3/6(土)は、ふくおかウォーキング協会の例会「いいづか雛のまつりウォーク」でした。
集合場所は、JR飯塚駅。参加者36人。
飯塚市は、福岡県の中央に位置し、旧藩時代は長崎街道の宿場町として賑わい、更には明治以降は、全国一の産出量を誇る筑豊炭田の商業文化の中心都市として繁栄した街です。
又、長崎街道は、砂糖の道「シュガーロード」とも呼ばれており、文化庁からも砂糖を広めた「長崎シュガーロード」として日本遺産に認定されました。
その街道では、菓子作りの文化が広まりました。かつての炭鉱夫達が甘いものを好んで食べていたこともあり、九州を代表する銘菓発祥の地として発達しています。(ひなまつりパンフより)
ですが、福岡県は1/14からの緊急事態宣言で、この飯塚の雛まつりも中止になってしまいました。
9:30JR飯塚駅スタート。
遠賀川を渡ります。
遠賀川の土手には、柳原白蓮の歌碑が建っています。 柳原白蓮の説明はこちら「柳原白蓮」
「師の君の 来ますむかうと 八木山の峠の若葉 さみどりのして」
意味は、「早春の頃に自分の師が遠い九州の地に来て頂く折に博多駅に出迎えに行く途中、八木山は新緑に燃え、若葉に自分の心境をだぶらせ、すがすがしい気分で峠を越え、
師との再会に心も弾んでいた気持ちを表した歌です。」
嘉穂劇場は、昭和6年(1931)開場しました。
嘉穂劇場から東町商店街に向かいます。居酒屋の看板には、全部魚篇で「馬」が描かれています。
本町商店街へ。
お菓子の「ひよこ」の雛飾り。
納祖八幡宮 飯塚の総鎮守。子守の神様として信仰されています。約1700年前、神功皇后がこの地を訪れ、ここに祭壇を設けて戦勝報告の祭典を行い、その折別れを惜しむ兵士や郷民に「何日亦逢」
といわれたので「いつかの里」と呼ばれるようになったといわれています。
納祖八幡宮から飯塚緑道へ。飯塚緑道は、昔の飯塚川跡です。
千鳥屋本店(千鳥饅頭)
千鳥屋から商店街を抜け、太養院へ。西暦1600年頃、太閤秀吉高麗出陣の時、福岡藩初代藩主黒田長政が豊前の中津より出陣しましたが、往復とも父官兵衛と共にこの寺に宿泊しました。
飯塚宿の本陣は、片島交流センターにありました。
納祖八幡宮で「飯塚」の町の由来を書きましたが、由来のもう一つの説は、昔、明星寺という寺の造営が行われた時、その開堂供養の祭りに飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に
集めたところ、飯の塚ができたのでそれから「飯塚」と呼ぶようになったともいわれています。
飯の山から勝盛公園に向かいます。勝盛公園は、飯塚市の中心部にある一番古い公園です。近隣の小学校が必ず遠足で訪れます。
園内には、ソメイヨシノが450本あり飯塚の桜の名所です。また、石炭輸送で活躍したD60型の機関車、6世紀ごろの櫨山古墳もあります。
池には、黒鳥もいました。
櫨(はぜ)山古墳 案内板の文字が消えかけています。文字を拡大して読んでみました。
この古墳は、対象10年8月、この地で行われた造成工事で偶然発見された。金銅製馬具など多数の副葬品が発見されたが、特に金銅製帯金具は有名で布製の帯に金銅透彫の金具を鋲留した
美しい飾り帯である。類品は、むしろ朝鮮半島南部の新羅時代の古墳の出土品にみられ、半島で作られたものがこの地に伝わったと考えたい。
この古墳の主人公は、朝鮮半島の国々と特別な関係を持っていた人に違いないが、その頃のこの地方の豪族たちには、このような例が決して少なくなかったのではないかと思われる。
古代飯塚地方の歴史や文化に日韓の交渉が深かったことを教える注目すべき古墳である。築造年代は、6世紀の頃であろう。
勝盛公園から飯塚宿西構口に来ました。ここからゴールの飯塚駅を目指します。
今日は、個人的に飯塚に住んでいる姉に会うことにしていますので、飯塚駅の途中の「トライアル」で仮ゴールしました。
飯塚ひな祭りが開催されていたらもっと雛飾り(伊藤伝右衛門邸、麻生大浦邸など)が見えたのですが、緊急事態宣言中では、中止もやむを得ないですね。
今日のGPSです。