市尾崎を過ぎ、宇頭町の信号から岡崎市です。

   

岡崎市の旧東海道には、ボランティア連絡協議会の案内板が設置しています。

誓願寺には、浄瑠璃姫のお墓があります。

今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。

承安4(1174)年、浄瑠璃姫16歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、

折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。

しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去って行ったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。

唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2(1183)年3月12日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。

その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。

翌年の秋、旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、

「穴観音」も昭和56(1984)年の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の町名にこそ往事が偲ばれます。(岡崎観光きらり百選より引用)

この浄瑠璃姫と源義経の悲恋を脚色したのが「浄瑠璃」の始まりと伝えられています。 

  

矢作(やはぎ)橋に着きました。橋の袂には、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六「出逢いの像」があります。

説明文を見ると、日吉丸は、尾張国中村の木下弥兵衛(弥助)と妻お仲の子で八歳の頃から奉公に出されましたが、十二歳の時、奉公先の陶器店を逃げ出しました。家に帰ることも出来ず、

東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東郡蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(蜂須賀小六)という野武士の頭が手下を連れてこの付近を荒し、

矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠り込んでいる日吉丸の頭を蹴った所、日吉丸は「頭を蹴り一言の挨拶をしないのは無礼である。詫びていけ」ときっと睨みつけました。

小六は子供にしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門の傍の柿の木によじ登り、邸内に入り、扉を開いて

小六達を引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎ出しました。日吉丸は咄嗟に石をかかえ井戸に投げ込み「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が集まる隙に門を抜け、

小六達の一行についたといいます。

史実とは異なりますが、日吉丸と小六の伝説は、後の太閤秀吉と武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として今なお、私達の心に生き続け乱世の時代劇を垣間見る逸話となっています。

  

街道は、矢作橋を渡り右折します。ここには、八丁味噌の蔵が建ち並んでいます。通りには「八丁蔵通り」になっています。

平成18年(2006)のNHK朝ドラでは岡崎の八丁味噌を舞台にした「純情きらり」が放映されました。

岡崎城の西、八丁(約870m)の距離にある、八丁村(現在は八帖町)にある、東海道を挟んで2社の味噌蔵、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌の2社が江戸時代から、手を取り、時には競い合い、

伝統製法で味噌作りを行っています。まるやさんは、まだお正月休みでしたのでカクキュウさんの方に行きました。

  

 

八丁通りから今日のゴール「岡崎城」を目指します。岡崎城は家康が生まれた所として有名です。

享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城しました。家康の父・広忠が殺された後は、

今川氏の勢力下におかれていましたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城しました。家康は永禄7年(1564)三河一向一揆をおさえ、城郭の整備を行ない、ほぼ全三河を平定したことで、

後の天下統一に向けて動き出します。現在の岡崎城は、歴史資料館として市民に親しまれています。

  

 

龍城(たつき)神社は、徳川家康、本多忠勝を祭神としています。明治期までは、三河東照宮と呼ばれていたそうです。

往昔、三河の守護代西郷弾正ェ門稠頼が此の地に築城成る日、何処ともなく柳の五ッ衣に紅の袴をつけた気高い乙女が天守に現われ、「われはこれ歳久しく此の処に住む龍神なり、

汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめん」と、おりしも城中の井水噴き出で、高く天に沖し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲舞い下りて天守を包むと見るまに

龍神の姿は忽ち消えうせた。此の不思議に城主おどろき、天守楼上に龍神を祀って城地鎮守と崇め永く加護を祈り、城の名を龍ヶ城、井の名を龍の井と称えしと云う。(神社由来より)

    

菅生(素顔)神社も徳川家康公をお祀りしています。

  

岡崎城公園から歩いて東岡崎駅まで行き、それから名鉄で宿泊先の名古屋駅に戻りました。今日はよく歩きました。GPSでは、38kmを示していました。

夕ご飯は、名古屋駅構内で博多の明太子屋さんが営業しているお店に行き、博多の名物「もつ鍋」を頂きました。

旅先で郷土の食べ物を頂くのもいいですね。美味しかったです。

今日(1/5)のGPSです。