よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№19 「藤川宿~御油宿」(岡崎市~豊川市)

2017-01-17 18:53:55 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

藤川宿から赤坂宿までは、2里9町(8,8km)

藤川宿の東棒鼻を出て市場の信号で1号線と合流。これより「舞木町」にはいります。

舞木の地名は、山中八幡宮記の一節に「文武天皇(690~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる」と書いてあることから「木が舞い降りる」を取って「舞木」と付けたと言われています。

近くには、山中八幡宮、山中城址もあります。

  

街道は再び1号線に合流し、本宿(もとじゅく)町沢渡から旧道に入ります。

本宿は、名の通り、額田郡駅家郷や山中郷に属し、古代道路、鎌倉街道沿いの街として古くから栄えました。江戸時代に入り東海道が整備されると、藤川宿と赤坂宿の中間地点にある村として利用され、

のちに両宿の助郷村となりました。江戸時代初期は天領及び法蔵寺領でしたが、1698年に旗本柴田勝門が入り、本宿陣屋を構え、以降旗本柴田氏が、法蔵寺とともにこの地を治めました。

享和2年(」1802)本宿村方明細書上帳によると、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋2カ所があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめました。

 

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸と長屋門】 

宇都野龍碩 は、本宿村医家宇津野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751~1763)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれています。

七代龍碩はシーボルト 門人青木周弼 に、医学を学んだ蘭方医として知られています。 安政年間当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施しています。

街道の中ほどには、「本宿の一里塚」、「十王堂跡」があります。

   

本宿の陣屋は、元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配の為本宿村に陣屋を設けました。以来明治に至るまで存続しました。

陣屋代官職は、冨田家が世襲しました。現在は冨田病院の敷地になっています。。尚、昨年亡くなられた作曲家の冨田 勲さんは、同家の出身です。

  

本宿の東側には、「法蔵寺」があります。大宝元年(701)僧行基の開山と伝えられています。松平初代親氏が深く帰依して1387年に堂宇を建立。寺号を「法蔵寺」としたと言われています。

家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ数々の遺品が残されています。桶狭間の戦い以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなどしました。

境内には、新撰組で有名な「近藤勇の首塚」も祀られています。

 

 【御草紙掛松】徳川家康が幼少時に学問を学んだ地で、その当時家康が手習いで使用した草紙を掛けたとも、家康自ら手植えしたとも云われ「御草紙掛松」や「御茶屋の松」、「御腰掛の松」と

呼ばれるようになりました。平成17年(2005)まで3代目の松がありましたが虫害により朽ち果て、平成18年(2006)に4代目の松が植樹されました。

家康縁の地として重要視され文化12年(1815)には旗本木造清左衛門俊往が石柵を寄進しています

【法蔵寺団子】この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから法蔵寺団子と呼ばれるようになった。

本宿村方明細書上帳(享和2年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄並餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聡視録(みかわそうしろく)本宿村記(嘉永2年・1849)にも

「法像寺辺り前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付テ炙リ売ル 名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。

この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。

この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。(平成9年3月 郷土史本宿研究会)

  

本宿東入口、冠木門を過ぎ、本宿深田の信号を過ぎると「豊川市音羽町」に入ります。

  

しばらく1号線に沿って歩きます。このあたり1号線の道路幅が広く車はスピードを出して過ぎ去ります。一応歩道はありますが、あの勢いで歩道に向かってくると非常に怖いです。

音羽町は、旧宝飯郡でしたが、2008年豊川市と合併しました。

長沢小学校の所に「長沢城跡」の案内板があります。それによると、長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。

東海道を挟んで南(御城山山頂)に岩略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の全面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入り口があった

現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のとき、休憩所として建てられたといわれる御殿が、長沢小学校敷地内にあった。

そのすぐ先には「長沢の一里塚」があります。    

  

赤坂宿」に入りました。御油宿や吉田宿とともに多くの飯盛女を抱えていた赤坂宿は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ なんのよしみで江戸通い」という程活気のある宿場でした。

赤坂宿は、本陣3、脇本陣1、旅籠83、総家数400軒、人口1304人の規模でした。

【赤坂陣屋跡】陣屋とは代官所 ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが

元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(一八六九)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治五年に廃止となった。

 

陣屋跡のすぐ向えには、平成14年赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設「よらまいかん」があります。ここで少し休憩。

    

歌川広重の「赤坂宿舎招婦図」のモデルになった「大橋屋」があります。旧音羽町のマンホールにもこの赤坂宿舎招婦図がデザインされています。

大橋屋は、屋号を「伊右ヱ門 鯉屋」といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂の旅籠の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行き23間ほどであった。

入口の見世間、階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。つい最近まで営業されていましたが、平成27年3月廃業され、この建物を豊川市に寄付されています。

この浮世絵に描かれている蘇鉄は、浄泉寺境内に移植されました。

 

尾崎屋さんは、赤坂宿の民芸品店です。曲げわっぱと呼ばれる木製の弁当箱などが売られています。

  

 

宝暦年間(1751~1764)に建立された関川神社には、芭蕉の句碑「夏の月御油よりいでて赤坂や」があります。

  

赤坂宿から御油(ごゆ)宿までは、1,7km。すぐ目につくのは国指定天然記念物に指定されている「御油の松並木」。

御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され幕府によって管理されていました。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在がはっきりしなくなりましたが、

地元御油町で管理を続けました。その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、

その結果、「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、国の指定天然記念物に指定されました。

現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われています。

  

  

御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人でした。京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、御油宿で宿泊したそうです。

  

歌川広重は、東海道五十三次の浮世絵で御油宿は、旅人を宿に引き入れる「留め女」として描いています。この場所は、どこか探しますが、わかりませんでした。

 

街道の東側には、「御油松並木記念館」がありますが、時間は16時まででもう閉まっていました。

もう時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。

 

御油駅までの帰る途中通った御油橋には、浮世絵がレリーフされていました。

  

御油駅には、16:25に到着。時刻表を見ると普通電車は、30分に1本しかありません。隣の国府(こう)駅には、特急も急行も止まりますのでもう少し街道を歩いて国府(こう)駅まで歩けばよかったかな・・・・・・・・・

豊橋駅では、イルミネーションが綺麗でした。