(その1)からの続きです。
笠寺観音を出てすぐの所に「笠寺の一里塚」があります。ここは、名古屋市内を通る旧東海道で唯一残る一里塚です。
尚、一里塚を造るにあたって、家康は、「え~木を植えよ」と指示しました。家臣は間違ってえ~木→ →「榎」と勘違いしそれで一里塚には、榎が植えられています。
天白橋を渡ると緑区鳴海町です。東海道40番目の宿「鳴海宿」に入りました。
左側に「鉾ノ木貝塚」の案内板が建っています。縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、
上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。昭和5年(1930)野村三郎氏により発見された。
※ハイガイ(灰貝)・・・・・・フネガイ科の二枚貝。浅海の泥底にすむ。殻長4cmくらい。赤貝に似ている。貝殻はやや方形で厚く、殻表に放射状の肋(ろく)が18本ほどあり、灰黄色の殻皮で覆われる。
三河湾以西に分布。肉は食用。貝の殻を焼き顔料にしたため、この名がついた。
丹下町常夜燈は、鳴海宿西口に設けられました。
鳴海宿の町並みです。旧家が建ち並んでいます。一軒の旧家で1階の屋根に守り神?でしょうか、珍しいものを発見しました。
鳴海宿は、天保年間の調査では、本陣1、脇本陣2、旅籠68,家総数847、人口3643人。本陣跡は、本町の所にありました。
本陣は、間口36m、奥行き51m、建坪235坪。
高札所跡が鳴海城址に復元されているそうでそちらに向かいました。
高札場復元場所のすぐ先には、「鳴海城址」があります。
鳴海城は、根古屋城とも言われ、室町時代の応永3年(1394)安原備中守宗範の築城と言われる。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将「岡部元信」がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後佐久間信盛、正勝らが城主となったが、
天正18年(1590)廃城になった。「尾張志」では、東西35間((約63m)、南北34間(約61m)で四面に堀址、本丸と二、三之丸にも堀を残すと記している。
「天神社」(あまつかみしゃ)成海神社はこの場所に創建され、1394年、安原備中守宗範が鳴海城を築城する際に移転した。
街道に戻ります。
お菓子屋の「菊屋茂富」の角から直角に曲がります。これを「曲尺の手」と言うそうです。
鳴海の町は、お寺が多い町です。街道を通ってきた中でも、如意寺、誓願寺、円通寺、万福寺、浄泉寺、瑞泉寺・・・・・・・・・7つぐらいの寺がありました。
今日4日は、一般の会社では仕事始め。お昼に近づきましたので食べる所を探しますが、どこも開いていない。まだお正月休みなのかな?
鳴海宿東の入口、平部町常夜燈の所にレストランがありましたのでそこに入ることにしました。入ると家族連れでいっぱい。
この店は、ランチメニューを選ぶとサラダバーがバイキング式になっており、サラダ、スープ、御飯、カレー、ソフトクリームが食べ放題です。
街道を歩く時は、急にお腹が痛くなったりしますので、お昼はできるだけ軽いものにしていますが、バイキングと言うと、昔、草野球で1番打者の切り込み隊長をしたせいか、俄然「ファイト」が湧いてきます。
お腹が満腹状態で再びスタート。お腹がいっぱいの為歩くのも超スローペースです。
有松の一里塚です。江戸から88里。まだまだ先が長いですね。
有松は、旧東海道と知立の宿の間に慶長13年(1608)に、間の宿として開かれた。尾張藩の症例により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、
藩の庇護も受け、絞りは有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞りと共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。
村の復興に当たり、建物は従来の茅葺きを瓦葺きにし、壁は塗り籠め造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞りの店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている。
名古屋市は有松を町並み保存地区に指定し伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並み調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。
幕末の狂歌師「梅屋鶴寿」は、 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しばしと人の 立とまりけれ と詠んでいます。
有松の町並みは、旧家が大切に保存されており、街道好きな私には、何か心が落ち着きます。
有松には、名古屋市指定有形文化財の家があります。広重の東海道53次の浮世絵には、鳴海宿有松絞りが描かれています。
【小塚家住宅】
【竹田家住宅】
【中舛竹田荘】
【服部家住宅】
有松絞りのお店「井桁屋」さんのお店の中を拝見させていただきました。
昭和61年には皇太子殿下(平成天皇)、妃殿下も行啓されています。
有松には、「布袋車(東町)」、「唐子車(中町)」、「神功皇后車(西町)」の3台の山車があります。これらは、有松の氏神、有松天満社の秋季大祭(10月第1日曜日)に曳き出されます。
昔の町並みを残す有松東海道を曳行される姿は、誠に勇壮で風情があります。道中の随所でからくり人形の演技が披露されます。(有松まちづくりの会HPより)
先を歩いていると有松郵便局に「桶狭間古戦場跡」の表示板があったので、折角ですので行ってみることにしました。
郵便局から約1,2km。約10分かけて到着。
桶狭間の戦いと言うと学生の時に歴史で習いましたね。試験には必ず出ていたような記憶があります。
桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日(太陽暦の6月22日)尾張の領主織田信長が、駿河・遠江・三河の領主今川義元の10倍に余る大軍を打ち破り、
近世という時代の幕を開けた日本史上特筆すべき戦いです。
今川義元は、25000余の兵を率いて5月18日に沓掛城に入り、翌19日8時頃、大高城へ向け出発。前日瀬名氏信が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦、丸根砦の戦果を
聞きながら休息をしていましたが、昼頃天気が急変し雷雨となり高地に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。
一方、信長は、午前4時頃清須城で鷲津砦、丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、謡曲「敦盛」を舞い、直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。10時頃には、善照寺砦に着き、
本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや間髪を入れず、今川軍に突撃。ついに今川義元を討ち取りました。
この戦いでの戦死者を信長は村人に丁重に葬るよう命じました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ッ塚」と称して残してきました。
現在、この地は、公園になっており、私達が訪れた時は、この戦を知らない子供たちが遊んでいました。
今日は、昨日の疲れか、または、お昼にたくさん食べすぎたせいか、これ以上歩けなくなりました。有松駅までは歩いて帰ろうかと思いましたら、名鉄有松駅行のバスがきました。
このバスに乗り、名鉄有松駅から名古屋駅に戻りました。明日は頑張って歩きたいと思います。